老いた研究者×毒舌美人刑事コンビがゾンビ・ウイルス捜し東京中を駆ける!「猟奇犯罪捜査班 藤堂比奈子」シリーズ著者が描く戦慄のパンデミックサスペンス、試し読み第2回。微生物学者・坂口(65)はある日恩師の妻に呼び出され…前回までのお話はこちら。
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初めて訪れる恩師の住まいは、間口二間ほどの古くて質素な家だった。それはさいたま市郊外にあり、よく似た外観の小さな家が道路ギリギリに軒を連ねて建っていた。
最近になって手入れをしたことはしたらしく、スライド式のアルミ門扉は新しく、壁や庇も塗り直されてはいたが、外観から窺える間取りからしても贅沢な住まいとは言い難かった。
研究一筋63年、遺伝子工学の発展に半世紀以上を費やした恩師宅の清貧さは、坂口を複雑な心境にした。
坂口は今年65歳になった。
恩師が大学にいた頃は70歳まで定年延長が許されたから、自身もそのつもりだったのに今では大学職員の65歳定年制がほぼ定着してしまい、ここ一年は大学以外の勤め口を探して学会や研究者の伝手を探す日々を送ってきた。
幸いにも坂口は特任教授として大学に残れることになったが、職を失う不安と戦う日々は心許なく、恩師の時代に生まれていればよかったと羨ましく思ったものだ。
それなのに、恩師の家に来てみれば、研究者の貧寒を見せつけられた気がして尻のあたりがサワサワとした。
学生から研究者にスライドしてゆく者の多くは実直かつ純朴で、一般企業における上下関係の荒波を泳ぎきる術(すべ)を持たない。坂口自身もその例に漏れないことは、定年延長の決定が下るまでの短い間に嫌というほど実感させられた。
若かった頃は年寄りに思えた65歳は、なってみればまだまだ働ける歳だった。70どころか80過ぎても現役でいけるのではと思いもした。
清貧を絵に描いたような恩師の暮らしぶりを目の当たりにすると、その人生が家ではなく、大学の研究室にあったことを知る。生涯を学者で通したと言えば聞こえはいいが、研究室以外に彼の居場所はあったのだろうか。
坂口も同じだ。
昨年で職員を終わっていたら、この先をどう生きていけたろう。悠々自適に隠居生活を送る蓄えなどないし、研究者としての自分に見切りをつける気持ちも持てない。探究心はまだ衰えていないし、自分が老いたという実感もあまりない。学生や若い研究者とする仕事は楽しく、何より坂口は研究が好きだった。
門扉の前でインターフォンを探したが、郵便ポスト付きの支柱があるだけでベルはない。背の低いナンテンの木が慎ましやかに郵便ポストの脇で揺れ、庭のない建物の外観を和らげている。仕方がないので腕を伸ばして錠を解き、アルミ門扉をスライドさせて敷地へ入った。
駐車スペースしかないアプローチはコンクリート敷きで、年代物の軽自動車が一台止まっている。恩師は83歳でこの世を去ったが、細君とは一回り以上も離れていたはずだから、車は彼女のものだろう。ふと、奥さんは幾つになられたのだろうと思い、それでも70は過ぎているのかとまた思う。自分ですら65になるのだから当然だ。
玄関の前まで進むと、ようやくインターフォンが見つかった。
背筋を伸ばしてネクタイの曲がりを直し、緊張しながらベルを押す。ややあって、
「はい?」
と優しげな声がした。
「大変ご無沙汰しています。帝国防衛医大の坂口です」
名乗るとさっきの声が言う。
「はいはい。ただいま参ります」
数日前。坂口は久しぶりに細君から電話を受けた。夫の遺品を整理していたら、渡したい物が出て来たので取りに来てもらえないだろうかと言うのであった。
細君と最後に会ったのは恩師の告別式だ。会ったといっても焼香の時に会釈しただけで、ほとんど言葉を交わしていない。きれいな人だった記憶があるが、喪主を務める彼女の顔は、痛ましくて見られなかった。恩師にはかわいがってもらったが、遺品を受け取るほど親しかったわけでもなく、亡くなる少し前までは学会で見かければ挨拶する程度の仲だった。
そんなわけで、突然の呼び出しには驚きつつも、とりあえず故人の好物だった兎屋の豆大福を土産に携え、自宅へやって来たのである。
カチャリと鍵の音がして、玄関が開く。
狭い三和土(たたき)にサンダル履きで立つ細君は、記憶に残る印象よりも随分体が縮んで見えた。恩師が大学にいた頃は時折研究室を訪ねて来て、部屋の拭き掃除をしたり、ゴミを出したり、食べ物を差し入れて貧乏研究者たちをねぎらうことも忘れなかった。今ではその役を坂口の妻がやっている。
「まあ坂口君」
久しぶりね、と彼女は微笑み、
「ああ、ごめんなさい。すっかり立派になられたのに『坂口君』はないわよね」
と、恥ずかしそうに俯(うつむ)いた。
「いえ。奥さんに君付けで呼ばれると、ジジイでも若やいだ気分になれますよ」
あえて軽口を叩きながら、坂口は頭を下げた。
告別式の時より白髪が増えて、やや前屈みのままゆっくり行う動作には容赦のない老いを感じたが、かつては痩せてひょろひょろだった自分も貫禄ある年寄りになったのだからお互い様だ。
「先生の告別式でお目にかかって以来ですね。どうです、少しは落ち着きましたか?」
「いいえ、ちっとも」
細君は笑顔でドアを大きく開けたが、四尺四方の玄関に大人二人が立つスペースはなく、先に框(かまち)へ上がるのを待って玄関へ入った。三和土には婦人用のサンダルが一足だけ。他には何もない。
「狭くてごめんなさい。でも本当によく来てくれたわね。さあ、上がって、上がって」
三和土と同じ広さの框の先は狭い廊下と階段で、脇には暖簾を下げた入り口がひとつ。細君はスリッパを揃えてくれながら暖簾の奥へと坂口を誘う。豆大福の包みを下げて暖簾をくぐると、そこはもうリビングとつながったキッチンだった。
室内はこざっぱりと片付いていて、慎ましやかな暮らしぶりが見て取れた。布張りのソファには体が沈んだ跡があり、床には恩師が遺したらしき男物の上履きが、今も揃えて置かれていた。二間をつなげた壁一面に資格証明書や表彰状がずらりと並び、チェストにはトロフィーや盾が飾られている。
立ったままそれらを眺めていると、
「これも近いうちに処分しなきゃと思うんだけど、あの人が苦労した証だと思うと、なかなかね」
サッパリとした口調で細君が言った。
「どうぞ、そちらへお掛けになって」
凹んだソファを勧めてくるので、坂口は豆大福の包みを出した。
「兎屋の豆大福を買って来ました。先生の大好物でしたよね」
「あら嬉しい」
細君は恐縮して菓子を受け、
「坂口君。よくそんなことまで覚えていてくれたわねえ。早速あの人にお供えするわ」
と微笑んだ。
恩師がいるのはマンションサイズの仏壇で、位牌の横に在りし日の写真が飾られている。新しい花が生けてあるので、細君は今も夫を愛しているのだろう。
断りを入れて仏壇へゆき、線香を上げさせてもらう。瞑目してから顔を上げると、細君が皿に盛った豆大福を手に焼香が終わるのを待っていた。入れ替わりにそれを仏壇に供え、坂口には再びソファを勧める。
軽く腰掛けて、坂口は室内を見渡した。先月一周忌を迎えたというが、恩師の気配は未だ色濃い。
「先生のものは、みんな片付けてしまうんですか?」
仏壇の写真を見ながら聞くと、細君はキッチンでお茶を淹れながら、
「終活というのかしらね。少しずつ整理しようと思っているの」
と背中で言った。コンロで湯を沸かしつつ、皿にフルーツを盛っている。
「奥さん、お構いなく」
「遠慮なんかしないで頂戴。せっかくのお客さんだし、私も独りで寂しい思いをしているんだから」
そう言って振り向くと、
「奥さんやお子さんたちはお元気なの?」
と、聞いてきた。
「おかげさまで元気にしてます。奥さんはご存じでしょうが、ぼくが無精者だから、豆大福も満佐子(まさこ)に予約してもらったり」
「兎屋さんのは人気だし、すぐ売り切れてしまうものねえ。それは奥さんに感謝だわ。実を言うと、私もこれが大好物なの」
「長男はまだ大学病院で外科医をやっています。孫が2人、男の子と女の子で」
「あら、それはいいわねえ。うちは子供がなかったから羨ましい。下の子は? 下も男の子だったわよね。とても元気な」
「奥さんこそ記憶力がすごいですよ。仰る通り、うちは男、男、女で、次男は陸上自衛官になって三宿駐屯地にいます。末娘は看護師ですが、先月結婚して家を出て、今は女房とふたり、間の抜けたような生活になりました。子供たちがそれぞれ所帯を持って、ようやく一安心ってところです」
「間の抜けたようなんて、それは奥さんの台詞でしょ? 坂口君は大学一本で、お子さんたちのことは奥さんに任せきりだったんだから。そうじゃないの?」
細君がピシリと言った。坂口は恐縮して髪を搔く。
「まあ……そう言われてしまうと、その通りかな。ぼくも今年から特任で、前より随分時間があるんですけれど、それをどう使えばいいのか、まだよくわからないんですよ」
「どうにでも自由に使うといいわ。奥さんと旅行に行くとか、共通の趣味を探すとか」
「いや、でも週5日出勤ですからね。まとまった休みは取れません。子供を3人大学へやったんで、学資ローンや住宅ローンがまだ残っているんです。働けるだけ働かないと」
特任教授になったとはいえ、幸いにも坂口は週5日勤務で大学と契約を結ぶことができた。週5日勤務ならばそれなりの年俸を得られるが、これが週に2日や3日勤務になってしまうと副業を探さなければならない。
それでも収入は現役時代より著しく下がり、年金と合算することでなんとか暮らしているのであった。
あとは少しでも長く勤めさせてもらって、好きな研究を続けたいと考えている。そうなると、妻を旅行に誘うのもしばらく後になりそうだ。
そのあたりのことを話していると、細君がお茶を運んで来た。
故人が好きだった煎茶と豆大福、小鉢に盛った浅漬けと、食べやすいよう切り分けた果物などがテーブルに並ぶ。細君は坂口の向かいへ来ると床に座った。
「主人がね、ここと二階の一室を、ずっと占領していたものだから、よくわからない機械や書物が、それはたくさんあったのよ。ファックスでしょ? パソコンにプリンターでしょ? できる限り処分して、これでも随分リビングらしくなったのよ」
福々しい顔に銀縁メガネ、額に白毫(びゃくごう)のようなイボがある恩師は、写真の中で苦笑している。
「先生は研究熱心でしたからねえ。時々は大学へも顔を出してくれていたみたいだし」
「熱心だなんて生やさしい。ほとんど取り憑かれたみたいだったわよ。自分の技術には絶対的な自信を持っていたから、坂口君たちには鬱陶しい存在だったんじゃない?」
「いえ、そんなことは」
いいのよと細君は微笑んだ。
「……でも、おかげで最後の最後まで、好きなことをやり続けて逝きました。本人にとっては幸せな人生だったんじゃないかしら」
体調の異変に気付いたときには前立腺がんが全身に転移していたと聞く。それでも延命は望まずに、ここで倒れてそのまま逝ったと細君が話してくれた。焼香だけの告別式では聞くことのできなかった話である。
「パソコンも処分してしまったんですか?」
それらが置かれていたはずの場所には、デスクと本棚だけが残されている。
「ノートパソコンだけじゃなくって、デスクトップパソコンが2台もあったの。それでね」
ちょっとお待ちになって、と言い置いて、彼女は夫のデスクへ立ってゆき、一冊のアルバムを持って戻った。革製で表紙が厚く、ベルトと鍵がついた重厚な品だ。
「坂口君に渡したいのは、これなのよ」
手に持つと、けっこう重い。
「なんですか?」
膝に載せて開こうとしたが、鍵が掛かっていてダメだった。伸び上がって坂口の様子を見ながら、細君が言う。
「あの人の研究データ……たぶんそうだと思うんだけど、鍵はどうしても見つからないの」
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つづく――。次回12/18(水)更新。坂口の大学にはちょっと変わった門番がいて……?
メデューサの首
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