「名人の珈琲を飲んだことがある。」
年配の、先輩が言う。
彼が長年通い詰めた喫茶店には、珈琲を入れる名人がいて、その喫茶店で珈琲を飲むことが、日常だったのだという。
「仕事のない日も通った」
「失恋した日も通った」
「風邪ひいた日も通った」
その喫茶店は、今もその場所にあるという。
「風邪ひいた日なんかそこ行けば治った」
「わかりました、とりあえず行ってみます。」
それは思い込みだと、口に出そうな言葉を飲み込む。そして、そんな都合のいい話があるわけがないと思いながらも、激しい推薦に興味を惹かれて、その歴史ある純喫茶へ行ってみることにした。
喫茶ロア。
札幌市民に長く愛され続けている、この街の喫茶店の先駆けだ。
ここの初代のマスターが、「名人」と呼ばれていたという。
狸小路の中を少し歩いてから、大通り方面へ向かう。
むかし、このあたりには古着屋がたくさん並んでいた。
今では、古着屋は少なくなっているが、ファッションの世界は90年代リバイバルだという。札幌の中心部も、街を歩く若者のフォルムが、なんだかみんな、大きめだ。
札幌市、中央区。大通り公園が見えてくる。
大通り公園の前にある、小さな通りに、丸井今井のビルがある。
北の人たちから「まるいさん」という愛称で呼ばれる、経営状態のいい時も、決してそうではないという声が聞こえる時も、どんな時代でも愛されてきた、札幌市のデパート文化の象徴。北海道の人は、この「まるいさん」が大好きだ。
その丸井今井の隣に、小さな階段がある。
階段の前には、珈琲豆の樽をモチーフにした看板があって、白いペンキで「喫茶ロア」と書かれている。
その階段を降りる途中には、メニューが一覧できる看板もあり、目の前に大きく広がるガラス窓には、今度は黄色のプリントで「名人コーヒーの店 喫茶ロア」と書かれている。
階段を降りると、そこには「これぞ喫茶店」という光景が広がる。
古い皮張りの椅子。一時間ごとにカッコウが鳴る時計。
薄暗さの中を、優しく温かみのある照明が、コウコウと照らしている。
年季の入った絵。自然なくつろぎを生み出す暗さ。
そして、都会の地下に広がる、少しゆったりできる広さの空間。
入ってすぐに「また来たい」という言葉が出そうになる。
4人テーブルの席に一人で座ると、女性スタッフが注文を取りにくる。
メニューに見入ってしまい、少し待ってもらうことに。
メニュー表には、丁寧にビーフシチューセットなどの説明がされており、逸品とされているホットサンドと共に、創業当時のままのような、手書きの味わいを楽しめる。
せっかくの自家焙煎珈琲。ブレンドを注文しなければおかしいかなと思ったが、この日は北海道も30度超え。再びやってきたスタッフに、アイスカフェオレを注文した。
10分ほど待っている間に、時計のカッコウの音が鳴った。
ちょうどこの真上のあたり、地上の道には、平和の象徴の鳩が歩いている。その光景もまた、札幌にいることを実感させられるものだ。
札幌には、道にも地下にも、鳩がいた。
タイムスリップする感覚とは少し異なる、今までに経験がない、都会の地下に広がっていた異空間にしばし酔いしれる。
高校生の時、この地下の異空間の真上の道路を、僕は確かに歩いていた。
疲れると、そのまま何も考えずにファストフード店に入っていた。足元の下に、こんな空間が広がっていたことなど、まるで知るよしもなかった。
札幌といえば、「地下歩行空間」が、今ではひとつの代名詞だ。
地下を広々と歩ける、大きな空間がある。
通称「チカホ」。2011年3月12日にオープンした。
一年の半分以上が雪で覆われるこの街を、快適に歩けるように、地下に大きな歩行空間が広がっており、どこから地上に上がっても、雪にも雨にもあたることなく、札幌駅~大通りの目的地に到着することができる。
この街で、「地下」と言えば、まず「チカホ」となる。
だが、チカホには繋がっていない独自の地下空間が、ここに『ロア』という名前で存在していた。札幌市が誇る名所のひとつ、「チカホ」とは一線を画す、歴史ある地下空間だ。
アイスカフェオレが運ばれてくる。
上が琥珀色、下に沈んでいるのが白色。その2色が、細長い美しいグラスの中で混ざり合っている。
グラスには、まるで汗をかいているかのように、いくつもの水滴ができ、したたり落ちていく。その様子が、小さな滝のようにも見える。
王道の純喫茶のアイスカフェオレの味。こころもちミルクが少なめで、珈琲のコクがしっかりと強調しているものだ。
喫茶ロアのスタッフは、若く、皆、丁寧だった。
ここは時代も世代も何もかもを超えて、「ここで働きたい」と思う場所なのだろう。
この日、名人の姿はなかった。
だが、名人が守ってきた空間で、名人の意思を受け継いだ人たちの味を、僕は飲んだ。
店を出て階段を上がり、陽光が目に入った時に、今いた後ろを振り返ってみる。
おそらく、ここにはあったのだろう。
コポコポと湯気が立つ、珈琲を淹れる時の音と、手と、肘と、肩と、2つの目。
積み重ね、研ぎ澄まされた、そういったものの上に成り立つ、決して簡単には生み出せない、「名人」の二文字が奏でる味が。
それはきっと、これからも、流行りの風邪にはうつりそうもなく、この場所にきっとあり続ける。
純喫茶ロア
北海道札幌市中央区 大通り西2丁目 陶管ビル地下1階