◎今回取り上げる古典:『この人を見よ』(フリードリヒ・ニーチェ)
自分と違う価値観の人は無視すればいいではないか
KY(空気が読めない)という言葉が流行したとき、私はたいへんに興味深く感じた。自分を貫くことができるという意味で、KYは褒め言葉かと思いきや、揶揄されていた。
世の中では、個性的であることが最重要価値かのように語られているのに、どうも、他人の気もちを読めない個性は認められないらしい。
ところで、私の個人的な経験では、多様性とか、平等とか、自由とか、愛とかを、必要以上に叫ぶひとたちこそ、その考えを否定する「個性」を持つひとたちに不寛容をあらわにする。多様性を叫ぶ論者は、多様性を認めない“多様性”については認めないのだ。
ヘイトスピーチも認めろといっているわけではない。ただ、街中に立って差別的な発言を繰り返すのではなく、単に内心で思うくらいは、それこそ勝手なはずなのに、多様性を尊ぶ自由主義者たちはそれを我慢できない。
話は変わるようだが、偽善というのも、たいへんに不思議な言葉だ。やっていることが善いのであれば、なぜ責められる筋合いがあるのだろうか。そのひとの内面がどうであれ、やっていることが善ければ、それでいいではないか。もっといえば、他人の内面なんてどうやって完全に理解できるのだろうか。
いや、偽善は、道徳的に間違っている、と誰かはいうかもしれない。しかし、なぜ道徳的でなければならないのだろうか。表面的だったとしても、善いことをやっているのだから。
偽善であれ、KYであれ、内面的な差別主義者であれ、彼らを肯定することはできないのだろうか。相手の意見がどうであれ、ただただ肯定できないのだろうか。すくなくとも、どのような考えをもっている人間でも、無視するくらいはできないだろうか。もっといえば、自分に関係がないと思えばいい。それくらいの強さをもてないものだろうか。
他人は他人。自分は自分。そして、その先で、ありのままの自分を認めること。宗教が定めた道徳という尺度を鵜呑みにせずに、自分の考えや性質を肯定し、そして運命までを受け入れること。
私は、このあたりの問題を考えたのがニーチェではないかと思っている。正当な読み方は知らない。しかし、私は“勝手に”そう考えている。
ここから先は会員限定のコンテンツです
- 無料!
- 今すぐ会員登録して続きを読む
- 会員の方はログインして続きをお楽しみください ログイン
古典にすべてが書かれている。
古典の魅力とは何か? どんな古典を読むべきか? 古典初心者のための入門コラム
- バックナンバー
-
- Uber Eatsでチップを払わないと自...
- 読み飛ばす勇気を #古典読書入門の秋 4...
- 人生が短いのではない。人生を短くする時間...
- コロナ禍で「自由」と「幸福」への不安が湧...
- リア充にうざく絡む引きこもり男のエネルギ...
- 研究機関のウィルスが巻き起こす異常事態と...
- 蔓延する新型コロナへの対策を感染症の日本...
- 【考える時間】とにかく生きよ。人生の教訓...
- 新型コロナの予言に満ちた小説『ペスト』が...
- 日本人の給料が上がらないのは牛丼が安いま...
- 付け焼きの意見を垂れ流す〈知的賤民〉の愚...
- 愛と道徳は私たちをなぜ制約するのか?ニー...
- 闘いながらも弱さを隠せないニーチェ「この...
- 人気古典『エセー』で人生の救いとビジネス...
- 考え続けた人だけが勝利する『戦争論』の真...
- 『戦争論』(クラウゼヴィッツ)はビジネス...
- 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の...
- 「ビジネスの合理性」を獲得するには「不合...
- 教養あるライバルを短時間で追い抜く方法
- 「中国古典名言事典」があれば、プレゼン、...
- もっと見る