不摂生がたたりアルコール性肝炎を発症、γ-GTPの数値、4000台を叩き出した道太郎。1年後、61歳にして肝硬変を宣告される。さらに食道がん、胃がんが身体を襲う。献身的な妻、親思いの娘、美しき女友だち、犬。そんな闘病中、自身の身体が起こす奇跡も知る……。芥川賞作家、高橋三千綱さんの『ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病』は、自身の闘病経験を下敷きにした自伝小説。作品の冒頭部分を、抜粋してお届けします。
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2 二〇〇八年(平成二十年)四月二十七日
うららかな春の日であった。村山医院に行くついでに、府中の大國魂神社に立ち寄った私は、本殿に四月遅れの新年の参詣をして、奥の院に向かった。そこには樹齢五百年から八百年といわれる銀杏の猛々しい巨木が数本植わっている。そのうちの一番やさしそうな肌触りをしている木に両腕を巻き付けてその冷ややかで鎌倉時代の香りを感じさせる樹皮に頬をつけた。
それから息を深く吸い込んで樹木を離れ、参道から旧甲州街道に出た。そこから村山医院まで200メートルほどの距離だったが、それが2キロメートルにも感じたのは私の後ろめたさのせいだったのだろう。ひと月ほど前に固く禁酒を言い渡されていたのだが、私は前日までその慈愛に溢れた忠告を破っていた。多分日本酒に換算すると四合から六合ほどの酒量を毎晩身体に送り込んでいたのである。検査のための採血をしたのは、三日前の四月二十四日であった。それも村山医師の休診日を狙って代診の先生から採血だけを受けたのである。
村山医師はいつもどおりの穏やかな表情でだらしのない患者を迎えてくれた。そしてほんの少しだが期待に溢れた表情で、「先日、私の休診日にこられて採血を受けたそうですね。いや、よかった。一ヶ月の禁酒は大変だったでしょ」と呟いていた。はあ、まあ、と私はあやふやな返答をしていたようだ。はっきり覚えていないのは、頭がぼやけていたのと急激に上がった血糖値のせいだったかもしれない。恥辱や恐怖心を抱くとなぜか血糖値がハネ上がるのである。
「えっ?」
検査報告書に目を落とした村山医師はそう感嘆符つきの言葉を吐いて細めの目を見開いた。
「何ですか、この数値は?」
「どうなんでしょう」
「γ-GTPが4000を超えていますよ。4026です!」
「ゲッ!」
「これで一ヶ月間お酒を控えたんですか?」
村山明先生のとんがった視線がまともに私の心臓を射貫いてきた。私はしどろもどろになった。
「……控えたというか、少なめにしたというか……」
額から汗がどっと噴き出た。村山医師はそんな私を静かに、そして厳しい目で見つめ続けていた。
「橋本さんは何のためにここにきているのですか」
「なんとかこの病気を治してほしいと願いまして……」
「いえ、そうじゃないでしょう。からかいにきているんじゃないんですか」
「そ、そ、そんなことはありません」
「ならば、なぜ一ヶ月の禁酒を破って平気で採血を受けたんですか。そんなことをする患者さんはいませんよ」
村山医師の頬が微かに震えていた。
「すみません」
あのね、と溜息交じりに村山明先生は口を開いた。そこに愛惜の表情が交じっているのが垣間見えた。
「糖尿病を始め、肝機能の障害は患者さん本人に治す気持がなければ絶対に治らないのです。糖尿病は表だって異常が現れないため、気楽に考えている人が多いのですが、実は糖尿病こそが万病の元なのです」
そうだった。そのとき私は腐ったハンバーガーを連想させる元司会者のナントカ巨船という男がゴルフコンペのあとの風呂場で「糖尿病だけはカンベンしてくれ」といっていたのを思い出していた。ゴルフではインチキし放題の恥知らずの男が降参した体で口にしたのであるから周囲にいた者は驚いた。彼は長生きして少しでも助平人生をたのしみたいと図太く考えていたようで、糖尿病の境界線のあたりの数値を医者からみせつけられて泡食ったばかりであったようだ。参議院選挙で四十一万票を獲得して当選を果たしながら「六年後には七十三歳になっちゃう」という訳の分からない理由で途中で放り投げた無責任男である。そんな無神経極まる男でも糖尿病には怯えていた。しかし、なんで彼が糖尿病から逃れられて、正直に誠実に生きてきた私がγ-GTP4000超えなどという破廉恥な報いを受けなくてはならないのだろうか。
「心筋梗塞を始め心臓病も糖尿病をほうっておいた末の合併症が原因なんです。眼底出血から始まりやがては失明する人もいるし、筋肉が壊死してしまい足を切断するハメになる人もいます。心臓が大丈夫でも脳にきたら脳梗塞、或いは脳出血で倒れ、たとえ治ってもそれから先の一生は車椅子で過ごさなければならない人もいる。橋本さんのお父さんはたしか人工透析を受けていたのですよね」
村山先生は不意に正面から私をみて訊いてきた。ゴルフ場でみる顔とは奥行きが異なっていた。何か大切なことを決意した魂の震えが中核に備わっていた。
「はい」
透析だけはもういやだ、というのが父の遺言だったとずっと看病していた母から聞かされたことがある。
「でも、これだけいっても橋本さんはアルコールから離れられない。ならば、もう、ここへくる必要はないでしょう」
「私は先生から見放されるのですか」
「はい」
あっさりと村山明先生はいった。冷徹な医師の表情になっていた。私はがっくりと頭を垂れた。少量だが涙と鼻水が同時に流れ落ちた。だが、顔を上げることはできなかった。
「アミノ酸と血糖降下剤だけはお出しします。しかし、数値だけ下がっても、それで身体が健康になったと思わないでください。足のむくみもひどいし、手先も震えている。それはアンモニアの数値が高いせいでしょう。でも、私を頼るのはこれきりにしてください。お友達感覚であなたと付き合うつもりはもうありませんから」
数秒の間、私は患者用の丸椅子に座っていた。だが、先生はそれきり何もいわない。仕方なくゆらゆらと立ち上がった。ユーレイになった気分だった。
カーテンを押して出ていく私に、橋本さん、と先生が声をかけてくれた。私は脱水症状を感じながら振り返った。
「どんな名医でも肝硬変になったらもう治せませんよ」
村山先生の最後の餞の言葉であった。診察料を支払い、医院の隣にある薬局で薬を受け取った私は、初夏を感じさせる晩春の風を受け、骨に皮だけ張り付けた頼りない身体を前後左右に揺らしながら歩いた。
これからどうするか、酒でも飲みながら考えよう、と私は思っていた。それから、今度こそ、酒の飲めない身体になって、死んでしまおうと誓った。
ふらつきながら、風を舌の上で転がすと、体内に甘い香りがそっと忍び込んできた。そのときγ-GTPが4000を超えてもまだ息をしている人間の生命力の不思議さに改めて驚かされた。もしかしたら、この男はまだ生きたがっているのではないか、という疑問が湧いた。しかし一体誰が、橋本道太郎に期待を寄せているというのだろう。病院から出て自宅療養をしている九十六歳の母は息子にまだ望みをもっているようだが、それは孫娘とその母の生活費をもう少し稼いでから昇天しなさいと責任感を促しているに過ぎない。その母ももう長くは生きられないだろう。二十六歳になる娘は父から愛情を注いでもらった覚えがないため、いまだに他人行儀な態度をとっている。
その母である私の妻は貞淑で気持の温かい女であるが、それ故、酒浸りになっている夫に対してはいつも遠慮がちで、怯えてさえいる。だから夫に注意を促す言葉すら持ち合わせないで、いつも心配気な様子でいる。輸入雑貨店をひとりでやっているので、着ている服にも気遣って、いつも忙しそうに立ち働いている。それが私にとってはむしろ救いでもあった。儲かることは決してない趣味の店であったが、好きなものを集めて九坪の店に並べるだけで、なんとなく幸せな気分に浸ることができるらしい。ステンドグラスの時計を壁に掛けてうっとりと眺めているのを外を通りかかった私は垣間見たことがある。私にはついぞみせたことのない喜びに溢れたいい表情だった。そんな母と妻子を除けば、あとは親愛なるブル太郎が私の帰りを待っているだけだ。橋本事務所にいるボランティア秘書とパートタイム運転手は私がいなくなったほうがむしろ憂いなく次の稼ぎのいい仕事を得られることだろう。
歩きながらふと思い出したことがあった。それは、生きている価値とは、誰かに期待されることだという平和主義者のインド人マザー・テレサがいった言葉だった。他者に奉仕することで生涯を終えた人だけが口にできる重い響きを含んだ強い言葉だ。
私の天職は小説を書くことだ。だが、作家として三十三年間メシを食ってきたが書き下ろし小説は一度も書いたことがなかった。書き下ろしに没頭する一年間は全く収入がなくなるのである。酒呑みの私は酒代がなくなることを恐れて踏み出すことができなかった。友人の作家の中上健次は死ぬ前に、書き下ろしをやれよな道太郎とくどいほどにいっていた。一つ年上の彼が四十六歳の若さで腎臓癌で死んだとき私はカリフォルニア州のラ・コスタでゴルフと酒びたりの日々を送っていた。だが、中上の訃報を聞いたとき、これでおれのことを愛情を込めて叱ってくれる作家はいなくなってしまったと絶望した。私にそういってくれたときの中上は暗い酒場の隅でひどく憔悴していた。なんだか泣いているようにみえた。
今、通りすがりに化粧品店のショウウインドウに映った自分の姿は、最早、現役の作家の輝きは失せて、「元」作家に成り果てている。そう認識させるほど零落した姿になっていた。それでも私は蕎麦屋へと足を急がせた。中上の叱責を耳にしながら、今の季節だったらぬる燗が一番ふさわしいと舌なめずりをしていたのである。