本能寺の変をおこし、「裏切り者」「三日天下」とネガティブなイメージの強かった明智光秀。一方で、信長の右腕にのぼりめるほど頭脳明晰、そして教養人だったという説もあります。
不自然なほど資料が残っていない光秀は、本当はどんな人物だったのでしょうか。
そして、主君である信長を討った理由は一体何だったのでしょうか。
その秘密は、有名な信長の最期の言葉「是非に及ばず(しかたがない)」に隠されていました。
直木賞作家の安部龍太郎さんによる新書『信長の革命と光秀の正義』より、本能寺の変の真相をお届けします。
天正十年(一五八二)六月一日。
その日京都の本能寺では、織田信長が大茶会を催していました。
安土城から運ばせた数多くの名物茶器を、正客である公家の近衛前久をはじめ多くの客たちに披露した信長は、自分が持った強大な力に満足しながら床に就いたことでしょう。それは盛大に終わった茶会のためだけではありませんでした。
信長は、朝廷に対して「三職推任」を要求していました。
「三職」とは、関白、太政大臣、将軍のことです。それに対して朝廷から推任するという趣旨の答えがあり、時の誠仁親王から「いか様の官にも任じる」という文を受け取っていたのです。つまり、信長が望めば、三職のうちいずれの職にもなれるという状況でした。
このたびの上洛はその返事をするためであり、信長は天下統一へまた一歩近づいていたのです。
ところが、思ってもいない事態が起こります。
六月二日未明、信長は家臣である明智光秀の軍勢に突如襲撃されました。本能寺にいた信長の供は、ごくわずかであり、あまりにも非力です。
「是非におよばず」
襲撃が光秀による反逆だと知ると、信長は、そう言い捨てたと伝わっています。
「しかたがない」という意味の言葉を、どう取るべきでしょう。
「光秀が裏切ったのならば、しかたがない」ということか。「光秀をそこまで追い込んでしまった」、あるいは、「あいつがここまでやるとは。油断した」という思いもあったか。
いえ、家臣一人の裏切りだけで、信長ほどの男が「しかたがない」と言うことはないと思います。光秀の背後にある、大きな力を悟っていたからではないでしょうか。
朝廷、幕府……それはいわば「信長包囲網」と言ってもいい、大きな力の集合体でした。
その中心にいたのは、前日行われた茶会の正客、近衛前久です。
織田信長と近衛前久──。
前久は、信長と同じくらいの能力を持ち、同じくらいのスケールで天下国家を考えていた人物です。同時代を生きた二人の傑物は、互いの才を認め合います。時に敵として戦い、時に「蜜月」を過ごしながら、しかし、二人の思想には、どうしようもないずれがありました。
近衛前久の構想力と胆力
前久は、天文五年(一五三六)、五摂家筆頭である近衛家の長男として生まれます。信長の二歳下でした。
五摂家とは、近衛、一条、二条、九条、鷹司家のこと。平安時代の中ごろに藤原北家が五つの家に分かれ、摂政、関白の地位を独占したため、摂関を出す家という意味で五摂家と呼ばれました。中でも近衛家は「筆頭」であり、前久は、この国の最高峰を歩くよう宿命づけられた人物でした。
しかも、朝廷の人間でありながら足利幕府と深いつながりを持ったことが、前久の運命を決定づけたと言ってもいいでしょう。
足利幕府と朝廷は、体制の再構築をはかろうと「公武合体」策を取りました。
前久の叔母は、十二代将軍足利義晴に嫁いでおり、義晴の息子である十三代将軍義輝、十五代将軍義昭は従兄弟にあたります。また、前久の妹は義輝に嫁いでいました。
とはいえ、前久は、家柄がよいだけの公家ではありません。
和歌や書に秀で、有職故実にも通じ、乗馬や鷹狩りにも一流の才能を見せました。
後に前久が著した『龍山公鷹百首』は、鷹の種類や鷹狩りの作法、装束、道具についての和歌百首を集めた、いわば鷹狩りの秘伝書で、豊臣秀吉や徳川家康もテキストとして秘蔵したといいます。
天文二十三年(一五五四)、前久は十九歳(数え歳、以下同)の若さで関白・左大臣になります。時の将軍は、義輝でした。
関白になった前久は朝廷と足利幕府復興のため、まず毛利元就の協力を得ようとします。しかし、毛利の協力が得られなかったために、後に上杉謙信となる長尾景虎と血判誓紙を交わしました。
永禄三年(一五六〇)、前久は関白在職のまま景虎とともに越後に下向しました。景虎は翌永禄四年(一五六一)、関東に攻め入って、北条氏の小田原城を包囲、十万余りの兵が景虎のもとに集まったといわれます。
これは景虎の力だけではなく、前久の存在がものをいったのは明らかです。
「現職の関白がついているのだから、当然上杉方につくべきだ」
多くの大名がそう判断したのです。
しかし、景虎の軍は、包囲しながらも小田原城を落とすことはできませんでした。
このとき景虎は、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家の家督を継ぎ関東管領職に就任する儀式を行い、以降上杉姓を名乗ります。
前久は、関白という身分でこの儀式に出席し、景虎の襲名に立ち会っています。
これは明らかに、前久の戦略でしょう。
景虎を関東管領にして関東を治めさせ、東国の大軍を率いて上洛、足利幕府の再興をはかろうという作戦です。前久が朝廷の人間であり、また、足利幕府と深い縁があったればこその戦略です。
このような壮大な構想を、二十代半ばで練り上げる。しかも、人を動かし、自らも命をかけて行動する胆力を持つ。近衛前久というのは、そういう男でした。
若き日の秀吉、家康も頼ったフィクサー
若き日の徳川家康が、前久を頼っています。
まだ松平姓だった当時、家康は朝廷に三河守に任官してもらおうとしました。任官が叶えば、三河統治の大義名分が立つからです。
すると朝廷から、「松平氏で三河守になった例はない」と拒絶されてしまいます。つまり、「三河守になる家柄ではない」と宣言されたわけです。
そのとき家康が相談したのが、前久でした。
前久は朝廷の古い記録をひもとき、新田源氏の流れである世良田氏の末流に徳川氏があることを見つけ、松平氏はその子孫であるという系図を作ったのです。
お陰で家康は徳川を名乗れるようになり、源氏の一門という資格を得て三河守に任官されたのでした。
家康はその後、お礼として毎年欠かさず前久に献金をしていたといいます。
また、秀吉にとっても前久は恩人でした。
秀吉が関白になろうとしたときのこと。関白は本来五摂家の者しかなれないことになっています。そこで秀吉は前久の猶子となり、近衛家という家柄を手に入れ、関白という地位に上り詰めたのです。
前久は家柄を与えることにより、秀吉に恩を売ったわけです。今でいう、政界のフィクサーのような存在でした。
申し分のない家柄であるうえ、文武にも長けた前久の力は公家の中でも抜きんでていました。当時、前久の言うことには、朝廷の誰も反対できなかったでしょう。
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続きは『信長の革命と光秀の正義』(幻冬舎新書)にてお楽しみください。