「戒厳令に近い強権発動――私は覚悟した」。東日本大震災から丸9年。地震・津波の多大な被害に加え、私たちの暮らしを大きく変えた原発事故。あの危機に政府はどう対応したのか。『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(菅直人著、2012年10月刊)から、一部を抜粋してお届けします。
※写真はWEB用で書籍には入っていません
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原発事故の悪化
地震・津波対策には、発災直後から松本龍防災担当大臣が危機管理センターに詰め、北澤俊美防衛大臣や警察を担当する中野寛成国務大臣(国家公安委員長)、消防を担当する片山善博総務大臣たちと連携を取って、直ちに動き出していた。
他方、原発事故は今後どのような展開を示すのか誰にも予想がつかなかった。震災と原発事故に対応する対策本部の立ち上げなど総理大臣としての役割を果たしながら、同時に私は原発事故の動向に神経をとがらしていた。
原発事故は悪いほうへ向かった。本来送電線からの電気が途絶えても、緊急用の大型ディーゼル発電機で電気を送ることになっているが、津波で緊急用発電機も停止し、すべての電源が喪失したのだ。
東電から要請を受け、すぐに緊急冷却装置のため電源車を送る手配をしたが、到着した電源車はプラグが合わないなどの理由で、結局、役に立たなかった。
初動
私は原発事故対策の初動がスムーズでないことに苛立っていた。
原子力事故対応の中心となるべき行政組織は原子力安全・保安院である。その保安院が初動において、現状の説明や今後の見通しについて何も言ってこないからだった。
私はこれまで厚生(現・厚生労働)大臣や財務大臣を経験したが、各省の官僚は関係する分野の専門家であった。そして、大臣が指示する前から彼らは方針を検討し、それを大臣に提案するのが通常の姿であった。しかし今回の原発事故では、最初に事故に関する説明に来た原子力安全・保安院の院長は原子力の専門家ではなく、十分な説明ができなかった。その後も、先を見通しての提案は何も上がってこなかった。
私はやむなく、事故発生後の早い段階から、総理補佐官や総理秘書官を中心に、官邸に情報収集のための体制を作り始めた。
※次回「想像した『最悪のシナリオ』」は3/17公開予定です
東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと
「冷却機能停止」の報せから拡大の一途をたどった原発事故。有事に対応できない構造的諸問題が露呈する中、首相として何をどう決断したか。歴史的証言。