野村克也さんの選手評は、いつも冷静で的確で、なにより野球と選手への愛がにじみ出ていました。心よりご冥福をお祈りします。
野村さんの著書『プロ野球怪物伝』(幻冬舎)では、教え子である田中将大、「難攻不落」と評するダルビッシュ有から、ライバルだった王貞治、長嶋茂雄ら昭和の名選手まで、名将ノムさんが嫉妬する38人の「怪物」を徹底分析しています。
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ストッパーに転向した1977年、江夏豊は19セーブをあげる。しかし、そのオフに私が監督を解任され、江夏は広島カープに移籍する。
私が南海をクビになったと聞いて、江夏は「こんなチームは信用できない。自分もやめる」と言い出したのだが、彼まで道連れにするわけにはいかない。それで広島の監督だった古葉竹識(こば・たけし)に電話して広島に行かせたのだが、そこで江夏は再び球史に残る伝説をつくることになった。1979年、のちに「江夏の21球」として知られることになる近鉄との日本シリーズ第7戦である。
江夏が怪物たる所以は、全盛期のスピードもさることながら、むしろ投球術にあると私は思っている。それが最高のかたちで発揮されたのが、このときのピッチングであった。その一部始終を、私は評論家としてネット裏から見ていた。
日本一がかかったこの試合。江夏は7回からマウンドに上がり、1点リードして9回を迎える。しかし、江夏は先頭の羽田耕一に初球をセンター前に運ばれると、盗塁、悪送球、四球2つで無死満塁の大ピンチを招く。近鉄の西本幸雄監督は、ここで前年の首位打者、佐々木恭介を代打に送った。
この試合は、石渡茂のスクイズを江夏が見抜き、咄嗟にはずしにかかった「19球目」が伝説として語られることが多い。しかし、私に言わせれば、両チームの明暗を分けたのは、その前の打者である佐々木に投じた6球ではなかったか。あらためて振り返ってみよう。
初球は内角低めに大きくはずれるカーブ。ファウルを誘ったのだろうが、佐々木は見逃し。しかし、バットを出しかけて止めたことから「カーブを狙っている」と私は思った。江夏も見抜いたのだろう、2球目は外角寄りのストレート。絶好球だったが、カーブ狙いの佐々木は手が出ない。これでおそらく佐々木は動揺したはずだ。
3球目は内角に落ちるボール。待ち構えていた佐々木の打球は三塁線へ。ヒットかと思われたが、結果はファウル。あのコースを引っ張ればファウルになる確率が高いことから、江夏が誘ったのだろう。佐々木にも力みがあった。ここで佐々木と江夏の立場は完全に逆転した。
ツーストライクと追い込んだことで、江夏は三振狙いへと切り替えたのではないか。
ここからがいかにも江夏らしい配球だった。4球目と5球目は、6球目で仕留めるための捨て球、布石だったと私は思う。4球目は内角高めのカーブ。追い込まれたことでストレートにタイミングを合わせていた佐々木はファウルにするのがやっと。そして5球目に内角低めのストレートをはさまれたことで、佐々木は混乱したに違いない。
6球目は5球目と同じ軌道から落ちるカーブを投じ、江夏は注文通り、佐々木を空振りの三振に仕留めたのである。
ワンアウトをとったことで、江夏は落ち着きを完全に取り戻し、近鉄より優位に立った。ゲームは江夏が支配することになったのである。佐々木の6球が明暗を分けたというのはそういう意味だ。
次打者・石渡への初球はカーブ。石渡のバットは動かなかった。これで江夏はスクイズを見抜いたはずだ。2球目。羽田の代走に入っていた三塁ランナーの藤瀬史朗がスタート。キャッチャーの水沼四郎が立ち上がり、石渡はバントの体勢に。江夏が投じたボールはカーブの軌道を描き、石渡が飛びつくように出したバットの下をくぐり抜け、水沼のミットに収まった。藤瀬はタッチアウト。二死二、三塁となる。これで勝敗は決したといってもいい。江夏は石渡を三振に打ち取り、広島、そして自身にとって初の日本一を達成したのだった。
石渡への2球目。江夏本人が言うように、意図的にウエストしたのか、それとも偶然だったのか、いまだ議論が分かれているようだ。私の意見はこうだ。
「江夏なら、咄嗟にウエストすることは充分にありえるだろうが……」
ポイントは、藤瀬のスタートが早すぎたことにあったと私は思う。江夏はサウスポーだから、牽制はまず来ない。焦る必要はないのに、初動と同時にスタートを切ってしまった。それでスクイズを察知した水沼が立ち上がり、まさに投げようとしていた江夏の目に入ったものだから本能的にはずそうとした結果、カーブが自然に抜けて高めに浮いた……今回、あらためてこのシーンを見返したところ、やはりそれが真相だろうという結論にいたった。
とはいえ、江夏本人は「神業」と語っているし、彼ほどピッチングについて深く考え、優れた投球術を持っていたピッチャーはいないといっても過言ではない。いずれにせよ、彼の野球人生で積み重ねてきたものがあの奇跡の一球を生み出した──それだけは間違いないだろう。
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【本書でとりあげる怪物たち】
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プロ野球怪物伝
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