外国人観光客が集まる人気宿泊街として、
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これが山谷の現在だ
かつて東京には泪橋という有名な橋があった。その橋は、罪人が刑場へ引かれるさいに家族が涙で別れを告げたと語られる。現在ではその橋はなく、名前だけが残るただの交差点だ。
この交差点を南下した一角が、東京のどん底、悪の巣窟と言われる山谷になる。山谷は、公共職業安定所を中心としてドヤが二百軒近く密集したドヤ街で、単身男性の日雇い労働者で形成されている。その人口は六千人とも八千人とも言われていて、日雇い労働者特有の流動性や景気の変動によって出入りが激しい。
以前は家族で暮らす者も多かったが、東京オリンピックを境に都営住宅に入居させられたため、今では女性や子供の姿を見かけることはない。また最近では、住人の高齢化が進み、生活保護などの福祉受給者も少なくない。
そしてついに僕は、そんな泪橋を渡ったのだが、山谷に足を踏み入れたという実感はあまりない。昼間のせいか、労働者の姿もほとんど見あたらない。これならただの下町の風景といった感じだ。
小道に入ると古い二階建てのドヤが建っているが、ただの古いアパートのようにも見える。そしてしばらく歩くと、いつの間にやら辺りは一般の住宅街に変わっていた。
山谷には他の住宅街とのはっきりとした境界線は存在しない。街の中には、大衆酒場・食堂・立ち飲み屋・パチンコ店などがあるが、街自体に活気やエネルギーというものは感じられない。かつてこの街で労働者による暴動が何度も起こったというのが信じられない。
山谷は暴動事件がきっかけで全国的に知られるようになったという。暴動は、ドヤの番頭と宿泊者のケンカに対する警察の処置の仕方や、飲食店の従業員と客のケンカの処置、酔っぱらいに対する警官の取り扱いなどをめぐって勃発した。そして山谷の住人たちは山谷のシンボルでもある三階建ての交番、通称マンモス交番に押しかけて投石暴行などを行った。機動隊も動員されるなどして、山谷は社会問題として括られることになった。
山谷の中を一周してしまうと、今夜の宿を決めることにした。
「ドヤ」には三種類ある
現在の山谷のドヤは、大きく三種類に分類することができる。
一つは相部屋のドヤだ。部屋の中に「カイコ棚」と呼ばれる二段ベッドが数台置かれている相部屋で、一人に割り当てられるスペースはたったの一畳。このタイプのドヤは最も安価で、一泊八百円から千円で泊まることができる。また、山谷特有のドヤでもある。
二つ目は木造の個室のドヤ。三畳程度の部屋で、共同トイレ、共同浴場がある。宿泊費は一泊千四百円から二千円程度。
そして三つ目はビジネスホテルタイプのドヤ。鉄筋コンクリート造りで、外壁はタイル等で覆われていて綺麗だ。宿泊費は高く、一泊二千三百円からになる。中には一泊四千円近くする高価なドヤもある。このタイプだと、日当の高い職人クラスでないとそうそう泊まることができない。
いずれのドヤも一日ごとに宿泊代を払う仕組みになっていて、現場と飯場を行き来する日雇い労働者向きになっている。もちろん、まとめて先払いすることも可能だ。
僕は相部屋のドヤに泊まることにした。相部屋にはプライバシーがないので、山谷の日雇い労働者の日常生活を知ることができると思ったからだ。
日ノ出ハウスというドヤを選んだ。日ノ出ハウスは鉄筋コンクリート四階建てで、定員は約六百五十人と山谷で最大級の収容能力を持っている。ドヤとしては巨大な、まるで総合病院を連想させるような出で立ちの日ノ出ハウスは、マンモス交番の建つ大通りに面しているので、比較的入りやすさを感じさせた。
だがそうはいうものの、なかなか中に入ることができず、僕は入り口の辺りでうろうろするばかりだった。凶暴な男たちばかりなのではないか、絡まれたらどうしよう、探偵やスパイと間違われたらどうしようと、そんな不安でいっぱいだった。
それでも、ドヤ街の大きな特徴として匿名性というものがある。わけありな過去を背負っている者が少なくないこの街では、相手の名前や過去を尋ねないことが不文律となっているので、若い僕が入っていったとしても問題はないはずだ。そんなことを自分に言い聞かせると、意を決してドヤの中に入った。
「泊まりたいんですけど、空いてますか?」
従業員は僕の若い風貌を見て一瞬驚いたような表情を見せたものの、いたって平静に、ここに名前を書いてくださいと、名刺ほどの大きさの紙を差し出した。
宿泊料金の千円を渡すと部屋まで案内された。思いのほか簡単にドヤに潜入できたので、こんなに簡単なのかと、今までボランティアなどに参加して足踏みをしていたことが馬鹿らしく思えた。
廊下の両サイドに並ぶ部屋は、どの部屋もドアが開け広げられていて、中の様子が丸見えだ。ベッドの上で本や漫画を読む人や眠っている人が見える。廊下では上半身裸のパンツ一枚でブラブラ歩く人とすれ違い、見たくもないのに入れ墨が目に入る。
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だから山谷はやめられねえ
ごく普通の大学生の「僕」は、就職活動を前にしてドロップアウト。そして始めた東京・山谷(さんや)でのその日暮らし。宿なし・金なし・家族なしの中年男たちと寄せ場や職安に通い、飯場の世界にも飛び込んでいく。そこで「僕」が見たものとは……。幻冬舎アウトロー大賞を受賞した『だから山谷はやめられねえ』は、知られざる山谷のリアルを描いた傑作ノンフィクション。その一部を特別にご紹介します。