厳しい現実社会を生き抜く私たちには、悩みが尽きません。そんな私たちにオススメなのが、ズバリ「読書」なのです!
9月19日刊行、三宅香帆さんの『副作用あります!? 人生おたすけ処方本』は、人生のお悩みに合わせて「よく効く本」を処方してくれます。本書から、こんなときにはこの名著、というお話を少し、ご紹介いたします。
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女になりたいときに読む本:太宰治『女生徒』(角川文庫)
効く一言:きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。
「女の子」という名称に過剰に託された期待が嫌いだ。
なんだか、女の子には無限のパワーがあるとか、女の子文化とか、そういう言葉がいつの間にか蔓延している。気がする。私の気のせいだろうか? それとも私の身の回りに多いだけなのか。
あまり多くの人にわかってもらえない前提で言うけれど、私は、女の子、というときの妙な優越感と自意識の肥大化を許してしまう空気が嫌いだ。
無駄に女の子に期待する文化。女も男も、である。宮崎駿はいつまでナウシカに世界を救っていただくつもりなのか。秋元康はいつまで女の子に被災地訪問させるつもりなのか。いや自分で救えよ、自分で行けよ、女の子に変な期待を、するな~~~! と、妙に凶暴な気分になる。まったく女の子も女の子だ、自意識を肥大させて許されるのは中二病までだろ! フリルとファンタジーの世界に甘えんじゃねえ! と頭をはたきたくなる。
……と、ここまで言っておいてなんだけど、しかし私は女の子が大っ好きである。いや恋愛対象は男性なんだけれども、調査や思考の興味はわりと女性にある。男性アイドルには今のところ全く興味が湧かないけど、女性アイドルの情報は熱心に追いかけてしまう。本棚にもなぜか女性作家の作品のほうが多いし、好きな歌手もやっぱり女性が多い。今、世の中の女の子たちが何を考えていて何を見ているのかに興味がある。
……結局、最初に述べた「女の子」への恨みつらみは、同族嫌悪込みの愛憎なんですよね。はい、そろそろ気持ち悪いっすね。
ちなみにジブリ・ヒロインの中で圧倒的に好きなのはナウシカ。メーヴェ、乗りたかったよね……。
長い前置きをおいて本題に入ると、今回紹介する太宰治の『女生徒』もまた、「女の子」に託された過剰な期待がでろでろに見える。けれど、そのぶん「女の子」への愛もひしひしと伝わってくる、私にとっては無視できない小説だ。
あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。(『女生徒』)
右に引用した冒頭から始まる『女生徒』という小説は、全編主人公の女の子のひとり語り。語られるのは、戦前の日本に生きるとある女生徒の日々。思春期特有の潔癖さ、世間への苛立ち、自分への期待、親への嫌悪。
なんとまあ太宰治は男性なのに女の子の一人称を書くのが上手いんだ……とびっくりしてしまうのだけど、この小説には種明かしがある。
実は、全編太宰治が書いたわけではなく、彼のファンであった有明淑という実在の「女生徒」が日記を太宰に送りつけ、その日記を太宰が改編する形で小説に仕立てたんだってさ!!
いやー、私はもともと『女生徒』の何とも言えない女子特有のふわふわした語りが好きだったもんで、はじめてこの事実を知ったときは少しショックだった。なんだ、太宰の上手いと思っていた女の子語りは、ふつーの女の子の日記だったのか……。そう思って読めば、なんとなく色あせてしまう。
だけど。今になって読み返すと、少し違った感想を抱く。
たとえば結末部分の「おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。」という文章。
はじめて読んだときはなんだかロマンチックで少女らしくていい文章だな~と思ったのだけど……。今読むと、「いやこの言葉、ちょっとそれロマンチックにしすぎてないか?」とツッコんでしまいたくなる。なんつーか、それは太宰おまえ少女に妄想を付加しすぎてないか、と。
実際、結末の文章は、元の少女の日記にはなく、太宰治が付け足した言葉だったという。
そんなふうに一度ツッコミどころを見つけてしまうと、元ネタは「ふつーの女の子の日記」だったとしても、『女生徒』には太宰治の「理想の女の子に語ってほしい! ロマンチック文章」が過分に付け足されていることが分かる。
実際、関根順子さんという研究者さんが『太宰治「女生徒」論―ー消された有明淑の語り』(東洋大学大学院紀要51巻、2014年)という論文で、有明淑の日記と『女生徒』の比較しつつ、太宰治がより「理想の女の子」的に文章を書き換えていることを解明している。ちょっとだけ論文の内容を見てみたい。
娘全体、希望が、思想が、すべて結婚にかけられてる/のだから。/今更ながら結婚なんてそんなに大きいものかしらと思う。(「日記」(六月二日))
子供、夫だけへの生活ではなく、自分の生活を持って生きて行くの/が、本当の女らしい女なのではないだろうか。(「日記」(七月三一日))
こちらが「結婚」に関する思いを綴った、有明淑の日記。結婚って世の中でもてはやされてるけど、そんなに大きなもんかな、という懐疑。でもやっぱり結婚しても子供や夫だけでいっぱいになるんじゃなくて、自分の生活も大切にしたい……と、現代の私が読んでも「そうだよねえ」と頷いてしまいそうな、女の子の本音だ。
しかし『女生徒』で太宰治は「結婚」について、以下のように書き換える。
けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。女は自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ。(『女生徒』)
この可愛い風呂敷を、ただちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところへお嫁に行くことにきめてもいい。(『女生徒』)
女は自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ。とか、可愛い風呂敷を、ただちょっと見つめてくださったらお嫁に行く、とか。いや太宰、めちゃくちゃ可愛い女の子だしいい文章だと思うけど、思うけど、これでいいのか!? と全力でツッコミを入れたくなる。いやほんと、こんな能天気じゃないから女の子は! 風呂敷で結婚なんか決まらないから! ばかやろうと頭をはたきたくなるのは私だけかしら。
もちろん太宰治による文章の付け足しは、文学作品としてのクオリティ担保、という側面もあるだろう。だけどそれ以上に、「女の子にはこういう語りをしてほしい!」という太宰治の欲望が透けて見える。
しかし話はここで終わらない。ツッコミつつも『女生徒』を読んでゆくと、太宰ならではの語りが見えてくる。
私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘びしさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮していったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。ほって置くより仕様のない、ハシカみたいな病気なのかしら。でも、ハシカで死ぬる人もあるし、ハシカで目のつぶれる人だってあるのだ。(『女生徒』)
太宰治は、『女生徒』の主人公に、「私たちみんなの苦しみ」を語らせる。それは一見、「大人になるまで」の苦しさ侘びしさといった、思春期ならではの苦しみに見える。
だけど、単に思春期の苦しさを綴ったにしては、ちょっと熱がこもりすぎた文章である。右の引用は以下のように続く。長いんだよ、これが。
放って置くのは、いけないことだ。私たち、こんなに毎日、鬱々したり、かっとなったり、そのうちには、踏みはずし、うんと堕落して取りかえしのつかないからだになってしまって一生をめちゃめちゃに送る人だってあるのだ。また、ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。(『女生徒』)
当人からしたら苦しくて苦しくてしょうがないこと。だけど他人は「そんなん、まあちょっとがまんしてれば治るよ」なんて言うこと。
それは、一見、思春期の女の子の苦しみを語ったように見えて、実は太宰治自身の苦しみを語っているのではないか、と思える。
つまり、女の子に仮託して、太宰は自分の苦しみを語る。こんなの女々しい意見だって知ってる、他人からしたら「まあまあ」なんてなだめられるような苦しみであることは知ってる。だけど、それでも苦しくて、見て見ぬふりをすることができない。見て見ぬふりをしろだなんて言うやつが間違っている。だから「わるいのは、見て見ぬふりをしろだなんて言うあなた」なのだ。
そんなある種「女々しい」とも思われそうな意見を、女の子に託せば、言うことができる。
そう考えると、女の子に過剰な期待すんなよ~と言いたくなりつつ、自分と真反対の場所にいる女の子に期待せざるをえないほどに、太宰は太宰で苦しかったのだろうか、と思ってしまう。
私たちは小説を通して、異性になったり年代を超えたりする。自分とちがった、真反対の存在にもなる。
そのときはじめて、現実ではできない体験をする。言いたいことが言えたり、今までできなかったことができたりする。
『女生徒』には、太宰が「女の子になったからこそ」書けた文章が遍在している。それを読むとき私たちは、自分がなりたかったけどなれなかった、そして言いたかったけど言えなかった、『女生徒』の女の子として語ることができる、のだと思う。
処方:女の子になりたいときには、『女生徒』を読めばよいのです。とある少女の日記に太宰治が手を加えてできた、けだるさも潔癖も含めた「女の子」が詰まった短編小説。
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