野村克也さんの選手評は、いつも冷静で的確で、なにより野球と選手への愛がにじみ出ていました。心よりご冥福をお祈りします。
野村さんの著書『プロ野球怪物伝』(幻冬舎)では、教え子である田中将大、「難攻不落」と評するダルビッシュ有から、ライバルだった王貞治、長嶋茂雄ら昭和の名選手まで、名将ノムさんが嫉妬する38人の「怪物」を徹底分析しています。
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1992年のドラフトで、超目玉だった星稜高校の松井秀喜の指名を見送り、ヤクルトが獲得したのが三菱自動車京都の伊藤智仁だった。
その年のドラフトは、松井一色だったといっても過言ではない。ヤクルトの編成部も松井を強力に推した。
「獲得できれば、10年は4番はいりません」
非常に迷った。松井が逸材であることは間違いない。しかし、私はピッチャーがほしかった。監督に就任して3年。キャッチャーに古田を得て、西村龍次、石井一久、岡林洋一といった先発陣が揃いつつあり、打線も池山隆寛と広沢克己というふたりの大砲が成長してリーグ優勝を果たした。しかし、日本シリーズでは常勝・西武の軍門に下った。日本一のためには、もうひとり即戦力のピッチャーがどうしても必要だった。
松井ほどではないにしろ、4番を打てるバッターは探せばみつかる。外国人にまかせる手もある。しかし、即戦力のピッチャーはめったにいない。それで松井ではなく、その年のバルセロナ五輪で日本の銅メダル獲得に貢献した伊藤の指名に踏み切り、広島、オリックスとの競合を制して獲得したのだった。
キャンプではじめて伊藤のピッチングを見て、私はその選択が間違いでなかったことを確信した。なかでも私を驚かせたのがスライダーだった。あれほどのスライダーは、長年プロの世界で生きてきた私でも見たことがなかった。
初先発で伊藤は7回10三振を奪って初勝利をあげると、前半だけで7勝をマーク。6月の巨人戦ではサヨナラ負けを喫したものの、8回まで無失点、セ・リーグタイ記録の16三振を奪った。
2018年、テレビ番組で再会
伊藤のスライダーの最大の特長は、ブレーキの鋭さにあった。カーブに近い感じで、ギュッ、ギュッと鋭角的に曲がる。しかも、それが132、3キロの高速で曲がるうえ、長い腕がかなり遅れて出てくるから、バッターはタイミングをとるのが非常に難しい。バッターがモーションに合わせて振りにいっても、まだ伊藤の腕は残っているという光景をたびたび目にした。
ただ、伊藤はプロ入り前からルーズショルダーという大敵を抱えていた。肩関節の可動域が広すぎたのだ。それがスライダーの曲がりの大きさの秘密だったと思うのだが、関節がはずれやすかった。まさに諸刃の剣だったのである。7月4日の登板を最後に故障で離脱。そのままシーズンを終えた。
1年目の登板はわずか14試合。しかし、防御率は0.91。109イニングの投球回を上回る126個の三振を奪い、実働3ヵ月であったにもかかわらず、新人王を受賞した。それだけ鮮烈な印象を残したということだろう。
その後、2年間は登板できなかったが、1997年には7勝、19セーブをマークしてカムバック賞を受賞した。1998年以降3年間は100イニング以上を投げたが、往時の面影は失われていた。そして再び肩を壊し、2003年に引退した。
故障の大きな原因は、登板過多にあった。伊藤のおかげで私は優勝監督にしてもらったのだが、それだけ伊藤には負担をかけてしまった。責任は免れない。わかっていながら、彼の心意気に甘えてしまったのだ。ほんとうに申し訳なく感じていた。いつか謝りたいと思っていたのだが、2018年、テレビ番組で伊藤と再会し、思いを伝えることができた。
ケガは「自分の責任だと思っている」と伊藤は語り、「マウンドを降りるほうが嫌だった。ピッチャーは先発したら最後まで投げるのが使命だと思う」と私をかばってくれた。その言葉を聞いて、胸のつかえが下りた気がしたものだ。だからというわけではないが、あらためて私は言いたいと思う。
「伊藤智仁こそ、ほんとうの怪物だった──」
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プロ野球怪物伝
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