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信長の革命と光秀の正義

2020.02.02 公開 ポスト

本能寺の変が「六月二日」でなければいけなかった理由安部龍太郎

本能寺の変をおこし、「裏切り者」「三日天下」とネガティブなイメージの強かった明智光秀。一方で、信長の右腕にのぼりめるほど頭脳明晰、そして教養人だったという説もあります。

不自然なほど資料が残っていない光秀は、本当はどんな人物だったのでしょうか?そして、光秀が「本能寺の変」をおこした真の理由とは何だったのか。

秘密をとく鍵のひとつが、変が起きた「六月二日」という日にちにありました。たまたまこの日だったわけではなく、光秀にとって「六月二日」は大きな意味を持っていたのです。

直木賞作家安部龍太郎さんによる新書『信長の革命と光秀の正義』より、本能寺の変の真相をお届けします。

 

 

「本能寺の変」が起こったのは、天正十年(一五八二)六月二日未明のことでした。なぜ六月二日だったのか──。

従来は鬱屈がたまりにたまった光秀が、たまたまこの日にことを起こしたといわれてきました。しかし、「六月二日」は、クーデター計画を起こした人間たちにとって重要な意味がありました。

いわば、「この日しかなかった」のです。

まずは光秀を悩ませてきた、四国問題です。

信長はついに息子信孝に、四国攻撃を命じたのです。信孝を総大将とする四国遠征軍は大坂に結集し、まさに六月二日に出陣しようとしていました。

また、「三職推任問題」に対して、信長は六月二日から四日までに回答を示す予定だった可能性が高いのです。

信長はどのポストを選ぶつもりだったのでしょうか。

勧修寺晴豊の『天正十年夏記』には、朝廷の意向としては「関東討ち果たし」、つまり武田氏を討った功績によって、将軍に任官してもよいと信長に伝えたことが記されています。今となっては信長の意向はわかりませんが、側近く仕えていた光秀はこうした情報をキャッチしていたことでしょう。

もし信長が将軍職を選んだとすれば、事実上義昭の将軍解任となってしまう。

義昭側についた光秀としては、クーデターは「信長が将軍を選ぶ」前でなければなりませんでした。

秀吉のペースで結着した山崎の戦い

光秀は本能寺の変の後、安土城に入りました。

そして、安土城に蓄えられていた信長の財宝を、家臣に惜しげもなく分け与えました。信長が天下を駆け上り、積み重ねてきたものを否定するかのようです。

その後、朝廷からの承認を得るために七日まで勅使の到着を待ちました。この五日間が光秀にとって、裏目に出ました。

このとき信長の主な家臣たちは、みな遠方にいるという油断があったのでしょう。

信孝は四国遠征軍を組織して大坂、滝川一益は旧武田領を治めるために関東、柴田勝家は越中で上杉軍と対峙中。そして、秀吉は備中高松におりました。

変の知らせが伝わったとしても、彼らが攻めてくるにはかなりの時間がかかると考えていたとしても不思議ではありません。

ところが、秀吉が「中国大返し」で備中から畿内まで二百キロメートルもある道のりを、わずか十日で戻ってきます。

秀吉の軍と光秀の軍は、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で対決することになります。

兵力に劣る光秀方は、秀吉軍より有利な位置を確保するために天王山を奪取する必要がありました。

十三日夕刻、天王山で両軍は激突。秀吉軍が圧勝しました。

敗れた光秀は勝龍寺城(京都府長岡京市)に入り、夜に紛れて坂本城へ逃れようとしましたが、落ち武者狩りをしていた土民によって討たれたと伝えられています。

一方、徳川家康も軍勢を集めて光秀を討とうとしますが、尾張国鳴海まで進軍したとき、秀吉の使いが来ました。

「すでに光秀は討ち取り、すべて終わりました。お引き取りを」

そう伝えたのです。

家康の悔しさが手に取るようにわかります。

本能寺の変後は、すべてが秀吉のペースです。

秀吉は「本能寺」を知っていた!?

十四日、山崎の合戦で勝った秀吉軍が、鳥羽のあたりにさしかかったところで勅使が派遣され、秀吉と信孝に刀を授けています。

朝廷公認の軍勢であると保証したのです。

本能寺の変の後、誠仁親王は安土城にいた光秀に吉田兼和を勅使として送り、洛中の平安を保つように命じています。

ところが光秀が負けたとなると、とたんに秀吉に鞍替えしているのです。

これは、近衛前久、誠仁親王、吉田兼和、細川幽斎らの策謀を秀吉がすべて知っており、弱みを握って脅していたからとしか思えません。

そして彼らは光秀一人に罪をかぶせ、ことを終わらせようとしたのです。

しかし、どうして秀吉だけが、こうした迅速な対応を取ることができたのでしょうか。

秀吉は本能寺の変の後、急遽毛利氏と和睦をはかり、中国大返しを敢行して信長の「仇を討った」忠臣ということになっています。

しかし、さまざまな事実を突き合わせると、秀吉は計画を知っていたとしか思えないのです。

「本能寺の変」が起きた直後は、誰が身方で誰が敵なのかわからない状態でした。だからこそ、うかつには動けません。

柴田勝家、佐々成政、前田利家らも、自分の城から動けませんでした。

備中高松で毛利氏と戦っていた秀吉は、六月四日には毛利氏と和睦をし、畿内に引き返します。

この時期は雨が多く、七日、八日は大雨が降ったという記録があります。

大雨の中の行軍は非常に困難なことです。雨で弾薬を濡らす恐れもありますし、川が増水して渡れない可能性もあります。

その中を秀吉は帰ってくるのです。弾薬だけは船で運んだという説もありますが、あらかじめ手筈を整えていないとそんなことはできません。

また、変の後、秀吉の長浜城の留守居役たちが三日には逃げ出していたという記録が残っています。

主君から城の留守を命じられているのに、勝手に逃げ出すことはできません。ですから逃げたのは、秀吉があらかじめ許可を出していたからとしか思えないのです。

このころ秀吉も、光秀と同じように転封を恐れていたと思われます。九州平定を命じられる可能性もあり、信長についていけない思いが高じていたかもしれません。

このとき秀吉は四十六歳。先が見えてくる年齢でもありました。

あらかじめ、前久や光秀たちの計画を知った秀吉は、計画を阻止するのではなく、その実行を待っていた。

そして黒田官兵衛が持つキリシタンネットワークを駆使し、自分が天下人となる──。一か八かの賭けに出たのだと思います。

*   *   *

続きは『信長の革命と光秀の正義』(幻冬舎新書)にてお楽しみください。

安部 龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』

日本史上まれにみる天才・信長は、自らを天皇の上に置き、規格外のスケールで新しい国作りを目指していた。自分を将軍など要職三職のいずれかに就任させるよう求めた朝廷への三職推任要求や、安土城から発掘された御所の存在がそれを証明している。信長の革命思想は、朝廷・幕府・イエズス会、誰にとっても危険すぎる存在となり、その緊迫した状況の中、本能寺の変は起きた――。光秀は、いかなる正義のもとに主君・信長を討ったのか? 信長最期の言葉「是非におよばず」の真意とは? 戦国時代史の禁断の扉を開く画期的一冊。

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安部龍太郎

1955年、福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。久留米工業高等専門学校卒業。上京し、大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。1990年、「血の日本史」でデビュー。 2005年、「天馬、翔ける」で第11回中山義秀文学賞、2013年、「等伯」で第148回直木賞受賞。2015年、福岡県文化賞受賞。『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『蒼き信長』『おんなの城』『家康』『平城京』など著書多数。

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