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探検家とペネロペちゃん

2019.10.28 公開 ポスト

鼻くそあるいは女の情念角幡唯介

「子どもは、極夜より面白い」

北極と東京を行ったり来たりする探検家が、客観的に見て圧倒的にかわいい娘・ペネロペを観察し、どこまでも深く考察した父親エッセイ『探検家とペネロペちゃん』から、試し読みをお届けします。

*   *   *

二〇一七年二月四日、私はグリーンランド北西部の海岸近くに立つ小さな無人小屋のなかで、キツネの肉を炒めてキツネ焼肉を食べていた。

小屋に着いたのは五日前、キツネはその前日にライフルで撃ちとめたものだ。ありがたいことにこの日の気温はマイナス二十八度と比較的暖かい。だがそれでもマイナス二十八度だ。私の生活により発散された蒸気(私の息、汗、炊事のときに出る湯気)が天井や壁に張りつき、小屋の内部はすさまじい量の霜におおわれている。マグロ漁船の冷凍庫のなかでキャンプしているようなものである。

小屋があるのは北緯七十八度四十分、岸には海氷が乱雑にのりあげ、冷え冷えと凍結した海が月明かりに照らされていた。極地のなかでもこのような高緯度地域では、冬になると太陽が四カ月も昇らず、極夜という死の暗闇につつまれた季節が訪れる。シオラパルク村を出発してすでに二カ月間、私は一頭のイヌとともにブリザードにうたれ、月明かりを頼りに、ひたすら絶望が支配するその暗黒世界を彷徨してきた。

極夜。光も希望もない、隔絶された氷の世界。そんな環境で長い旅をつづけた果てに昇る太陽をついに見たとき、人は何を思うものなのだろう。それを知ることが〈極夜の探検〉と称したこの旅の計画の最終目的だった。だが、初日の出までまだ二週間ほどあるにもかかわらず、私は心身ともに疲弊しきっていた。当たり前である。人間、暗いと気分が沈むし、活動意欲が低下する。村での準備期間も含めて四カ月近くも夜の暗闇で生活していると、どんなに神経のにぶい人間でも大きなストレスを溜めこむものだ。私は漆黒の空間でヘッドライトをつけて歩きまわることに心底嫌気がさしていた。もううんざりだ、二度と極地の旅なんかしないぞと決意をかためていた。

だが、そんなストレスフルな極夜の旅でも、たったひとつだけ楽しみがあった。衛星電話だ。
もうそろそろいいだろうか……。キツネ焼肉を食べ終わった私は寝袋に入って、衛星電話の端末を脇の下で温めた。時刻は午後九時。グリーンランドと日本との時差はちょうど十二時間なので、向こうは午前九時だ。いい加減、妻と子供が起きる頃だろう。

衛星電話で家族と連絡をとることは、私の冒険に対する信念と反していた。というのもこの極夜の探検のテーマは人間世界からいかに隔絶するかにあったからだ。いや極夜探検ばかりではなく、人跡未踏の荒野や氷原を舞台とする冒険のほとんどが、人間世界から隔絶した真のウィルダネス、真の孤高をもとめての行為であると私は思っている。日常とのつながりをすべて断ち切ることではじめて非日常の位相、すなわち真の自然の奥底に入り込むことは可能となるのであり、隔絶することは自然と対峙して宇宙の真相を理解するための必要条件である。チームを組まずにわざわざ単独行をする意味も、隔絶することによって得られるこの世界との一対一の対峙性にある。要するに真の自然の奥底に入り込みたいのなら、すべての絆、すべてのしがらみを切り捨て、あらゆるシステムから脱しなければならないのだ。だからこれまで私は衛星電話のような外界とつながるためのツールを冒険旅行に持ちこむような行動に疑問をもっていたし、実際、使わないようにしていた。

だが、それもすっかり変わってしまった。考え方が変わったのではない。それを実践できなくなったのだ。なぜか。結婚して妻ができ、そしてペネロペが生まれてしまったからである。

家族がいるのに長い旅に出る。それだけならまだ許されるかもしれないが、今回の旅は人類がほとんど経験したことのない、どんな危険があるかわからない極夜の長期探検だ。それを通信機器を持たず無連絡でやり通すということになれば、私のほうはよくても、妻のほうは夫が三カ月も四カ月も生死不明の状態にあることに精神的に耐えきれないだろう。さすがに家族持ちで無連絡長期探検のこだわりを貫き通すことは、人倫にもとる外道のやることではないか。どうしても隔絶した旅にこだわるなら、私は結婚生活を放棄して妻と離縁し、ペネロペともお別れするほかないのではないか。この極夜探検に出発するとき、私はそのような葛藤に引き裂かれた。しかし現実として衛星電話を持たないというだけのために、家族と別れられるわけがない。結局、私はこの冒険行の作品としての完成度をとるか、家族との日常生活をとるか、どちらをとるか迫られた結果、後者を選択した。つまり衛星電話で家族とつながることで冒険としての完成度を落とすことにはなるが、必要悪としてそれを認め、妻と定期連絡をとることにしたのである。この決断をくだしたとき、私は自分がもう冒険者というより一介の生活者にすぎないことを痛感した。

そして、ひとたびこういう便利な機械を受け入れてしまうと、麻薬のように、それなしではいられなくなってしまう。最初は隔絶感の問題もあるし、それにバッテリーがなくなるといけないので四、五日に一度のショートメールで現在位置を報告するだけだった。だが、それもバッテリー残量に余裕が出てくるとメールが電話になり、四、五日に一回だった電話連絡も、小屋に戻る頃には毎日に変わっていた。連絡の目的も最初は現在位置を報告して一応生存していることを妻に知らせるという必要最低限のものだったが、極夜のストレスにさらされるうち、それも妻子の声を聞いて会話そのものを楽しむことに変わっていき、最後は家族の声でも聞かないとやってられないやという心境になっていった。こうなると隔絶もクソもあったものではない。精神もそれまでは糸をピンと張りつめたような状態だったのが、家族の声を聞くことでぐにゃりと甘ったるく溶解してしまい、風呂に入った後にペネロペと絨毯の上で抱きあってゴロゴロ転がっているときと同じようなだらしない感じになってしまっていたのだ。

そういうわけで私は小屋の生活における唯一の楽しみ、妻とペネロペの声を聞くため衛星電話のボタンを押した。長かった。この時間のために、今日という一日があったようなものだ。はやく家族とつながりたい。つながって、絡みあい、二重螺旋の渦のなかで心の平安を得たい。声を想像するだけで心が弾む。しかしまだ油断はできない。グリーンランドと日本は時差が十二時間、基本的には私が起きているときは向こうは寝ており、会話のチャンスは一日にわずかしかない。しかも、私の妻は普段から(私からの)電話にはまったく出ないタイプの人間で、今回のような危険な探検行の定期連絡でさえ、うっかり私から電話があることを忘れてしまったりする困り者なのだ。
何コールかして妻が「もしもし」といった。

「もちもーち、ナニちてるの~~~」
しまった。妻の声を聞いた瞬間、探検中の緊張の糸が切れ、つい声が幼児化してしまった。
「どうしたの。そんな声だして」
「どうしたのって、オレは会話をしたいんだよ。寂しいんだ、ものすごくね。ここはとても暗いから」
「ああ、そう。フフフ。あおと代わろうか」
はい、オトウチャンだよ、という妻の声につづきペネロペの声が聞こえた。
「オトウチャン、北極着いたぁー?」
「着いたよ。こっちは寒いよ」
「☆□〇×☆☆ーー!!!」

ペネロペが甲高い声で叫びはじめた。なんとかわいらしい声だ、といいたいところだが、残念ながら衛星電話が感知できる音域帯をはみ出しているのか、発言内容がさっぱり理解できない。ペネロペは一方的に散々喚き散らすと、それに飽きて「もういい」と電話を返したらしく、また妻の声に代わった。
「なんか最近面白い話あった?」私はニュースに飢えていた。なんでもいいから、気分転換になる話題が欲しかった。
「とくに変わりないけど」
「なんかビッグな出来事はなかったわけ」
「トランプが大統領になってからはべつにないよ」
「なんでもいいんだよ。あおの最近の話でも」
「ええぇ? すごくくだらない話ならあるけど……」
ためらいながら妻がはじめたのは次のような話だった。

この前、ハルちゃん(いつも遊んでいる仲良し四人組の一人である)の誕生日で、みんなでアンパンマンミュージアムに行ったんだけど、そのときに滑り台で遊んでいたら、ユイ君(同じく四人組の一人)の背中に鼻くそがくっついていたの。すぐにお母さんたちが、誰がそんなことしたのって子供たちに訊いたんだけど、みんなわかんないっていうばかりだし、ユイ君に訊いても「全然気づかなかったぁー。ムフフ」とニコニコ笑うだけで、結局誰がつけたのかわからなかったんだよね。でも、帰り道の途中で気になったから、まさかね……と思いつつ、「ねえ、鼻くそつけたのあなたじゃないよね」とあおに訊いたの。そしたら、「ユイ君に鼻くそつけたのあおだよ」と悪びれずにいうわけ。「どうしてそんなことするの」って訊いたら、「だってさー、ユイ君のことが大好きなんだもん」って楽しそうに話すから、もうびっくりしちゃった。

私は口から白い息をあげて、げらげらと大声で笑った。
「めちゃくちゃ面白いね。そういうのが聞きたかったんだよ。そうか、あおはやっぱりユイ君のことが好きなんだ」
「そう。いつも追いかけまわしているんだよ」
「でも、鼻くそっていったって、ちっちゃいやつだろ?」
「ううん。すんごい大きなやつだった」
はっはっはっと私はまた大きな声で笑った。

電話を切り、コンロの火を消した。燃料を節約するため小さな火でちびちびと暖をとっていたが、火が消えるとテント内は急速に冷えてくる。やることがなくなった私は身体が冷えないうちに急いで寝袋のジッパーを顔まであげ、娘の行状と言葉について思いをめぐらせた。
大きな鼻くそ=ビッグ・グリーン・スライム。
私は、娘の二つの鼻腔に詰まりがちな、あの粘度の高い物体を思い出し、それをこすりつけられたユイ君の不快を想像して微笑した。だが、そんなことを思ううち、ふと、ある大きな矛盾に気がついた。
ペネロペはこういった。
〈ユイ君に鼻くそをつけた。だって彼のことが好きだから。〉

よくよく考えてみればおかしな話である。なぜ好きな人に鼻くそをつけるのか。
常識に照らせば、この文章はロジックとして成り立たない。いうまでもなく鼻くそは鼻水と埃が混合し凝固した汚物である。味はちょっとしょっぱくて、幼児期に誰もが好奇心から一度は口にして、おいしいなどと思い、しばらく鼻くそ食にはまるが、それでも汚物は汚物。糞尿や恥垢、足の親指の爪に詰まったカス同様、人体からの汚らしい排出物の代表格である。当然、公衆の面前で堂々とほじくるものではなく、取り出すときは人目を避け、万が一、大きなやつが出てきた暁には誰にも見つからないように、こっそりそのへんに駐輪している自転車のハンドルなどにこすりつけておくのが社会人のマナーだとされている。

一方、人を好きになることはまったくちがう。恋愛感情はつねに美しい情動であり、相手の人格を認めて受け入れるという稀有に肯定的で前向きな態度だ。通常われわれは恋をしている人を見て、羨ましさや妬ましさを感じることはあっても、憐憫や同情を感じることはない。結婚詐欺師や女衒に騙されている場合は別として、あの人、恋をしていて可哀相……などとは普通はいわない。そう考えると、鼻くそにより象徴されるネガティブの観念と恋愛により象徴されるポジティブの観念は正反対の位置にあるわけで、だからこそ、その風味も一方はしょっぱくて、一方は甘酸っぱいと完全に逆のテイストなのである。

つまり、背中に鼻くそをなすりつけるという嫌がらせにほかならない行為の理由を、その人のことが好きだからという感情で説明することはできない。〈だって〉という理由や原因を説明する接続詞はこの場合、適切ではないのだ。

もし、この二つの内容を文法的に齟齬なく接続するなら、〈ユイ君に鼻くそをつけた。彼のことが好きなのに。〉とか、〈ユイ君のことが好きだけど、鼻くそをつけてしまった。〉といった少々無理のある文章になる。しかし、ペネロペはあえて〈だって〉という言葉を使い、鼻くそをつけた理由を好きだからという感情でスムーズに説明したのだ。そう、無理なく、きわめて美しく。
なぜ彼女の意識のなかでこのような論理が成り立ったのだろう? 私は寝袋のなかで考えつづけた。冬の、太陽の昇らない極夜の北極では妄想と考察以外にすることなど何もなかった。
可能性としては二つ考えられそうだった。

A ペネロペは鼻くそを汚いものだと認識していない。だから好きな相手にくっつけた。
B ペネロペは鼻くそを汚いものだと認識している。だからこそ好きな相手にくっつけた。

常識的に考えたらAの可能性が高そうに思える。なにしろペネロペは三歳になったばかりの幼児であり、鼻くそが汚いといった汚穢、タブーの観念をまだ身につけていなくても不思議はないからだ。だとしたら何もわからずにやったわけだから、単なる幼児の戯れ、そこに深いメッセージ性はなくなる。

しかし、妻との電話の内容をふりかえると、必ずしもそうとはいえない。というのも、ユイ君の背中に鼻くそがついていることが発覚し、母親たちが犯人捜しをしたとき、ペネロペは自らの犯行を告白することなく何食わぬ顔でダンマリを決めこんだからだ。つまりペネロペにはそのとき罪悪感があった。だから皆の前で自白できなかった。罪悪感があったということは、誰かの背中に鼻くそをつける行為が倫理的に不適切であることを理解していたということだ。そして、それが倫理的に不適切であることがわかっていたなら、その不適切さの要因は〈誰かに何かをなすりつけること〉ではなく〈鼻くそ〉自体にあること、すなわち鼻くそが誰もが嫌がる汚物であることをも認識していたことになる。つまり、ペネロペの深層心理において、正解はAではなくBであり、彼女は鼻くそが汚いとわかっており、それゆえ好きなユイ君にくっつけたのだ。

鼻くそは汚い。汚いからこそユイ君にくっつけた。だって彼のことが好きだから──。

この飛躍した心理展開を読みとったとき、私は娘の無意識層で早くもゆらめきはじめている小さな炎に気がついた。

汚いけどくっつける。いや、汚いからこそくっつけたい。私はあなたのすべてを知りたいし、私のすべてを知ってもらいたい。だから私の汚いものを受け止めてもらいたいし、あなたの汚いものも受け止めたいの。この愛に途中下車はないわ。お互いの汚いものをすべてさらけ出し、くっつけあい、汚しあって、ぐちゃぐちゃになりたいの。そしてずぶずぶの一塊の汚物となって、どこまでも坂道を転がり落ち、もっともっと堕ちるところまで堕ちて、この世の煉獄でついに黒い燃えカスになりたいの。そのときにはじめて私たちの愛は生と死を超越した崇高な形態として結晶するの。

『天城越え』みたいな話だが、好きだから鼻くそをくっつけるという行為の意味を論理的に極限まで突きつめれば、そういうことになる。というか、ならざるをえない。そしてこれは女の理屈だ。女の愛のかたちである。すくなくとも男はこういう好意の示し方、愛の表現をしない。もう少しマイルドに、前後の文脈の整合性がとれたかたちで、順接は順接で、逆接は逆接でと、定められたルールに則り、内容的に矛盾のない用語の使い方をして愛を語ろうとする。だがペネロペの言葉の背後にあるのは、こうした言語ルールの無視、逸脱であり、物事の意味や規則性を超越した、肉体の衝動にしたがった生の情念そのものである。要するに無茶苦茶なのだ。
娘の深層心理には愛を貫徹できるなら最終的には好きな男との死さえ躊躇わない、女という生き物の原初的にして究極な形態が早くも芽生えているのではないか。そのことに気づいたとき、私は、そういえば思い当たることがあるなぁと思った。



 

考えてみれば、たしかにペネロペはかなり早い時期に女になっていた気がする。おそらく娘ができた父親の最大の当惑のひとつは、娘が相当早い段階で、それも想像を絶するほど幼児の初期段階で女としての言動やふるまいをはじめることだろう。女はおそろしく女になるのが早い。唖然とするほど早いのだ。

ペネロペの場合は大雑把に一歳前後で乳離れし、離乳食に移行した。また同じ頃、ハイハイや掴まり立ちを終えて直立二足歩行を開始しており、アーとかウーとか言葉にもならない発語をするようにもなっていた。それは、惑星が惑星になる前の宇宙空間に漂うガスや塵みたいな、無内容な音がたちこめているだけの、何の形状もともなっていない靄のような言語化以前の発語段階である。それが一歳をすぎると靄状だった発語の様態に理解可能なかたちが次第に与えられていき、単語や構造をともなった言語段階に発展していく。ペネロペが一歳三カ月から同十カ月ぐらいまで、私はグリーンランドに滞在していたので、その間の発育状況は電話やスカイプを通してしか知らないのだが、一歳十カ月頃に帰国したときにはかなり自分の意思を言葉で表現できるようになっていた。そして、みるみる語彙を増やし、概ね正しい文法を身につけ、二歳になった時点で会話と呼べるレベルの意思疎通が可能になっていた。そしてその段階になった時点でペネロペは、もういっちょ前の女みたいな発言を繰り返すようになっていたのである。

〈女みたいな〉とトータルに女性を偏見でカテゴライズすると性差だ、女性差別だといわれるので気をつけなければならないが、要するにここでいう女としての言動やふるまいというのは、男たちが酒の席で「女ってさぁ、結局……」と愚痴めいた口調でこぼすアレである。つまり自らの女性性を前提とした言動や態度のことであり、美や色気で男を籠絡する駆け引きめいた仕草や男を管理しようとする態度等のことである。とりわけ女児の場合は周囲から「かわいいねぇ、かわいいねぇ」とちやほやされるのが常態となっているので、あなたアタシのことをかわいいと思っているでしょという相互了解を意識したうえで会話をしてくることがある。そして、それがなぜ父親にとって当惑的なのかといえば、そうした女みたいな発言やふるまいを、娘はまず最も身近な男である父親に対して駆使してくるからだ。そりゃ三歳の娘から大人の女みたいにいいよられたら誰だって戸惑うだろう。さらにいえば、そんなふうにいいよられて嬉しいと感じている自分がいるのも当惑の原因だ。同じことをどこかでいわれたことがあったな、と記憶をまさぐると、十年前のキャバクラだったりする。相手は娘なのにキャバクラの女にいいよられたときと同じような顔つきでデレデレしており、われながら気色悪いのである。

二歳になった頃からペネロペは私に対して猫なで声を出して、甘えるポーズを示すようになった。膝の上にのせているとやおら「ねえ、オトウチャン?」とまったりとした声を出して私の胸に顔をあててくる。
「どうしたの? あお?」
こっちも嬉しいものだから、ついつい語尾に?マークのつく語調で応じてしまう。
「オトウチャンが好き?」
「オトウチャンもあおのことが大好きだよ?」
「ねえ、好きだから抱っこしてよ」
「え?」
「好きだから抱っこしてっていっているでしょ」

はじめてそういわれたとき、私は奇妙な違和感を覚えた。どういうことだろう。この子は〈好き〉という人間の崇高な感情を何だと思っているのか。抱っこという自分の願望をかなえるための交換財だとでも考えているのだろうか。しかもどういうわけか半分、命令口調である。私は娘になめられているのではないかと感じた。いつも「お前が一番かわいいなぁ」と絨毯の上でごろごろ転がっているものだから、自分がかわいさをまき散らして「好き」と一言いえば、この男なら簡単に手玉にとれるわ、ここでもうひと押しすれば落とせるわ、などと判断しているのだ。随分と安っぽく見られたものじゃないか、俺も。と思ったものの、二歳当時のペネロペといえば背後から眩い後光が照り輝くほどのかわいさにつつまれていた時期で、人類が彼女の要求を退けることは事実上、不可能、私は顔面をだらしなく溶解させて「いいよ~?」と簡単に屈するほかなかった。

さらに結婚という言葉を覚えると、それも交換財として利用しはじめた。
「ねえオトウチャン、結婚しようよ~」ペネロペが私の首にねっとりとした動きで絡みついてくる。
「え~結婚すんのぉ?」やはり嬉しいことこの上ないので私もでれでれとした口調になる。
「だって、オトウチャンのことが好きなんだもぉ?」
ペネロペが自らの愛くるしさを限界まで押し広げてそういうと、隣で聞いていた妻がピクンと反応した。
「なに、あお、オトウチャンと結婚すんの?」
するとペネロペは驚くべき本音を吐いた。
「だって、指輪ほしいんだもん」
ゆ、指輪? 唖然とする私を尻目に妻が隣で爆笑した。
「この子はいっつも私の結婚指輪を狙っていて『ねえ、これ頂戴よ』といってくるの。そのたびに、だめだよ、これ、オトウチャンと結婚してもらったやつだからっていってたから、結婚したら指輪がもらえると思ったんだね」
妻によると、ペネロペは彼女に対しては、このような愛を材料にした取引みたいな駆け引きを仕掛けてこないという。それを考えると、どうもこれは男に対しての純然たる性行動だと考えられる。言語を習得してすぐにこのように性を前面に押し出した行動をとったということは、もしかしたらペネロペは言語習得以前の段階も、単に意思表示できなかっただけで、もうすでに女だったのではないかという疑念が生まれてくる。下手すると生まれた段階で女むき出しだった可能性さえ考えられる。少なくとも相手との距離感をしっかり認識したうえで、人によって言動やふるまいを使い分けるしたたかさを持っている、ということはいえるだろう。父である私は未だに持ちあわせていないというのに……。まったく女というのは一体いつから女なのだろう。娘の行動を見ていると女についての謎は膨らむばかりなのだ。

困るのは幼児にはまだ性に対するタブーが存在しないことだ。これをいったら恥ずかしいとか、そういうことをしたらみっともないといったモラルの形成も不完全である。要するにタブー無し、モラル不在、社会性ゼロで、ある意味、生物的な女性性だけがむき出しになっているわけだから、タブーやモラルで行動を規制する成人女よりも、はるかに原始的に、動物のように本能全開で女をぶつけてくる傾向がある。もちろん身近にいる異性は父親しかいないので、女性性をぶつける対象は基本的に私だ。幸いなことに私は一般男性よりモラルやコンプライアンス意識が比較的低いほうではあるが、それでもまったくゼロではないので、タブー無しで露骨に意思表示&愛の取引をぶつけてくる娘にはやはり戸惑ってしまう。

そしてこの戸惑いは、俺=父親というのは娘にとってどういう存在なのかという、いわゆる父の疎外問題を招きかねない危うい疑問にも接続されている。それはつまり、好きだから抱っこしてとか、結婚するから指輪をくれとか、そんなことばかりいうということは、女という生き物は結局のところそこなのかよという疑問である。最低でも年収一千万とか、将来にわたる継続的な生活の安定とか、女って生まれた時点で男にそういうものしか求めてないんじゃないか。親として、人格的に俺に愛情を抱いているわけではないんじゃないか。父親って別に不要だけど、抱っこして指輪をくれるなら存在してもいいぐらいにしか思っていないんじゃないのか。要するに俺は妻だけでなく娘にとってもATMなんじゃないのか。それはちょっと寂しいことなんじゃないのか。等々の口に出すのも憚られるような悲しい疑問が、次から次へと裏山の筍みたいにわいてくるわけだ。

実際に驚くような反応を見せられて愕然とすることも頻繁にある。
たとえば幼稚園に入園して二日目の朝食のときのことだ。もともとペネロペは食べることにあまり興味がないようで、常時遊びたくて仕方がない性分なのでいつも食事に時間がかかる。早く食べなさいと叱ると、口だけは達者なので何だかんだと屁理屈をこねて言い訳をする。その日も朝食に中々手をつけず、食事をしない理由をぐだぐだと言いつづけ、そのうち椅子を下りて、掌をくるくるとまわしながら彼女独特のパラパラみたいな奇妙な振りつけの踊りをはじめた。調子に乗ってきてダンスは佳境にさしかかったが、幼稚園に遅刻するので妻が「いい加減にしなさい」と怒鳴りつけた。
妻の怒りの形相に、さしものお調子者ペネロペも少し怯んで、表情を失って妻の顔に見入っていた。
「早く食べないと遅刻するよ!」
「……」
「昨日は初日だったからご飯食べなくても幼稚園に連れて行ったけど、今日は食べなかったら連れて行かないからね」
「もう、どうしてそういうこというの?」ペネロペが困り果てた顔でいった。
「知らない。食べないなら話しかけないで」
「ちがうんだよ」とまた妙な屁理屈をこねはじめる。「あおちゃんね、お話があるんだよ。今日はね、またね、幼稚園で新しいお土産をつくるから、それを話そうと思ったんだよ。もう」
「そう、わかったから、じゃあ椅子に座ってご飯食べて」
妻がそういうと、ペネロペは「もう」とぷりぷりしながら、とにかく自分には食事をしない正当な理由があるのにそれを認めてもらえないことが不満でならないといった態度で椅子に座ろうとした。その瞬間だった。それまで私は二人のいいあいにまったく参加しておらず、ただ横で目玉焼きを食べているだけで、完全に善意の第三者として傍観していたのだが、ペネロペはその傍観している私の存在にそのときはじめて気づき、こういい放ったのだ。
「もう! オトウチャンが何でここにいるの!」

えええっと唖然とした。何でいるのって、だってここは俺の家じゃないか。俺だって朝食食べたいじゃないか。俺はお前の親じゃないか。俺がいないとお前はこの世に誕生しなかったんだぞ。しかし、それらの事実をまったく無視して、ペネロペは私という存在自体を一瞬にして吹き飛ばすような発言をする。まるで〈あなた、すなわち父親という存在は私にとっては本質的ではありません。特にいなくても困りません。生活費さえもらえれば〉と宣告するかのようなことを、本音がぽろりと漏れたみたいにうっかり漏らすのである。父という存在の虚しさを感じるのは、日常にまぎれたこういうふとした瞬間である。

そのくせ抱っこをしてほしいときや指輪がほしいときは「オトウチャン、大好き」などと甘えて、恋人みたいな仕草をしてみせる、その撞着ぶり。寝る前に絵本を読んでほしいときは「オトウチャン、今日は一緒に寝よう」といってベッドに誘い、本を読み終わると「オトウチャン、もういい。向こう行って仕事してきて」とかいうし、アイスを食べたいときだけ、目一杯甘えてくるし、「チューしてくれたら買ってあげる」というと、普段はチューしてくれないのに思いっきり唇を突き出して何なら舌まで出そうかという勢いだ。

そういうペネロペの態度を見るたびに、私は女というのは本当に恐ろしい生き物だとつくづく痛感する。痛感するのだが、もちろんペネロペに「大好き」などといわれると死ぬほど嬉しいので速攻で絵本を読んであげるし、アイスも買い与える。そしてアイスを美味しそうにペロペロ舐める娘の姿を見ながら、こう思うのである。
こいつ性を売ってるなぁ。俺も性を買ってるなぁ、と。

そんなペネロペの女ぶりが頂点に達したのは、極夜の探検が終了して約五カ月ぶりに帰国したときだった。前に書いた友達のユイ君に鼻くそをくっつけた事件から一カ月ほど後のことである。久しぶりに私と再会したのがよほど嬉しかったのか、ペネロペは成田空港に迎えに来てからずっと私のそばを離れなかった。足にくっつき、身体に巻きつき、腕を組んでは「オトウチャン? オトウチャン?」と恋人みたいに延々と甘えた声を出しつづける。仕草や媚態は完全に女。瞳をのぞきこみ色目を使っては私の歓心を買おうとする。
私のほうはといえば、もちろん最高の気分だった。完全に両方の眉尻が垂れさがり、でれでれしてしまう。

夕食のときもペネロペはべたべたくっついて離れようとしなかった。かわいさという、自分の、要するに女の武器を最大限に利用して私にしなをつくる娘の様子を見て、妻は敗北を悟ったらしく、目を丸くしてぼそっとつぶやいた。
「私には、もうこれはできない……」
それを聞いた私は内心、お前もやっていたのか……と別の衝撃を受けた。

そんな状態が何日かつづいたある日、知人と約束があった私は娘がテレビに夢中になっている隙を見て駅前の居酒屋に出かけた。帰国以来ペネロペは私にくっついて離れないので、外出するのが見つかったら、またひと苦労だと思ったからである。夜中に帰宅するとペネロペはすでに熟睡していた。妻に話を聞くと、ペネロペは私がいないことに気づいた瞬間、「オトウチャンがいない。どこ行った?」と喚きはじめ、「もう二度と離れないっていったのにぃ」と大声で泣きはじめたという。娘がそこまで私を偏愛するのはなかったことなので、妻も驚いてその様子をスマホで撮影した。動画を見せてもらうと、たしかに「オトウチャンがいない。オトウチャンがいない」とぎゃんぎゃん泣き喚く様子が映っていた。
「もうびっくりだよ」と妻がいった。「北極に行っている間だって、オトウチャンの〈オ〉の字もいってなかったのに」
「女の自我が目覚めたんじゃないか」
「どういうこと?」
「だってそうじゃないの。ちょうど女の本性が目覚めたときに近くにいる男が俺だってことだろ? 父親ってのは本質的に不要な存在なんだよ。親として必要としているわけじゃないから北極に行っている間は気にしなかったんだろ。それが急に泣くってことは親としてじゃなく、男として必要だったってことでしょ」
「何いってるの」と妻が呆れていった。「そんなの子供の本能で泣いているのに決まっているじゃない。久しぶりに家に帰ってきたのに、またいなくなったから捨てられたと思ったんだよ」
「そうかなぁ」

そのときは釈然としなかったが、後から考えるとやはり妻の見解が正しかったのかもしれない。
その翌日、私が久しぶりに日課のランニングを再開するため家を出ようとすると、ペネロペはまた「行かないで。離れたくないよ」と泣き出した。今生の別れのように涙をぼろぼろこぼす娘を振り切り、私は玄関の扉を閉めて外に出た。家のなかからはぎゃあぎゃあと大声で叫ぶ娘の泣き声が聞こえてくる。一時間ほど走り汗みどろになって帰宅すると、ペネロペの機嫌はすっかり直り、笑顔でとことこ迎えにきてくれた。その後ろから妻が現れ、「あおがオトウチャンに手紙書いたんだよ。感動するから読んでみて」と自由帳を手渡した。
自由帳にはA4用紙五枚にわたり、大きな幾何学模様のような覚えたての平仮名がならんでいた。一部読解不能な文字が交ざっていたが、そこにはこう書かれていた。

〈おとうさんへ 41(註・私の年齢)
おとうさん はなれたくないよ だいすき いっしょに
あそぼうね
かなしいよ こんどいっしょにあそんでね
たのしみにしてるよ げんきでね
あいしてるよ きらいだけどだいすき〉

この娘の父親であれて本当によかった、心底そう思える一瞬だった。これがペネロペが自分の感情を素直に表現したはじめての文章である。

関連書籍

角幡唯介『探検家とペネロペちゃん』

北極と日本を行ったり来たりする探検家のもとに誕生した、客観的に見て圧倒的にかわいい娘・ペネロペ。その存在によって探検家の世界は崩壊し、新たな世界が立ち上がった。なぜ、娘にかわいくなってもらいたいのか。なぜ、娘が生まれて以前より死ぬのが怖くなったのか。......娘を観察し、どこまでも深く考察していった、滑稽で純真で感動的な記録。

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探検家とペネロペちゃん

なぜ、娘は好きな男の子に鼻くそをつけるのか。
なぜ、娘にゴリラの研究者になってもらいたいのか。
なぜ、娘にかわいくなってもらいたいのか。
なぜ、娘が生まれて以前より死ぬのが怖くなったのか。

極夜と東京を行ったり来たりしながら、客観的に見て圧倒的にかわいい娘・ペネロペを観察して、どこまでも深く考察していく探検家の父親エッセイ。

バックナンバー

角幡唯介

1976年北海道生まれ。早稲田大学卒、同大探検部OB。『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』で講談社ノンフィクション賞を受賞。

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