老いた研究者×毒舌美人刑事コンビがゾンビ・ウイルス捜し東京中を駆ける!「猟奇犯罪捜査班 藤堂比奈子」シリーズ著者が描く戦慄のパンデミックサスペンス、試し読み第3回。恩師の妻から謎のファイルを受け取った微生物学者・坂口(65)は勤務する大学へ…前回までのお話はこちら。
* * *
「私は研究のことがさっぱりだから、わかる人に受け取って欲しいと思ったの。あの人が遺した物を整理する後ろめたさか、それとも私のわがままなのかもしれないけれど、もしも研究データとかなら、まだ何か役に立つんじゃないかしらと思ったり……だからもし、坂口君が中を見て、用がなければ処分してもらってかまわないのよ」
「鍵を壊して、中を見てもいいということですか?」
プライベートな情報が入っている可能性があるので聞いてみた。けれど細君は委細を承知しているという顔で微笑んでいる。
「マズイものが入っているはずないわ。あの人も坂口君とまったく一緒。研究以外には何の興味もない人だったから」
どうぞ鍵は壊して頂戴、とまた笑う。
「あの人の性格からして、わざわざ鍵をかけておくなんて考えられないことだから、よほど重要なデータが入っていると思うのよ」
「確かに……そうですね」
恩師は大学の生体防御研究部門でウイルスの遺伝子を書き換える研究に従事していた。遺伝子の組み換え方法はいくつかあるが、遺伝子の運び屋として働くベクターや、遺伝子を切ったり貼ったりする酵素の生成方法について、恩師は独自の知識と技術を持っていた。
彼のレシピで遺伝子を操作しても同じ結果を出せることは稀であり、研究者仲間からは『如月(きさらぎ)先生は針と糊を使って遺伝子を組み換えている』と言われるほどの熟練者でもあった。
そしてその繊細な技術と裏腹に、大雑把な性質を持つ人でもあった。地位や名声などには執着がなく、論文とは予算を引っ張って来るためのものだと割り切っていた。服装にも頓着しないので、細君がいつも着替えを届けに大学へ来ていた。そうでなければ研究室のイスに引っかけたままの白衣を着て、どこへでも出かけてしまいかねない人だった。
「先生が厳重に保管していたというのなら、それだけで興味がありますね」
ベルトを強く引っ張ってみても、頑丈な作りで外れない。細君は鍵の在処を知らないというので、中を見るにはベルトを切らねばならないだろう。
「何かなぁ……中身は」
首を傾げてアルバムをひっくり返したが、どこにも何も書かれていない。
大学の研究室では、その道のプロが膨大な時間を費やして探求を続けているので、国家機密級の発見に達することが結構ある。けれど発見即実益に叶うわけではなくて、予算、スポンサー、タイミング、その他多くの条件によって淘汰されていく。このファイルに発見が隠されている場合でも、それが栄光に浴する可能性はあまりない。
坂口はただ、細君の手前、むげな扱いをしかねたのだし、また別に、故人が鍵をかけてまで保管していたデータの中身に興味を持っただけでもあった。坂口は、豆大福を入れて来た紙袋にアルバムをしまった。
「確認して、何かわかったら連絡しますよ」
「いいえ、それには及びません。あの人はもういないんですから。それに、私が話を聞いても、なんのことだかわからないと思うわ」
あとは頂いたお茶を飲み、自分が持って来た豆大福をひとつ食べた。つきたての餅と、粒あんと、塩味のきいた豆のバランスは絶妙で、誰が食べても好物になる味だと思う。細君はこれをこの家で、夫と味わう機会を持てたのだろうか。
退職後も研究一筋だったという如月を自分に重ね、ゆうべは妻にもっと詳しく水の話をするべきだったろうかと反省する。自分がもしも先に死んだら、妻は暮らして行けるのだろうか。
退去するとき、細君はナンテンの脇まで坂口を見送ってくれ、「坂口君?」と、いたずらっぽい笑顔を見せた。肩をすくめて小首を傾げる。
「あなた、奥さんを大切にしなくちゃダメよ。坂口君は主人と似たところがあるから、奥さんに甘えっぱなしなんじゃないかと思って。できるときにしっかり孝行しておかないと、人生って、そんなに長くないものよ」
坂口は恐縮して頭を搔いた。
「……奥さんもお元気で」門扉の先はすぐに車道で、坂口はそこで会釈した。
道を渡って振り向くと、細君はまだそこにいて、小さく手を振っている。恩師如月と過ごした長い年月が、老いた彼女に重なって見え、坂口は自分の老いを嚙みしめた。
Chapter 2 ゾンビ・ウイルス
六月上旬。
最寄り駅から徒歩十数分。建物の隙間にのぞく細長い空を見ながら進んで行くと、住宅街が途切れた先に、鬱蒼と森に囲まれたキャンパスが現れる。坂口が勤務する帝国防衛医科大学だ。
大学は全寮制で、学生が通って来ることはない。当然ながら門は閉まったままで、特別な事情がない限り開放されない。業者の通用は裏門からと定めているため、正門を訪れるのは正賓か、事情を知らない者だけだ。
正門、裏門、どちらにも守衛室があるが、正門の守衛は常時1人なのに対し、業者が頻繁に出入りする裏門は3人の守衛が守っている。広いロータリーを出入りする業者の車をすべて止めてチェックするからだ。
守衛に立つのは眼光鋭い3名の老人で、いずれもこの大学のOBだ。坂口の研究室がある微生物研究棟は裏門に近いため、彼らとは旧知の仲になる。
3人には呑気に老後を過ごそうなどという気持ちは微塵もなくて、『敵兵は一人も通さんぞ』という面構えで日々の勤務に当たっている。1人が常にロータリーの中央に立ち、残る2人は守衛室で目を光らせる。
その様子から学生たちは、彼らを『ケルベロス』と呼ぶ。
ケルベロスは冥界の王ハーデスの番犬で、三つの頭と蛇の尻尾を持つ怪物だ。雨の日も風の日も炎天の日も、彼らは嬉々として敵兵の来襲を待っている。
「おはようございます」
中折れ帽子をちょいと持ち上げ、ロータリーにいる老人に入構証を見せた。裏門で最も年下の守衛ではあるが、朝から晩までロータリーに立ち続けるのは大変なことだ。それでも彼は、見るたび背筋をピンと伸ばしている。髪は白いが眉毛は黒く、同じように黒々とした髭を持つ。髭爺は右手を守衛室へ振り、入構証は守衛室に提示せよと促した。
それが規約であるにせよ、坂口はこの大学に何十年も通い続けているのだから、いい加減顔パスでよかろうと思う。けれど老兵は頑として、決して職務を怠らない。
坂口は仕方なく脇へ寄り、
「おはようございます」
と、守衛室に向かって帽子を上げた。
「おはようございます坂口先生。いい帽子ですな」
守衛室にいる二人のうち、背の高いほうが笑いかけてくる。伸びた眉毛が目の上に掛かり、シュナウザーという犬を彷彿させる。もう片方がギョロ目を動かし、もったいぶって入構証を確認する。
「先週が結婚記念日でね、これは家内のプレゼント」照れ臭そうに答えると、
「それはめでたい。で? もう何年になるんです?」眉毛のほうがまた聞いた。
「いつの間にか30年も経っていてね、驚くよ」
「そりゃ先生、旅行に連れて行けだとか、首飾りを買ってくれだとか、言われそうな年月ですな」
「はい、どうぞ。いいですよ」ギョロ目が入構証を返してくれる。
何を思ってか、入構証と一緒にチラシを一枚渡された。黒が基調の豪華なチラシは、目もくらむほどまばゆい宝石の数々を印刷したものだ。
「なんですか、これは」訊ねると、裏門の番人たちは悪戯っぽく視線を交わした。
「いや、首飾りを買う参考になるかと思ってさ」ニヤニヤと笑っている。
何カラットというのだろうか。親指の先ほどもある青い宝石や、赤い宝石。星屑を撒いたようなダイヤモンドのネックレス。ブレスレットや指輪など。どこの王族が身につけるかというような宝飾品ばかりが並んでいる。
「こんなモノを買えるわけがないでしょう」坂口は真面目に答えた。
「こんなの買っても、それに合わせる服がない。お城に住んでるわけでなし」
「まったくだ」
ギョロ目は腕を伸ばしてチラシを引き上げ、声を出してクックと笑った。
「売り物じゃなくって、宝飾展のチラシなんだよ。たまには銀座へ目の保養に行きたいって、女房がね。今も昔も、高価なものは銀座に集まると決まっているねえ。幾つになっても女ってやつは、どうして光り物が好きなのかなあ」
「男が戦闘機にワクワクするのと一緒だろ? 仕方ない」
眉毛がギョロ目にそう言って、ゼロ戦の話を始めたので、坂口はようやく裏門を通った。彼らは戦闘機にワクワクするかもしれないが、坂口は電子顕微鏡でウイルスを見るときのほうがワクワクする。子供の頃、初めて顕微鏡を覗いてデンプンの美しさに感動した記憶が、今も心にあるほどだ。身近な塩やカタクリ粉の美しさを知った衝撃が、彼を微細な世界の不思議と魅力に目覚めさせたと言ってもいい。
裏門の先は長い並木道で、開校当初に植えられたケヤキが巨木に育ち、新緑の枝が縦横にせり出している。木陰の風は気持ちがいいが、長い並木道を研究棟まで歩くと十分近くかかってしまう。
広大なキャンパスには様々な施設が点在するが、家と研究室と学会というルーティンを繰り返すばかりの坂口には、30年を経ても未だ立ち入ったことのない施設が多い。
恩師の細君に見透かされた通り、家のことは妻に、大学のことは大学に、任せきりの人生だった。守衛にも言われたが、そろそろ妻を旅行に誘うべきだろうか。二人で旅行を済ませたら、その次はどうすればいいのだろう。
国の予算で好きな研究を続けた日々は幸福だったが、裏を返せば、仕事以外取り柄もなければ生き甲斐もないということだ。学生同様若い気持ちでいるうちに、坂口はいつの間にか老いていた。一線を退いてなお独自に研究を続けていた恩師如月の気持ちが、今になって身に染みる。研究者が研究者でなくなったなら、いったい何になればいいのか。
木漏れ日のなか、粋に帽子を被った男の影が行く。それが自分自身の影だったので、坂口は照れ臭くなって帽子を脱いだ。ずっと見た目に無頓着だったので、帽子ひとつで変わる自分の印象が恥ずかしいのだ。
ふと、大きな荷物を両腕に抱えて、こちらへ向かって来る学生の姿に目がとまる。浅黒い肌に濃いめの顔、小柄で痩せた青年は、留学生か研修生のようである。大学では国際交流の一環として百名近い外国人を受け入れているから、おそらくその一人だろう。青年は切羽詰まった顔をして、うつむき加減で歩いて来る。
「おはよう」すれ違いざまに声を掛けると、
「オハヨウゴザマス」と青年も言う。太くて一本につながった眉、黒々と澄んだ瞳、あぐらをかいた鼻に分厚い唇。異国の雰囲気をまとった顔で、苦しげに笑った。
「どうしたのかね。たいそうな荷物じゃないか」
「学校、やメましたのネ。出ていくネ」唇の両側にえくぼを浮かべて、青年は深くお辞儀した。
「やめた? どうして」
「オ金がナイですネ」
そりゃおかしいだろうと坂口は思う。国立大学だからさほど学費が高いわけでもないし、ましてや国が受け入れを奨励している外国人留学生には様々な支援があるはずだ。
力になろうと思ったが、彼は決意の顔で「サヨナラ」と言う。事情があるなら話してごらんと、こちらが言うのを拒否するような態度であった。
逃げるように去って行く青年の後ろ姿を見送りながら、坂口はまた帽子を被った。
バサバサッと梢を揺らして小鳥が飛び立ち、若かった頃を思い出す。狭い世界を広げるために負った傷、頑なで生きにくかったのに、怖いものなどなにひとつなかった頃。今と未来を天秤に掛けても、目前の一事を優先してしまうのが若さかもしれない。小さくひとつ息を吐き、築山の裏を通って研究棟の前に出た。
* * *
つづく――次回12月25日(水)更新。いよいよ謎のファイルを開封する坂口、その中身とは…。
メデューサの首
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