夫婦間のセックスレスは当たり前、恋人のいる若者は減少し、童貞率は上昇中——。そんな日本人の性意識の変化を大胆に、真摯に語り合った『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』(湯山玲子+二村ヒトシ)が2月6日に文庫で発売されました(解説は、哲学者の千葉雅也さん)。単行本発売時より、より現実のものになった本書の内容を、一部抜粋してお届けします。今回は、恋愛、セックスのダークサイドについて。
メンヘラ女子のセックスはエロい?
二村 恋愛もセックスも、楽しむために、あるいは幸せになるためにするものであるはずなのに、どうして苦しむことになるのがわかっているような相手に惹かれて、面倒くさいことになるケースが多いのか。本来それほど面倒くさくない人間だったはずなのに、相手によって心をかき乱されているうちに、どんどん面倒くさい人になっていくことも大いにある。
湯山 「面倒くさい」と一言で言っているけど、それはどういうこと? 付き合う相手の行動を監視し、自由を縛るということ?
二村 定義が雑でしたね。僕にとって面倒くさいというのは「執着される」ということですね。
湯山 うーん、先ほど恋愛やセックスは楽しむために、あるいは幸せになるためにある、とおっしゃったけど、本当にそうなのか? そうあってほしい、というのはわかるけどね。実はこの二つは難物で、相手を呑み込みたい欲求、とか、すべてを自分のものにできない葛藤、なんぞのダークサイドがどうしてもついてくるやっかいなもので、自由を縛り、縛られる不自由さを快感と感じる回路が、すなわち恋愛の喜びのひとつだとも言えるのではないかな。 ちなみに、二村さんは、相手から「女としての私を背負って」と期待されたら、そうします?
二村 背負うというのは「責任を取る」ということですか?
湯山 シンプルに言うと、二村さんの心も体も私だけのものにしたいということ。そして、その代償として、私はあなたを愛して尽くすことに人生捧げますから、となる。
二村 一体化の幻想、ということですか?
湯山 恋愛にはその側面が必ずある。本当にカルト宗教みたいなもんですよ。「私、恋愛体質なの」という女性は確実にこの自動思考に入っています。昔から、この手の恋愛物語は、文学や映画表現の一大ジャンル。映画『ベティ・ブルー』とか、『アデルの恋の物語』なんぞの主人公はみんなこのタイプです。
二村 ドラマチックすぎるというか、度がすぎて面倒くさい女性、いわゆるメンヘラ女子のほうがセックスがエロい、ということがある。
湯山 そこがセックスの面白いところで、一途なエネルギーが心を打つんだろうね。悲しいかな、エネルギーはネガティブなもののほうがパワーが出る。ルサンチマンを多く抱えた人って、出世しやすかったりするじゃん。それと、やっぱりそこでメンヘラを蔑む軽蔑欲情回路が男に発生していることは確実。
二村 メンヘラ傾向のある女性のセックスは、彼女自身の頭の中の「理想のセックス」をなぞっているからエロいんじゃないかと言った人がいます。それは〝我がを捨てていない〟わけですから、身体的なオーガズムには達しにくいと思うんですが、妄想や理想とするセックスを男性と共有しやすくはある。サービスというか、パフォーマンスも濃い。
湯山 メンヘラの子は、社会で承認欲求を満たされない分、セックスでその欲求を満たそうとするから、セックスにかけるエネルギーが強いんだろうね。メンヘラに学ぶべきは、セックスに最大級のエネルギーを投下するところ。そして、本当に真面目ですよね。その真面目さが、また面倒くさいところでもあるんだけど。
二村 自分の恋愛に対して真面目だし、自分に刻みつけられてしまった被害者意識について真面目ですよね。だけど最近、そういうメンヘラ傾向のある女性、こちらに依存してくる女性とは、しゃべっているだけで苦しくなるようになった。こじらせてるところがあっても、自分がこじらせてるとわかっていてそれに酔っていない人、ある意味〝男性性がある女性〟というか、精神的に自立している女性のほうが魅力的に思えてきた。「私は私(人間)」であることと「私は女」であることを、うまく使い分けられている人のほうが、友人としても楽しく付き合えることに気づいたんですよ。
湯山 まあ、やっかいな「女なるもの」を乗りこなせて、ツールとして使える人ということですよね。現状のこじらせ女子たちは、全員脱落だし、自分の生き方の欲望のコントロールができている大人ということなので、男も女もオール幼児化時代には、こういった大人のプレイヤーたちは45歳以上になっちゃうんではないだろうか。
二村 若い恋する女性にはメンヘラ性が必ず生じてしまうものなんでしょうか。いや、男性にもメンヘラ傾向の依存性が強い若者が増えていますよね。ある程度年齢を重ねないと、人間は自分の依存心が〝あきらめられない〟のか。いや、男は中年クライシスと重なって、年を取ってからメンヘラ化する場合も多いか。
湯山 難しいのは、その境地にやっと立てた年齢だと、身体的にはホルモン減少などで、肉体の性的エンジンとルックスの老化などを迎えてしまっている、というアンビバレンツがあるんですよ。世間一般のセックス規範「いい年をして」がブレーキをかける。「私もしくは俺のこの中年丸出しの肉体では、相手が萎えるに違いない」と。そしてまだまだ、「いい年をして色狂いは見苦しい」という規範は強い。そんなダルダルの肉体同士の性愛は、ひょっとして、弘兼憲史のマンガ『黄昏流星群』でしか表現されていないんじゃないかと思いますもん。マンガや小説はそのあたり、ごまかして書けるからね。でも、話を戻すと、どう考えてもおトクではない、面倒くさい女性が、なぜ、男の心をつかむんでしょうかね。
二村 それこそ男の「侮辱できるぞ」という気持ちと甘い罪悪感を、同時にいい感じに刺激するからでしょう。真面目な男性の場合は、「救ってあげたい」という感情を抱くんでしょうね。その感情の裏側にも支配欲があるのだと思いますけど。
僕の個人的な話をすると、面倒くさい女性に反応する気持ちの奥には、僕と母親との関係があるんだと思います。母はシングルマザーの開業医として働き、僕は一人っ子の男の子として、忙しい母の代わりに女性の看護師さんや家政婦さん、たくさんの女性たちに溺愛されて育った。昭和には珍しい、超現代的な環境です。ではそれで女たちの王国はうまく回っていたのかというと、そうではなかったことに最近やっと気づいたんです。女性たちは僕の母の愛や信頼を得ようとして、まるで〝モテ男をとり囲む女たち〟のようなドロドロした感情があった。だから僕はそれをモデルにして「僕のせいで人々が嫉妬し合う状況」を再現しようとする傾向がある。
母は患者第一で、仕事好き。患者さんにはめちゃめちゃ信頼されている一方、看護師さんが思うように働かないと激高してメスをぶん投げたりすることもあった。あるいは意識的に〝男〟を演じていたのかもしれない。でも〝僕にとっての父親〟という役割は演じてくれなかった。僕の「引き裂かれ」はそのへんから来ている。僕はたぶん母がやってたことと同じことをやりたかったんです。
湯山 「僕のせいで人々が嫉妬し合う状況を再現」とは、強力に面倒くさいなあ(笑)。その本音は、人々にはいつも自分のことを気にかけていてほしい、という支配欲に見えるのだけど、もっと手前の「愛の欠乏症」なんですよね、きっと。私の友人のひとりは、人間関係で巧妙に「私を気にかけてちょーだい」モードを作り上げる策士だった。凄く頭のいい女性なんだけど、長いこと付き合っていると、その遠回しの「私に気を使え」エネルギーのあり方がわかっちゃって、心ある人間は離れていく。
二村 僕がAVの中で描いてきた痴女、性欲は強くて男に優しい、すなわち〝いい女〟は、男っぽいところもあり、かわいらしいところもあり、エロいことはもちろんですが、男の欲望や都合をすべてわかってくれる女性でもある。でもそれは甘やかされて育った僕の幻想で、そんな女性は現実にはいません。現実の女性には、それぞれの都合がある。
湯山 はい、そうです。
(構成:安楽由紀子)
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