京都のお寺の副住職で、コラムニスト・編集者としても活躍中の稲田ズイキさん。そんな僧侶が、なんと「家出する」と宣言。この連載は、「僧侶」に虚無を、「寺」に閉塞感をおぼえた27歳の若い僧侶が、お寺を飛び出し、他人の家をわたり歩き、人から助けられる生活の中で、一人の人間として修行していく様子をほぼリアルタイムに記録していくというものです。今回は、ご報告があります。
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連載してた「僧侶、家出する。」だけど、久々の更新になって、ごめんなさい。「毎日がスペシャルすぎて振り返れねぇ~~~」と思っていたら、もうこんなに時間が経ってました。もうどうにも止まらない諸行無常。
ダイジェストで、最近何をしていたのか話すと、
・タイに1週間滞在
・ハロウィン供養
・お坊さん日めくりカレンダーを制作
・とある企画で短編の小説を執筆
・永平寺、高野山に行く
・寺をゼロから作る企画
などなど、今も色々と準備している企画がたくさん! もし「あの家出僧侶、どっかの公園でのたれ死んでたらどうしよ?」と心配してくれた人がいたら、ご心配おかけしました。大丈夫、僕は生きています。雑草でもブタクサでも食って何が何でも生きてやると思うくらいにはバイタリティに溢れています。
そして、ここでご報告。11月24日のタイミングで、この家出生活を終了しました。始めた当初から「どうやって終わんの?」と質問されまくってて、108日間にしようかとか、49軒お家に泊まったらとか、お釈迦さんの悟り記念日(12月8日)にしようかとか、色々と考えていたのですが、なんかそうやって縛りを設けるのは違う気がして。
だって、考えたかったのは、自分がどう生きるか、だから。結論を急いでしまっても、意味がないし、達成感だけ感じて満足するのも違うし。なので、自分の中で心の底から「もういいや!」と思えるまで、と決めていたところ、11月24日に完全に定住することを決めました。
それはその日に、京都でとあるアーティストのライブを見て、その夜中一人とある空き物件に宿泊し、知らない天井をじ~っと眺めていた際に、この家出中に考えていたことが言語化できたからです。
何者でもない
普遍的な結論。僕は何者でもない。
誰もが何者かになろうとするこの時代において「何者かになる必要性なんてない」とだけ言いたいわけではない。
誰もが知らない間に「こうあるべき」という檻に閉じ込められたり、「こうあるべき」から逃れるためにあえて檻を壊したりさ、令和になって世の中の価値観が更新されてく~~! と思いながらも、何か足元には一つの概念があって、右へ行ったり左へ行ったり、無限ループしている気がする。
僕の場合は、それが「僧侶」だった。家出前に僕が感じていたのは、僧侶としてみんなの苦しみに向き合わないといけない~! そのためには既存の「僧侶」という概念をぶち壊さないといけない~! そういう使命感。でも、家出をして気づいたのは、袈裟を外して誰かのお家に泊まっているとき、誰も僕のことを僧侶だと思って接していないということだった。まぁ当たり前なんだけど。
旅の先々で「僧侶ではなく、あなたの話が聞きたい」と言われたし、「僧侶としてあなたが生きているなら、おそらくあなたは幸せになれない。私の幸せはあなたが幸せになること」と言った人もいた。
皆の苦しみに向き合うのは、決して「僧侶として」ではない。僕は一人の人間として思わないといけないのだ。自分なくして他者は見えない。僧侶というコスプレをまとっていては、ラブは連鎖していかないことに気づいたのだ。
結局、この家出の中で僕が見つけたのは、名前である。『千と千尋の神隠し』みたいな展開であるが、僕には「みずき」という名前と、「ずいき」という両方の名前がある。僧侶となって出家した今、「みずき」は捨てた気持ちでいた。たまに学生時代の友達に会って、「みーちゃん(昔のあだ名)」と呼ばれると、なんだか胸がソワソワした。
でも、気づいたのは、僧侶として他者とともに生きる場合、「みずき」が絶対に必要だということだ。多分、僕は「僧侶になろう」「本当の僧侶にならないといけない」と急ぎすぎて自我が2つに分裂してしまったのだろう。みずき、置いてけぼり。SNSでアカウント作りすぎて「本当の私ってなに?」と悩んでしまうあの現象に似てる。
本当の自分なんて存在しなくてもいい。それぞれにそれぞれの人格を楽しめばいいのだと思う。でも、時に一つの人格にすべての人格を飲み込まれてしまうこともある。私ってダメだなと思うと、私の全部がダメになってしまうように。
だから、僕は2つの自我を愛して、2つの名前を持って生きることを決意した。それが衆生とともに生きる道を選んだ日本の大乗仏教の必然なのではないかとすら思う(言い過ぎる)。
「こうあらねばならない」という思い込み、それを仏教では煩悩(とくに「無明」)というんだけど、その闇の中で、僕は自分の名前に出会ったのだ。完全に自己完結型『君の名は。』。みずきとずいきから始まるセカイ系ラブストーリーなわけ。
だから、何者でもない。竹原ピストルになる必要もなければ、歴史に名を残す僧侶になる必要もない。ただ、今を生きている自分だけがある。僧侶という何者かにも身を委ねない。天上天下唯我独尊ってそういうことでしょ!?
流動体を眺める
でもこうやって今気づいたことも、いつかは忘れていくんだろうとも思った。毎日は選択の連続で、選択の集合体は価値観を作って、価値観の集合体は無意識を作っていく。また、新しい思い込みが、次なる煩悩の世界に引きずり込んでくるんだろうと思うと、怖くなる。
例えば、家出中、ふと母が死んでしまうことを想像して、電車の中でいきなり泣いてしまったことがあった。今思うと、情緒不安定すぎて自分でもビビるんだけど、孤独な時ほど、人は人を感じられるのかもしれない。でも、僕がもし実家に帰ったとすると、当たり前のように母がいて、父がいて、祖母がいて、その存在があることを当然のように感じるかもしれない。それでまた、僕はむしゃくしゃして家出するのだろうか。なにその煩悩と悟りの果てしない無限ループ。
でも、そうやって生きていくしかないなと思ったのだ。「ありがたい」と「当たり前」を繰り返して、煩悩と悟りの間で揺れて生きていくしかない。当たり前だと思っているものが存在する時、本当はありがたい何かを見失ってしまっている。そうした対岸の見えない何かを目を細めて見つけることが仏道であり、つまり人生とは、終わりのない修行なんだと僕は思ったのだ。
家出で出会った英語ネイティブの方が「諸行無常の英訳は、”Everything changes”ではなく、”Everything flows”の方がしっくりくる」と言っていた。そして、僕のことを指して、浮浪者とかけて「flow boy」と言っていたことを覚えている。たしかに公園を仕事場にしていたら浮浪者か。
あらゆるものは流れていく。だというのに、固定してしまっているのは決まって自分である。世界を流動体として見たいならば、まずは自分自身が流れていたい。
生存戦略としての創作
それでも、僕らはすぐに得体も知れない暗闇にぶち当たる。たった2回、不幸が連続しただけで今日はダメな日だと思ってしまうし、3秒前に食べたクッキーの味すら思い出せないこともある。煩悩というのは、自分を固定させて、ありがとうを当たり前に変えていく。
でも、振り返ると、これまでのそう長くない人生において、そんな煩悩が集まりすぎた結果、いてもたってもいられなくなって、いつも何かしらの創作に打ち込んでいた。
レールの敷かれた人生はいやだというモヤモヤが脚本家への夢を募らせ、お寺を継ぎたくないというフラストレーションは『DOPE寺』という寺主制作映画の企画へ繋がり、そして、今、お坊さんとしてどう生きればいいのかという迷いが、僕に家を出させた。
誰だって「わ~~~どうしよう!!!」という果てしないモヤモヤの中に「ああ、ヤベェな、このままじゃ……」というマジレスしてる自分が1ミリは見つかるはず。その1ミリを1センチ、1キロに増幅させるための儀式として「創作」があるのかもしれない。
そのマジレスしてる自分が、自分の今いる場所からは見えない何か、つまり対岸を見せてくれるのだ。自分の今を表現して自分を客観視したり、また迷った時はいつでも戻って気づけるように道しるべにしたり、それが僕にとっての創作。自分のうんこを見て「あ~俺いっぱい食ってたんだな~」と気付くように。まぁうんこはすぐ流すから見直せないんだけど。
僕は元々「煩悩クリエイター」という名前でフリーランスの仕事をしていて、それは友達とほとんどノリで決めた名前で、特に深い意味はなかった。「煩悩を生み出す人なんですか?」ってよく言われるんだけど、たしかに下世話なコンテンツをよく作ってたから否定はできず、僧侶としてどうなんだろうと悩んだこともあった。
でも、この家出を通して煩悩クリエイターって名前が腑に落ちるようになった。まさに自分の煩悩を創作に変換してここまでの人生生きていたんだもの。実は、家出を始めた際に、ただの僧侶に戻ろうと思って、Twitterのプロフからその名前を消していたのだが、最近名前を戻した。家出の結果、みずきに戻り、煩悩クリエイターにも戻ってきた。大風呂敷広げて、結局帰還してきたのだ。ウケる。
そんないわば「生存戦略としての創作」が僕が歩む道なんじゃないだろうか。
書籍、書いています。
ということで、ここまで積もり積もった自分語りをしていたわけなんですが、そんな煩悩とのせめぎ合いの結果生まれた『僧侶、家出する。』の企画から、ありがたいことに書籍が出ることになりました!!!
初の著書です。この書きためた連載の原稿もところどころに入れながら、ほぼ書き下ろしで気合いを入れて執筆します。
解消しようもないモヤモヤを抱えた人と一緒に悩み、それでもハイテンションに背中を押してくれるような一冊になればと、仏教のを自分なりに表現したいと思っています。
最後になりましたが、家出期間中に泊めてくださったみなさん、そしてpolcaで支援してくださったみなさん、本当にありがとうございました。著書ができたら必ずお届けします~!
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稲田さんの家出の旅もとうとう終わりを告げました。この7か月で感じたこと、考えたことを1冊の本にまとめます。出会ったたくさんの人からもらったものから、稲田さんはどうやって「創作」するのでしょうか。進捗状況は幻冬舎plusで引き続きお知らせいたします。今まで稲田さんの家出生活を応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。稲田さんの挑戦はまだまだ終わりません。やさしく見守り続けてくださりますと、嬉しいです。
僧侶、家出する。
若手僧侶がお寺や僧侶のあり方に疑問を持ち、「家出」した!
さまざまな人に出会うこと、それ自体が修行となると信じ、今日も彼は街をさまよう。
(アイコン写真撮影:オガワリナ)