台風も過ぎ、急に秋めいた今日この頃。
『ラブコメ萬葉集』としては、秋の夜長にきゅんとなる恋の歌をご紹介せざるをえない!!
というわけで、今回は私がとーーーっても好きな恋の歌について語ってみます。
萬葉集のなかでも屈指の比喩表現をつかった恋の歌だと、私は思う。
秋山の木の下隠り行く水の我こそ益さめ思ほすよりは(巻2・92)
現代語訳:水かさが増す秋山の川みたい。私のほうが想っているの。
この歌の解説に入る前に、メタファー、についての話をしたい。
メタファーって聞いたことあるだろうか。
萬葉集には、「譬喩歌」というカテゴリーがあるくらい、「比喩」つまりはメタファーの影響が大きい。メタファーをきちんと読むことが萬葉集の和歌を読むってことなんじゃないかなあ、と思うときもあるくらい。
メタファー、ってなんでそんなに大切なのか。
ちょっと遡って、なんでそもそも和歌みたいなものが必要なのか、という話から始めたい。ちょっと今回は話がくどいけど許して!
たとえば57577という枠組みにわざわざ言葉を選んで、ひとつの作品にする。それが和歌(短歌)をつくることだけど……これ、あまりにもめんどくさい行為だとは思わないだろーか。だって、わざわざ57577に落とし込まなくても、私たちは言葉を読むことができる。定型なんかなくても、単純に思ったことを伝えればいい、と、思う。
だけど。たとえば変な話、好きな人に「自分がいまどのようにあなたのことを好きか」を伝えなければならない状況があったとする。
……難しいっ、と思わないだろうか。
古典的な少女漫画のシーンに、異性に対する好きという感情を自覚したとき「辞書で『恋』とか『好き』という項目を調べる」、という状況がある。でも、辞書に書かれている「好き」の意味は、友達への「好き」とか家族への「好き」とか恋愛における「好き」とか、さまざまに広がる「好き」のなかの共通項を定義したものでしかない。
要は「自分がいまどのようにあなたのことを好きか」を言葉にするのは、意外と、「好き」という言葉ではまったくもって足りていない。
言葉は万能ではない。私たちは多様な意味をそこへ込めすぎる。定義を見つけるのは楽しい作業ではあるけれど、じゃあ好きな人にその定義を伝えたところで「はあ? んで結局どういう意味?」と眉をひそめられるのがオチだろう(たぶん)。
そこで、千二百年前、いやそのもっともっと昔から、人類が発明したのが「メタファー」である。
つまりは、「自分がいまどのようにあなたのことを好きか」を、「●●と同じように、好き!」と表現することを覚えたのである。
Aと同じ状態であるBに例えたら、Aの内容がすこし相手に伝わりやすい。BみたいなA、と表現することで、私たちは相手にわかってもらいたかったのだ。
たとえばこの歌を見てほしい。
夏の野の茂みに咲ける姫百合(ひめゆり)の知らえぬ恋は苦しきものぞ(巻8・1500)
現代語訳:夏の野原の茂みに咲く姫百合みたいに、人に知られない恋は苦しいものね。
姫百合というのは、赤くて小さな花なのだけど。夏の野原に姫百合がぽつっと咲いていても、茂みに隠れてよく見えない。そんな姫百合と同じように、ぽつっと隠れる自分の恋心は、見えづらい。だから苦しい。……とまあ、そんな歌である。
これなんかも、ただ「知られない恋って、苦しい」って言うよりは、「夏の野の茂みに隠れるみたいな恋心」とたとえたほうが、赤い一輪の花が野原にぽつんと隠れている様子が目に浮かんできて、伝わる情報量が多いだろう。
そんなふうに、伝えたいものをなにかに例えることで、的確かつ美しく伝える手段が、メタファー(比喩)だ。
なによりも、直接的に言ったら元も子もないことであっても、メタファーを使うことで、すこし本来よりも美しく、面白くコーティングできるんじゃないか、と思う。
秋山の木の下隠り行く水の我こそ益さめ思ほすよりは(巻2・92)
現代語訳:水かさが増す秋山の川みたい。私のほうが想っているの。
今回の歌も、「あなたよりも私の想いのほうが強いんだよ」と言ってしまえばそれだけのことなんだけど、「秋に、山の木々の下を隠れる川の水かさが増してくみたいに……」というメタファーを付加することで、なんだか自然の風景と重なる、うつくしい伝え方に変わる。
しかもこの歌、この前に詠まれた歌に「山の頂上」が詠まれていたから、今度は「山の谷底」を詠もう、という発想もあっての作歌だ。
うーむ、教養というか、頭の回転の速さが見える。
私たちのほんとうの感情や思考なんて、シンプルに表現しようと思えば、いくらでもシンプルにできる。日常で感じていることなんて、「つらい」とか「好き」とか、せいぜいその程度なんじゃないか、と思う。
だけど、それをすこし「もう少し自分の感情をきっちりつかまえて、言語化できないかなあ」と考えてみたり、「もうちょっと細部の塩梅まで相手に伝わってほしい」と思ってみたりすると、そこにメタファーが生まれることがある。
そしてそれは、文学というジャンルになる。
だって人間の個人的感情を、誰にでも共通して伝わる物語やメタファーにしたのが、文学だ。
って真面目な話になったけれど、萬葉集にラブコメがたくさん収録されているのは、結局、「和歌という形式を使ってまでわざわざ表現したいこと」のひとつが、恋愛、だからなのだろう。
文学というかたちをわざわざとってまで、他人に伝えたい感情。それがこの世に存在する限り、萬葉集の時代も、たぶんこれからも、変わらず文学っていうジャンルは、あり続けるんだと思う。
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ラブコメ!萬葉集
新元号「令和」の元ネタとして今注目の「萬葉集」。萬葉集研究をしていた京大院卒書評家が、その面白さを現代目線からぶったぎりつつ解説します。