ノーベル文学賞の候補として、毎年のように名前が挙がる村上春樹さん。まさに日本を代表する小説家ですが、じつは「芥川賞」を受賞していないことをご存じでしょうか? 一体なぜなのか、その謎に迫ったのが、文芸評論家・市川真人さんの『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』です。選考会で何があったのか? そもそも「芥川賞」とは何なのか? スリリングな本書の一部を抜粋してご紹介します。
* * *
現代日本を代表する小説家
けれどもそんな村上春樹が三十年前、いまから振り返ればとってなんの不思議もなかったのにとりのがした、そしてもうとることのない賞がひとつ、あります。
自分に与えられなかった、そして与えられるべきだっただろうその賞について、「BOOK1」(『1Q84』)の第2章で村上春樹は触れています。ふたつに分かれる世界の一方の主人公、予備校勤めをしながら小説家を志望して新人賞への投稿を続ける「天吾」と、彼に才能を感じて連絡をとる腕利きの編集者・小松の、こんなやりとりです。
「俺が考えているのはね、もう少しでかいことなんだ」と小松は言った。
「でかいこと?」
「そう。新人賞なんて小さなことは言わず、どうせならもっとでかいのを狙う」
天吾は黙っていた。小松の意図するところは不明だが、そこに何かしら不穏なものを感じ取ることはできた。
「芥川賞だよ」と小松はしばらく間を置いてから言った。
「芥川賞」と天吾は相手の言葉を、濡れた砂の上に棒きれで大きく漢字を書くみたいに繰り返した。
「芥川賞。それくらい世間知らずの天吾くんだって知ってるだろう。新聞にでかでかと出て、テレビのニュースにもなる」
わずか数行のなかで、三度も(それもセリフの冒頭で)繰り返し呼ばれるこの賞の名前は、たしかに小松の言うとおり、毎年二回、一月と七月に、もうひとつの賞と並んで「芥川賞・直木賞受賞者決定」などと新聞やテレビで大きくとりあげられます。
受賞者は、講演などに行けば「芥川賞作家・○×△之介さん来訪」などとかならず肩書がつきますし(「谷崎賞作家」とか「讀売賞作家」とつくことはほとんどありません)、直木賞をもらった知人によれば提示される講演料はそれ以前の十倍。発表/掲載誌となる「文藝春秋」や「オール讀物」の三月号、九月号はふだんよりも多く刷られて、いつもなら置かれないコンビニや駅売店の棚でも「芥川賞・直木賞発表号」の釣り書きとともに売られます。
もう二度ととることはできない
それだけ目立てば、小説好きのヘビー・ユーザーはもちろん、年に何冊かは小説を読む習慣のあるひとたち、さらには文学や小説にひごろはあまり関心がないひとや、昔は読んだけれどいまは読まなくなったひとなどのライト・ユーザーにも、芥川賞・直木賞受賞者の名前は知れ渡ってゆきます。だから小松は「でかいこと」と言うわけです。
逆に言えば、数多ある「文学賞」のなかで、「世間知らずの天吾くん」すらもが知っているほどのメジャーな賞は、芥川賞と直木賞のふたつしかありません。
じつのところ、それらふたつの賞にしても、芥川賞が純文学の有望な新人に与えられる賞で、直木賞が大衆文学の実績ある中堅に与えられる賞である、というところまでは、「世間知らず」でないひとたちにもあまり認知されていないのですが、ともあれ「芥川賞作家」や「直木賞作家」であれば、「よくわからないけどすごい作家なんでしょう?」程度の認知は、こんにち一般にもなされています。
そんなふたつのメジャー文学賞のうち、若き村上春樹が受賞できなかった(いまとなっては「選考委員が授賞しそこねた」と言った方がよいかもしれません)のが、芥川賞でした。新人を対象とした賞である以上、いまからとることもむろんありません。
日本プロ野球の新人王に、いまやメジャーを代表する打者であるイチローや、三度の三冠王を獲得した史上最強打者である落合博満が無縁で、今後とることもないのと似ていますが、出場試合数や実績などにかなり厳しい基準があって文字通りの「新人」かそれに準ずる者でないと対象にならない野球のそれと違って(だから逆にイチローは、NPBで九年の実績があっても、MLBでは「新人」扱いで新人王をとれたのですが)、じゅうぶん実績があっても「若手」と判断されれば十年目くらいまでは対象になる芥川賞を、村上春樹がとれなかったのはなぜなのか。そもそも、なんで芥川賞(と直木賞)だけがこれほど話題になるのか。
まずは、そのことについて考えてゆきます。
芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか
ノーベル文学賞の候補として、毎年のように名前が挙がる村上春樹さん。まさに日本を代表する小説家ですが、じつは「芥川賞」を受賞していないことをご存じでしょうか? 一体なぜなのか、その謎に迫ったのが、文芸評論家・市川真人さんの『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』です。選考会で何があったのか? そもそも「芥川賞」とは何なのか? スリリングな本書の一部を抜粋してご紹介します。