不摂生がたたりアルコール性肝炎を発症、γ-GTPの数値、4000台を叩き出した道太郎。1年後、61歳にして肝硬変を宣告される。さらに食道がん、胃がんが身体を襲う。献身的な妻、親思いの娘、美しき女友だち、犬。そんな闘病中、自身の身体が起こす奇跡も知る……。芥川賞作家、高橋三千綱さんの『ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病』は、自身の闘病経験を下敷きにした自伝小説。作品の冒頭部分を、抜粋してお届けします。
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2 二〇〇八年(平成二十年)六月五日あたり
村山医院から私の事務所に何度か電話があったことは秘書から聞いていた。インシュリン注射の必要があるかもしれないから検査だけでもしにきてくださいという伝言だった。
多分、私の身体の具合を心配した先生の配慮だろうと思っていたが、村山医院にはさすがに顔を出せなかった。なんせひと月半前の四月末に見限られたばかりなのである。それに村山医院には入院設備がなかった。自らの身体を痛めつけて過ごしてきたマゾヒストで健康に無頓着だった私でも数日間はゆっくりと入院する必要があると感じていた。それを恐れた私はだるくて寝込みがちになっても、昼過ぎになると、駅前のショッピングセンターに開店したラーメン屋「こぶし」で餃子をつまみにビールを飲むことから一日を始めるのである。
昼の固定客はわずか五、六名で、その中に四席をひとりで占領する厚化粧の婆さんとアル中気味の作家が交じっていることを知って、オーナーは途方に暮れていた。その人通りのまばらなショッピングセンター内に妻のやっている輸入雑貨の店も細々と営業していた。「こぶし」でビールを呑んだあと、店で雇っているパートさんが遅れた日など、私は時折店番をすることがあった。そんな六月のある日のことだった。三人の老人介護施設の職員の女どもがごそごそと入店してきたとき、その一挙一動に怪しげな様子を感じた私は、それとなく三人を観察した。そして女どもがグルになってたくみに貴金属類を盗み出すのを目撃した。私は店の外にたまたま立っていた見知らぬ女に店をみてくれるように頼んで、三人の女盗賊を追いかけた。だが10メートルもいかない内に履いていたつっかけに足の指をひっかけて転倒してしまった。女盗賊の姿は失せ、私は右膝をさすりながらとぼとぼと店に戻った。そこで店番を頼んだマスクをかけていた女が、何かを盗んで走り去っていったと向かい側のブティックの女店員に聞かされた。その瞬間、最早これまでと観念したのである。
「検査入院ということでしばらく入院しよう」
そう決めた私はそれ以前に二回検査入院をしたことのある増上寺に近いかつての東京専売病院を自ら訪ねて入院手続きを取り、村山医師には内緒で一週間ほど入院することにした。γ-GTP4026の数値の書かれた総合検査報告書を携えていたが、なぜかそれを病院に提出するのははばかられた。よくいえば、思い込みなしで、ありのままの自分を検査してほしいと思っていたのである。
東京専売病院はオーナーが代わって、へんてこりんな名前になっていたが、最初に面会した副院長は突然訪れたアルコール依存症の男を温かく迎えてくれたし、看護婦も純朴でやさしかった。新たに担当医になった五十代半ばの糖尿病担当医は気むつかしそうな人で説教くさい口調が厭な感じであったが、これも運命だと私はあきらめることにした。それでも以前に入院したときと同じ八階の角部屋の個室に寝そべりながら、芝公園あたりの高速道路を走る車の群れを飽きもせずに眺めていると、自分が入院患者であることを忘れるほど気持が穏やかになった。
血糖値を測るための採血と数時間の血糖降下剤の点滴をする以外は看護婦の入室もあまりなく、室内には平穏な時が流れていた。私は以前から読みたかった鈴木道彦訳のマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んで過ごした。世界中の知識人がこの本の価値を認めていたが、誰ひとりとして読了した人はいないといわれている大長編である。読むのに苦しさを覚えると時代小説を流し読みし、目が疲れると眠った。その合間には三十八歳のときとその九年後に「検査入院」と称して専売病院に入っていた頃のことを思い出していた。当時からすでに検査入院を志願したということは、アルコールの負担で身体が相当きつくなっていたのだ。
最初に専売病院を推薦してくれたのは誰だったか正確には思い出せない。まだ高級割烹の店と評判だった銀座の「萬久満」で偶然隣りあわせた年輩の医者だったような気がする。たしか、その人は煙草をぷかぷかと吸いながら「入院の必要があるんだが、禁煙しなくちゃならないから逃げているんだよ」と料理屋の旦那に向かってぼやいていた私に、入院しても病室で煙草が吸える病院があるよ、と教えてくれたのだった。それが日本専売公社から名称が変わった日本たばこ産業が経営していた東京専売病院だったのである。最初の入院中はベッド脇の電話台の下の引き出しの中にハイライトを潜ませていた。一九八六年(昭和六十一年)の秋のことで映画製作が終わり、実質七千万を超える借金だけが残って往生していた頃であったが、持ち前の楽観主義でなんとか乗りきろうと連日、酒場でロックにしたウイスキーを呑み、煙草を日に六十本は吸って気勢を上げていた。そのあげくの入院であった。世はバブルの前景気に満ちていて、マンションは高騰し、株は連日値上がりし、銀座のホステスの質は下落した。私が会員になろうと秘かに狙っていたゴルフ場の会員券などは半年の内に二千六百万円から三千三百万円に値上がりするという不埒な時代の幕開けだったのである。
検査のためとはいえ入院した私にはいささか当惑する気分が胸の底に沈殿していた。いくら日本たばこ産業が経営支援しているといっても大っぴらに病室で煙草を吸うのははばかられたからである。それで時折は休憩室にいって老若男女がぷかぷかとやっている中に交じってハイライトを吸った。そこにはテレビも置かれ、どこが悪いのだかよく分からない大部屋にいる患者たちが集って、午後のワイドショーなどを見ながらぺちゃくちゃと喋っていた。私は婆さんたちの話には入らずに、煙草を吸い終わるとすぐに立ち上がって部屋に戻るのを常としていたが、あるとき、煙草を消した私の耳に、おやと思わせる会話が入ってきた。
「お爺さんはどこが悪いのかね」
「私かね」
といったのは白髪頭の品のいい老人であった。身体の線は細く、その歳の人としては背の高い方であった。父は明治四十三年の生まれだったが、その方は父より年上のようだった。
「私は肺癌なんですよ」
「えっ? あんた肺癌で煙草を吸っているの」
婆さんふたりは驚きあきれていたが、その老人は駘蕩として返答した。
「なに、肺癌だったら片方の肺を切ってしまえばまだ五、六年は生きられるでしょう。その間にひと仕事やろうと思っているのですよ。だが、癌が両方の肺に転移してしまっては手術はできない。抗癌剤で生きのびるか最近はやりの放射線治療をするしかないでしょう。ま、いずれにしろ、肺癌でよかったと思っているのですよ。脳がやられたら元も子もないし、寝たきりになったら家族にも迷惑をかけるでしょう。死ぬ時期が分かるというのも悪いことではないんですよ」
「ふーん、そんな考え方もあるんだねー。それであんたその歳で何の仕事をしているんだね」
「ものを書いているのですよ」
ひとりの婆さんが首を傾げて黙り込むと、今度は鼻孔から白い鼻毛を伸ばしたもうひとりの婆さんが訊いた。
「ものを書くってあんた作家さんかね」
老人は、まあね、と口ごもって照れたような風情をみせた。私が凝視しているのに気付くと、そっと頭を下げて挨拶をしてきた様子だった。私も頭を下げて病室に戻った。それからそういえばどこかでみた人だな、と思っていた。
その検査入院の一週間のうちでそのどこか雲の間を漂っているような神格化した老人と会ったのはそのときの一回きりだった。いつのまにかその人は別の病院に転院していったらしい。それに検査入院といっても、二十二年も前のこのとき、すでに糖尿病の境界線上を彷徨っていた私はブドウ糖負荷試験を受けさせられていたから結構な負担になっていて、ベッドで横になっていることが多かったのである。このブドウ糖の負荷試験というやつに私は今でも疑問を感じている。これは75グラムのブドウ糖を水にとかしたものを飲んで血糖値を測るのだが、飲む前、そして飲んだあとは三十分後、九十分後、百八十分後と測定するのである。これは病院によって一時間単位にするところもあるというが、ともあれその血糖値の変動をグラフに描き、描かれたカーブが正常領域にあるか、糖尿病領域にあるか調べるのである。それで妙なことに負荷試験軽症と判断されたときは再び同じ検査を受けさせられるのである。いってみれば糖尿病領域に入らない患者は「おかしい」といわれているみたいなものなのである。これでは糖尿病にならない方がむしろおかしい。健康な者でさえ、ヘンである、といわれ続けていると、血糖値が自然と上がってしまう。医者は患者が糖尿病領域にあると判断すると満足して検査を終了するのである。そして、
「網膜症の発生の恐れがあるので、気をつけてください。適度なスポーツ、それと禁酒禁煙を守ってください」
最初の若い担当医は検査のあとでそう私にいった。
「愛人とのセックスも禁止ですか」
と訊き返すようななごやかな雰囲気ではなかった。医者は自分で私は偉い、患者は医者のいうことを聞いておればよいのだ、という見下ろし視線を崩さなかったのである。その若い担当医はどういうわけか検査結果を患者にみせてくれなかった。だから私は血糖値を知らないまま一週間をただぼんやりと過ごすはめになった。検査結果は退院のときにも渡してもらえなかった。ただ、分かったのはそのときの空腹時の血糖値の基準は110㎎/dl以下であり、それから数年後には血糖値の基準が80㎎/dlと厳しくなったことである。
これには製薬会社の思惑が相当入っていると思われる。基準値を決めるのは当時の厚生省で、厚生省の役人はみな退職したあとの天下り(私はドブ鼠の税金あさりと呼んでいる)を狙っているが、特殊法人に天下りできなかった連中はせめて民間の製薬会社にでも再就職したいと狙っているのである。製薬会社にしても数十億円を注ぎ込んで、やっと認可を得た特効薬をすぐに無効にされてはかなわないから、元厚生省の役人を取り込んで、現役役人に圧力をかける。そうと知りながら、現役下っ端役人は再就職を願って、OBの脅しじみた頼みを聞き入れるのである。基準値を厳しくすればその分だけ薬の使用範囲が広がり、販売実績が上がることになる。バカをみるのは製薬会社の顧客にされた患者だけである。厚生省の役人は様々な基準値をどんな病気に対しても設ける癖があるが、それが患者、ひいては国民のためになったためしはかつて一度としてないのである。みな、出世と権力欲のための親切ごかしの策略である。
二十二年前の私は清々して退院してきたのであるが、結局は何のために検査入院して十数万円の入院検査費を支払ったか分からずじまいだった。点滴も受けたが、それが何の薬かと訊いても先生は答えず(実は水であった)、看護学校を出たばかりの若い看護婦もはっきりと説明ができず、言い訳として、自分は看護学校を出てまだ半年であり、あと二年半は学費その他でお世話になったこの病院で恩返しの勤務をしなくてはならないんです、と自信なさげに答えたものであった。その東北弁の交じった言葉に妙に感銘を受けた私は、しっかり頑張って白衣の天使と呼ばれるようになってくれと手を握って激励したのである。彼女は涙ぐんでいた。
退院した私は元のように忙しい生活を送り、その合間に週に一度ゴルフにでかけていたのだが、それから半年ほどたってある婦人誌に「肺癌でよかった」というタイトルで書かれた手記が発表されたことに気付いてさっそく取り寄せた。そこには作者の写真も載っていて、その写真は少し若いときに写されたものだったが、まぎれもなく専売病院で出会った老人であることが分かった。澤野久雄という文芸界の重鎮のひとりであった。私は作家でありながら、劇画の原作もやるというので、文芸の世界から異端者とみられていたから、偉い作家との付き合いは全くなかったのであるが、澤野久雄氏の作品はいくつか読んでいた。派手さや奇をてらったところのない私小説風のしみじみとさせる物語だった。当時まだ生きていた父に、入院先で一度だけ澤野さんをみかけたというと、彼も賞とは無縁だったな、と無名作家のまま生涯を終えようとしている自分の不遇と重ね合わせて呟いたことであった。澤野氏にとってはその長い手記が最後の作品になったのだろう。それから数年後の平成と年号が変わって間もなく、父と前後して逝去したことを新聞で知った。