不摂生がたたりアルコール性肝炎を発症、γ-GTPの数値、4000台を叩き出した道太郎。1年後、61歳にして肝硬変を宣告される。さらに食道がん、胃がんが身体を襲う。献身的な妻、親思いの娘、美しき女友だち、犬。そんな闘病中、自身の身体が起こす奇跡も知る……。芥川賞作家、高橋三千綱さんの『ありがとう肝硬変、よろしく糖尿病』は、自身の闘病経験を下敷きにした自伝小説。作品の冒頭部分を、抜粋してお届けします。
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3 一九九五年(平成七年)秋
専売病院に二度目に検査入院を志願して入ったのは四十七歳のときだった。このときの担当医は水玉の蝶ネクタイをいつもしているちょいとおしゃれな慶應卒の糖尿病医で、入院患者のおばちゃんたちからだけでなく、若い看護婦からも好かれていた。人間的にも奥行きのある人で、私にはいつも外食を許可してくれた。
「病院の食事では充分なタンパク質が摂れないし、なにより自分が食べたいものを摂ったほうが身体が喜ぶんです。それだけ免疫力ができるんです。それに夕食の時間が五時というのはいかにも早すぎる。どこの病院でもそうですが、これは患者のことを考えてのことではなく、病院の都合なんです。食堂の従業員を定時に帰すためには夕食時間を五時にする必要があるんですね。病院は患者のためにあるのにとんでもないことだと私は思っているのですよ」
そうにこやかにいう先生は、γ-GTPが580のデータと空腹時280の血糖値の数値をみても別段脅迫じみた言葉を吐くこともなかった。肝細胞に異常がある場合はGOTとGPTの数値をみれば分かるのだが、当時の私は自分の身体に無責任であり、蝶タイ先生がみせてくれたそれらの数値の意味もよく吟味せず、ま、なんとかなるだろう、それにいずれ人間は死ぬんだ、と楽観していたのである。蝶タイ先生もノンキだった。説教がましいことはいわずに「お酒を控えればもっと健康になれますよ。クラブチャンピォンだって狙えますよ」と私の弱点を言い当て、おだてる雰囲気を醸し出しつつ禁酒を説くことを忘れなかった。
このおしゃれな先生から初めて「免疫力」という言葉を聞き、それは一体何のことだろう、と関心をもったのが、自然治癒力に向き直るきっかけになった。自分の気力、もしくは根性、あるいは思い込みによって癌を始めとする病気を蹴散らすのである。きっかけにはなったが、世間では情報が不足していたせいで、一般には話題になることがなかったので、ほどなくして私も忘れてしまった。真剣に考えざるを得なくなったのは、村山医師より来院に及ばずとの宣告を受ける還暦を迎えた今年のことである。
「じゃあ、昼食を摂りに蕎麦屋にいってきます」
そう蝶タイ先生にいって私は病院を出ると、まず麻布十番の商店街にある蕎麦屋に足を向ける。でかける前に「何を食べてもいいですが、お酒は呑んじゃダメですよ」と蝶タイ先生はいって手を振ってくれる。その隣では美人の看護婦が一緒になって手を振っていた。そんな光景を思い出して、あの二度目の検査入院は面白かったなあ、とひとり悦に入ることがある。その頃には、借金の返済の目処もたち、仕事も順調であったから、比較的余裕のある毎日を送っていたのである。思えば何事も愉快に感じだした頃でもあった。
この愉快というやつは、とても効果的な精神療法で、愉快精神が血の巡りをよくし、脳を効果的に刺激するといってもよいほどであると気付いた。笑う門には福きたるということわざ通りだな、と何かにつけ思うようになったのも、この十日間ほどの自主入院が大きく作用しているようだった。あるとき、自分はアル中だから、もう健康回復はあきらめているのですといった私に蝶タイ先生はにこやかにこういった。
「橋本さんがアル中のわけがないですよ。本物のアル中というのは救いのない連中でね、しかもいじきたない。見舞客にウイスキーを持ってこさせるのはいい方で、地下の霊安室にまで忍び込んで、遺体の身体を拭くために置いてあるメチルアルコールまで飲んでしまうやつもいるんです。みんなどこかで倒れて担ぎ込まれた連中でね、治そうなんて思いはハナからないんです。呆けた振りをして名前を名乗らないやつもいる。それに生活保護を受けている人は国が入院費を払ってくれるから本人たちも勝手なことをいって入院を延ばそうとするし、病院にとっても安定した収入になるから経営者にしてみれば気持の半分はそんな患者を歓迎しているんです。自ら自由診療で入院を申し出てきた橋本さんのような人は実に健全な精神の持ち主ですよ」
その二度目の検査入院をしたときでも、自分の身体がどういう状況下にあったのかはいまだに分からない。検査結果報告書を退院と同時に捨ててしまったのである。そんな愚かさがたたって翌年、千葉の病院にまた入院するはめになった。刑務所代わりに入院するような懲りないやつだったのである。ただ、その四十七歳のときの入院が愉快だったのは蝶タイ先生のざっくばらんな性格に負うところが大きかったことと、かわいく気だてのよい看護婦が代わりばんこに私の個室にきては恋愛問題をテーマに話し込んだり、ゴルフのパッティングを一緒にしたりしたからである。蝶タイ先生も看護婦も病院はサービス業の一種であると心得ているところがあってこちらの醜い目論見には無関心を装ってくれていた。
専売病院は交通の便もよく、六本木に近いので見舞客も気楽にやってきた。有名女優がくると他の部屋の患者まで覗きにくるのには閉口したが、蝶タイ先生は特別に見舞客と夕食を摂りに夜の町に出ることも許可してくれた。当時私の個人事務所には役者志願の若者が運転手兼雑用係として週に三日くることになっていたが、雇い主が入院してしまったのでやることがない。それで自分が所属している劇団の団員六人が深夜のテレビ番組に出演するためのミニドラマの脚本を書きだしたのだが、どうもうまくいかない。それで私のところに相談にきたので、彼らのでこぼこの顔に似合うストーリィを提案した。金欠病に陥っている劇団員が、道端に落ちている犬の糞をカリントウと間違えて食ってしまうといったいささかばばっちい話だった。それがなぜか深夜番組のプロデューサーの目にとまって午前一時から三十分の番組枠を彼らに与えてくれることになった。その話を聞いて私はベッド上でのけぞって笑ったものであった。そのとき類い稀なる美人の看護婦がノックをして入室してきた。話を聞くなり彼女も大笑いしだしたので廊下を散歩していた入院患者がこぞって覗きにきた。ただそれだけのことなのだが、人はこんなひとときの愉快な思い出だけで自然治癒力を増進させることができるのである。
しかし、神様は無情なものである。運転手兼雑用係の青年が所属していた劇団の座長は、数週間後に三十四歳の若さで白血病にかかって亡くなってしまったのである。中国人は神様をも賄賂漬けにして生きのびようとするが、彼にはそうするだけの才覚もなく、神を冒瀆する精神ももち合わせていなかった。
座長の芸名は我王銀次といった。主演映画を撮ったこともある彼は自ら立ち上げた劇団で公演するため、公民館やあげくの果てには深夜の公園で稽古にあけくれていた。座長が貧しいのだから団員も豊かなはずはなく、みな建築現場で働いたり、料理屋で下働きをしたりして糊口をしのいでいた。
我王銀次の通夜にいったときは、アルコールが身体に馴染んでいた私でも酒が喉を通らなかった。こんな不条理なことがあるのだろうかと神様を恨んだ。父の死から七年が過ぎていたが、我王銀次の幼い子をみていると、そのけなげな様子がまるで幼い頃の自分を映している気がして、涙がとまらなくなった。父が貧乏で無名作家であったために、私は小学校でいわれなき苛めに遭い、近所に住むガキたちは親が叱らないのをいいことに、間借りしていた私たち一家の部屋に泥や石を投げ込んできた。剣道道場に通うようになったのは、貧しさ故のそんな仕打ちを受けていたことがきっかけとなった。自らの命は自分で守るほかない、興味本位で語りかけてくる大人はいても偽善そのものであり、実際は誰も助けてはくれない、と悟ったせいである。数ヶ月後には苛めはピタリとやみ、小学四年生になった私はNHKの児童劇団に入団し、翌年ラジオドラマでデビューを果たすと、他の組の女子までもが登校してくる私をとぐろを巻いて校門で待ちかまえるようになった。女はあさましいと思うようになったのも、そういった軽薄な女子たちの行いを目の当たりにしたせいではなかったか。
我王銀次は生前笹塚にあった私の事務所近くの飲み屋にきては、よく女の誘惑に溺れる男は修行が足りないと嘆いていた。私は我王の意見に同意しながらも、男を誘惑することこそ、女の武器なのだ、そのための色仕掛と男を籠絡するための策略を奪ってしまっては、女は生きる糧を失ってしまうと諭したものだった。
「だが、安心しろ。女が籠絡するのは金のある男だけだ。そもそも君はどれだけ貧乏なのだ」
「息子がもらった年玉を盗みました」
白血病になったという報告を受けたのはそれから間もなくだった。病院では最早治療のしようがないという宣告を受けたとかで、すでに我王はまだ二十代の超能力先生に全幅の信頼を置いていた。我王は、先生が手でさすってくれると病気が治まる気がすると最後の日まで言い続けて、相応のさすり代を払うと静かに昇天していった。死に顔は案に相違して苦悶に満ちた表情であったと運転手兼雑用係は沈痛な目をして呟いていた。
だが、不幸はまだ続いた。我王銀次の父親は、息子の葬儀が終わると心臓の痛みを訴え始め、すぐに救急車で救急病院に運ばれたが、団員たちが葬儀の片づけをしているその夜のうちに突然息を引き取ってしまったのである。数日の間に息子と夫を亡くした上に葬儀に忙殺された母親の気持は想像するに余りあることであった。その胸の内を考えようとすることすら私たち部外者には恐怖だった。憔悴しきった我王の母親は団員の助けを借りて葬儀を終えると、ふたつの位牌を抱いて、団員の運転する4トン車の助手席に座って長野の家まで戻っていった。
二度目の専売病院での入院はそれらのバカバカしいまでに愉快な思い出と、言葉に出すことさえ腹立たしくなる悲しい出来事をはらんだまま、いまだ私の脳の中で静かに脈打っている。