自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われています。理想的な思想のはずなのに、なぜなのでしょうか? 11月28日に発売された『リベラリズムの終わり その限界と未来』(萱野稔人著)では、その原因、背景を哲学的に分析しました。「はじめに」を抜粋してお届けします。
リベラリズムが機能不全に直面している
ここのところ「リベラル」といわれる人たちへの風当たりがひじょうに強くなっている。
リベラルとは、その名のとおり「個人の自由を尊重する立場」の人たちを指す言葉だ。個人の自由を尊重するがゆえに、それを阻むもの、たとえば権力の濫用や不平等などを厳しく批判する。そうした立場の人たちが──個々の人間だけでなく、政党やメディアなどの組織も含めて──「リベラル」とか「リベラル派」などと呼ばれる。
その「自由を尊重する立場」の人たちが、なぜここにきて強い批判にさらされるようになっているのだろうか。
時代の流れをみれば、むしろ個人の自由を尊重する社会の傾向はかつてより強まっているように思える。
たとえばセクハラやパワハラを問題視する声はかつてに比べて高まっている(パワハラ:パワーハラスメントの略。優越的な地位にある人間が、その地位を利用して他者に精神的・身体的苦痛をあたえること)。
もちろん、だからといってセクハラやパワハラがなくなっているわけではまったくないので、それによって自由をめぐる状況が目にみえて改善していると述べるつもりはない。ただ、そもそも2000年以前には「パワハラ」という言葉すら存在しなかったことを考えるなら、こうした問題意識の広がりはけっして小さくない時代の変化にはちがいない。
にもかかわらず、現代において「リベラル」といわれる人たちへの風当たりが強くなっているのはなぜなのだろうか。
思い当たるふしがないわけではない。
実際、口ではリベラルなことを主張しながらも、実際の行動はまったくリベラルではない、という人はたくさんいる。
たとえば、私が所属している文系のアカデミズムの世界ではリベラルな主張を掲げる学者が多いが、そのなかには学生や大学職員、若手研究者に対してきわめて権力的にふるまう人も少なくない。
また、政治の世界でも、リベラルを標榜している政治家や政党が「他人には厳しく、自分たちには甘い」という姿をみせることはよくある。つまり、政府や他党に対してはどんなささいなことでも厳しく批判するが、いざ自分たちに同じような批判が向けられると、とたんに居直ったり自己保身に走ったりする、という姿だ。
こうした「いっていることと、やっていることが違う」という実態がリベラル派への批判を強めていることは否定できないだろう。
とりわけリベラルな主張は、権力批判にせよ、弱者救済にせよ、差別解消にせよ、理想主義的な響きをもちやすい。だからこそよけいに「立派なことを主張しているわりには行動がともなっていない、それどころかそれを裏切っている」というように、いっていることとやっていることの齟齬が目立ってしまうのである。
口でリベラルなことを唱えているからといって、その人がリベラルな人間とはかぎらないのだ。
だからだろうか、「リベラル」と「リベラリズム」を明確に区別しなくてはならない、という指摘が近年よくなされるようになった。つまり、たとえリベラル派には批判されるべき点が多々あるとしても、だからといってリベラリズムそのものまでが同じものとして批判されてはならない、という指摘だ。
リベラリズムとは「自由主義」と訳される言葉で、もっとも広くとらえれば、個人の自由を尊重する哲学的な原理のことである。「リベラル」が自由を尊重する立場の〝人〟を指すのに対して、「リベラリズム」はそうした立場の人がよってたつ〝考え〟や〝思想〟を指している。
要するに、リベラルとリベラリズムを区別すべきという指摘が主張しようとしているのは、リベラル派が批判されているのはリベラル派に問題があるからであって、リベラリズムそのものに問題があるわけではない、ということである。
たしかに、そういいたくなる気持ちもわからなくはない。個人の自由を尊重するという考えは、現代の私たちの社会に深く根づいた基本的な思想だからだ。それを問題視することは、ともすれば個人の自由を制限したり抑圧したりしてもいいという考えに道をあけることにもなりかねない。
しかし、本当にそうだろうか。リベラル派が批判されているのは、たんにリベラル派に問題があるからだけなのだろうか。もしかしたら、リベラリズムという原理そのものが現代の社会において何らかの機能不全や限界に直面してしまっている、ということはないのだろうか。
これが本書の出発点をなす問題意識である。
リベラリズムは大きく二つに分けられる。古典的なリベラリズムと現代版のリベラリズムだ。
そのどちらについても、本書は、現代の社会において何らかの限界に直面していないかどうかを探求する。そして、限界に直面しているのであれば、それはどのような限界なのかを状況と理論のそれぞれから探求する。
本書のテーマを一言でいうなら、リベラリズムの限界について哲学的に考察することである。
ただし構えないでほしい。
本書を読むために、リベラリズムについての予備知識はまったく必要ない。本書は、現代の社会を理解し、これからの時代を構想するための、政治哲学の入門書だ。もちろん、だからといって議論の水準を下げているということはない。
議論に入るまえにあらかじめ断っておきたいことがある。
私はリベラリズムの限界について考察しているが、それはけっしてリベラリズムを否定するためではない。そうではなく、反対にリベラリズムの適正な使用について考え、リベラリズムの最良の部分をより活かすためだ。
リベラリズムの最良の部分とはいったい何だろうか。
それはフェアネス(公平さ、公正さ)を重視する点である。
なぜ自由を重視するリベラリズムから「フェアネスの重視」ということがでてくるのかというと、それは、「自分の自由を認めてもらいたければ、他の人にも同じように自由を認めなくてはならない」ということをリベラリズムが要請するからである。
要するに「パワハラを受けたくなければ、他人にもパワハラをしてはならない」ということだ。「自分だけは許される」ということをリベラリズムはけっして認めない。
とはいえ、現実にはこれが難しい。
人間はそもそも自己中心的な存在である。リベラリズムにもとづいてみずからの自由を主張するだけなら、あるいは自由を妨げるものを批判するだけなら、じつはそれほど難しくはない。これに対して、フェアにものごとを考え、判断し、ことに当たることは、かなり難しい。
リベラル派への批判が高まっているのも、根本的にはこのフェアネスをリベラル派が徹底できていないことに理由がある。自分たちは権力に対峙しているのだから、多少の強引さや強権さ、ルール違反、不誠実、まやかし、暴論、暴言などは許される、というおごりが(本人たちがそれをどこまで自覚しているかは別にして)彼らからにじみでているのだ。
リベラリズムの限界についての考察ときくと、条件反射的に「それは反リベラリズムに違いない」と考えてしまう人もいるかもしれない。しかしそれは早合点だ。臆見にまどわされずに議論する、ということもフェアネスの一つであるだろう。
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続きは『リベラリズムの終わり その限界と未来』をご覧ください。
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リベラリズムの終わり
自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われている。米国のトランプ現象、欧州の極右政権台頭、日本の右傾化はその象徴だ。リベラル派は、国民の知的劣化に原因を求めるが、リベラリズムには、機能不全に陥らざるをえない思想的限界がある。これまで過大評価されすぎたのだ。リベラリズムを適用できない現代社会の実状を哲学的に考察。注目の哲学者がリベラリズムの根底を覆す。