モトーラ世理奈さん、西島秀俊さん出演で公開中の映画「風の電話」(監督:諏訪敦彦)をはじめ多くの脚本を手がける狗飼恭子さんの、5年ぶりの恋愛小説『一緒に絶望いたしましょうか』が発売されました。最新作では、20代、30代、40代の各世代の女性たちの恋愛や夫婦の形が浮き彫りになります。刊行を記念して、新作の魅力や恋愛小説の醍醐味について語ってもらいました。
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ーーこれまで20作以上の恋愛小説を書かれてきましたが、今のご時勢で、恋愛小説を出すことに難しさを感じたそうですね。
狗飼 周りを見ていても、「恋愛がすべて」ではないと思うような出来事は多いですし、かつてのように、人間の心理を描くのに最適なのが恋愛小説、という時代ではなくなったかもしれない。
けれど私は、恋愛小説というジャンルはこれからも廃れずにいると信じています。恋愛感情は他人に説明してもわからないこともあるし、誰にとってもみんな同じじゃないってところが面白い。
ミステリーだったら犯人が分かったときにカタルシスがあるし、闘病物の小説だったら死の瞬間が悲しいなど同じ感情が得られますが、恋愛小説は、読む人の経験、他者との接し方、生き方によって、感じることの深さや広さが違うんです。
ーー狗飼さんにとって、恋愛小説を書くことの醍醐味はどこにありますか?
狗飼 これまで、「切ない」を描くことにずっとこだわってきました。切ないという感情は特殊で、何気なく生活している中ではあまり味わえないものですよね? 嬉しいとか楽しいとか外に湧き出る感情と違って、「切ない」はぐっと体内に染み渡る感じがします。恋愛小説は、ほかの小説よりも「切ない」をふんだんに書けるんじゃないかと思うんです。
これからの時代、たぶん恋愛って贅沢品になっていくと思うんです。
明日のごはんに困っていなくて、からだが元気で、精神的にも余裕がある人じゃないとできなくなるんじゃないかな。
恋愛することが贅沢になるなら、恋愛小説も贅沢品のひとつになるかもしれない。経験していてもしていなくても、SF小説みたいに宇宙に行けないけれど想像して楽しむみたいに、恋愛という贅沢を味わおう、みたいな楽しみ方もできるようになったらいいのではと思います。
ーー脚本とは違って、小説だから挑戦できたことは何ですか?
狗飼 映像の仕事で思い知らされたのは、文字は肉体には勝てないということ。そして、映像は瞬間を描くのがすごく簡単ということです。30年生きてきた役者さんが立っている姿と、この人は30歳ですと言葉で説明するのでは、映像のほうが断然強いです。それに映像では、主人公が泣き顔から笑顔に変わったシーンを見せれば感情が変わったと伝わるけれど、それを文章で表現するにはたくさんの文字数を使わなくちゃいけません。
今回の小説はラストシーンだけは決めていたので、その瞬間を文字でいかに表現できるかを考えました。最終話まで書き終わったところで、冒頭にもう1話必要な気がしたんです。映画だとタイトルが始まる前に物語を象徴するようなオープニングがありますが、そういったイメージがこの小説にもあるといいなと思い、ラストシーンを最後に冒頭に書き足しました。
ーー今までの狗飼さんの作品と比べて、いちばん違うところはどこですか?
狗飼 恋愛は一途であるべきだと思っていたので、これまでの作品では主人公が1人以上のひとを好きになることはありませんでした。登場人物たちがひとつの恋愛を昇華させて、次の恋愛の準備ができる状態にまで書いたのは今回が初めてなんです。ですので、彼らがただの多情な人たちに見えないよう気を付けました。
白黒つけてばかりだと、自分の世界が小さくなる
「一緒に絶望いたしましょうか」は、いつも突然泊まりに来るだけの歳上の女性に片思い中の正臣と婚約者との結婚に自信が持てない津秋の物語が交互に語られます。正臣が京都から東京へ好きな女性に会いにいくとき、津秋が東京から京都へ旅行に訪れたとき、驚きの真実が浮かび上がります。2人の物語に絡んでくる、既婚男性に恋する女子大生、干渉しあわない夫婦を貫くアラフォーの人妻。各世代の女性たちの恋愛や結婚にまつわるセリフも読みどころです。
狗飼 20代、30代、40代、それぞれの世代の愛を描きたいと思いました。彼女たちを簡単に紹介すると、
既婚者を好きになる女子大生の古沢さんは、今しか見ない女。
婚約者への不信感を募らせるアラサーの津秋は、過去を見る女。
20歳以上も離れた男の子に片思いされる恵梨香は、前世を見る女です。
ーー中でもいちばんスピリチュアルな女・恵梨香さんに5年も片思いするのが27歳の正臣くんですが、こだわったポイントはどこですか?
狗飼 女性たちとは違うテーマを、彼には背負ってもらいました。不倫やドラッグなど、誰もが道を外したり罪を犯したりする可能性があるのに、みんな不寛容になっていて、自分だけはミスを犯さないと思って生きている人が多い気がするんです。だから正臣くんは、他人が悪とすることに足を踏み入れてしまう弱さと可能性を持った人間にしようと思いました。
以前、オーストリアをひとり旅していたとき、ホテルで携帯をいじっていたら、その前日にホテルのすぐ横にある駅を爆破しようとした少年が捕まったという事件を知って驚いたんです。爆破があったかもしれない日に、私はホテルの前のキオスクでソーセージを食べていました。その少年は寸前で逮捕されて、彼の命も私の命も助かった。運命は、たまたまの連続だなと実感した出来事です。
たとえばその日、雨が降ったから、誰かから笑顔で挨拶されたから、そういった些細な一瞬で自分の気持ちがネガティブなほうにいかずに踏みとどまれることってよくあるので、正臣くんはそういう危うさを内包した人として書きました。
ーータイトルにはどういうメッセージを込められたんですか?
狗飼 「絶望」はひとりでする行為ですし、絶望しているときは誰も味方がいないと思うものです。この小説に出てくる人たちはみんなある種の絶望を経験した人たちだけれど、絶望したからって人生が終わるわけじゃない。
一度絶望したら体の中にそれが染み込んでしまっていて、絶望を味わう前の自分にはたぶん二度と戻れない。だったら、絶望した自分と一緒に歩いていくれる存在がいるっていうことが、その先の人生を進んでいく意味になるんじゃないんじゃないかなと思いました。たぶん20代の自分じゃたどり着けなかった感情です。
ーー最後にこの作品は、どんな方に届いてほしいと思われますか?
狗飼 正義と悪、裕福と貧困のように、世界が分かりやすく二分化する方へ進んでいってる気がしています。
小説の中で、映画「ジョーカー」のアーサー・フレックに少しだけ触れましたが、ジョーカーはずっと悪人だったわけでなく、悪になったのは、人生の途中なんです。
自分の人生を考えてみても、はっきり白黒つけられる時間よりも、その中間のグレーの時のほうが多いはず。 あいつ嫌なやつとかあの店はよくないとジャッジしてしまうほうが楽なのかもしれないけど、そうやって二分化して世界を自分で小さくしてしまうのはもったいないと思います。
白黒つけたがる世界に居心地悪さを感じている人が、この小説を読んで、居心地悪いのは自分だけじゃないと感じてもらえると嬉しい。そして、これから先の人生の小さな奇跡を想像して、明るい気持ちになってもらえたらいいなと思います。