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古典にすべてが書かれている。

2019.10.05 公開 ポスト

闘いながらも弱さを隠せないニーチェ「この人を見よ」にビジネスの突破口を学ぶ坂口孝則

◎今回取り上げる古典:『この人を見よ』(フリードリヒ・ニーチェ)

自分と違う価値観の人は無視すればいいではないか

KY(空気が読めない)という言葉が流行したとき、私はたいへんに興味深く感じた。自分を貫くことができるという意味で、KYは褒め言葉かと思いきや、揶揄されていた。

世の中では、個性的であることが最重要価値かのように語られているのに、どうも、他人の気もちを読めない個性は認められないらしい。

ところで、私の個人的な経験では、多様性とか、平等とか、自由とか、愛とかを、必要以上に叫ぶひとたちこそ、その考えを否定する「個性」を持つひとたちに不寛容をあらわにする。多様性を叫ぶ論者は、多様性を認めない“多様性”については認めないのだ。

ヘイトスピーチも認めろといっているわけではない。ただ、街中に立って差別的な発言を繰り返すのではなく、単に内心で思うくらいは、それこそ勝手なはずなのに、多様性を尊ぶ自由主義者たちはそれを我慢できない。

話は変わるようだが、偽善というのも、たいへんに不思議な言葉だ。やっていることが善いのであれば、なぜ責められる筋合いがあるのだろうか。そのひとの内面がどうであれ、やっていることが善ければ、それでいいではないか。もっといえば、他人の内面なんてどうやって完全に理解できるのだろうか。

いや、偽善は、道徳的に間違っている、と誰かはいうかもしれない。しかし、なぜ道徳的でなければならないのだろうか。表面的だったとしても、善いことをやっているのだから。

偽善であれ、KYであれ、内面的な差別主義者であれ、彼らを肯定することはできないのだろうか。相手の意見がどうであれ、ただただ肯定できないのだろうか。すくなくとも、どのような考えをもっている人間でも、無視するくらいはできないだろうか。もっといえば、自分に関係がないと思えばいい。それくらいの強さをもてないものだろうか。

他人は他人。自分は自分。そして、その先で、ありのままの自分を認めること。宗教が定めた道徳という尺度を鵜呑みにせずに、自分の考えや性質を肯定し、そして運命までを受け入れること。

私は、このあたりの問題を考えたのがニーチェではないかと思っている。正当な読み方は知らない。しかし、私は“勝手に”そう考えている。

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坂口孝則

1978年生まれ。調達・購買コンサルタント、未来調達研究所株式会社所属、講演家。大阪大学経済学部卒業後、電機メーカー、自動車メーカーに勤務。原価企画、調達・購買に従業。現在は、製造業を中心としたコンサルティングを行う。著書に『牛丼一杯の儲けは9円』『営業と詐欺のあいだ』『1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体』『仕事の速い人は150字で資料を作り3分でプレゼンする。』『稼ぐ人は思い込みを捨てる。』(小社刊)、『製造業の現場バイヤーが教える調達力・購買力の基礎を身につける本』『調達・購買の教科書』(日刊工業新聞社)など多数の著書がある。

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