「戒厳令に近い強権発動――私は覚悟した」。東日本大震災から丸9年。地震・津波の多大な被害に加え、私たちの暮らしを大きく変えた原発事故。あの危機に政府はどう対応したのか。『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(菅直人著、2012年10月刊)から、一部を抜粋してお届けします。
※写真はWEB用で書籍には入っていません
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東電撤退と統合本部
原発事故発生から数日間、事故の収束が見通せず、原子炉の制御不能状態が拡大する中で、私は、この原発事故を収束させるためには、自分自身を含め、たとえ命の危険があっても、逃げ出すわけにはいかないという覚悟を決めていた。しかし、原発事故対応の要となるべき行政組織、原子力安全・保安院からは何の提案も上がってこず、院長は二日目以降、ほとんど姿を見せなくなった。そうした時に東電撤退問題が起きた。
三月一五日午前三時、私が官邸で仮眠をとっていた時に秘書官から「経産大臣が相談したいことがあると言って来ています」と起こされた。そして海江田万里経産大臣がやって来て、東電の清水正孝社長から撤退したいという申し出があったと告げられた。
東電との詳しい経緯は次章で述べるが、「撤退すれば日本は崩壊する。撤退はあり得ない」と思っていた。それは東電だけでなく、自衛隊や消防、警察についても同じ気持ちだった。民間企業である東電職員にそこまで要求するのは通常であれば行き過ぎであろう。しかし、東電は事故を起こした当事者であり、事故を起こした東電福島原発の原子炉を操作できるのは東電の技術者以外にはいない。事故を収束させることは、東電関係者抜きでは不可能だ。それだけに、たとえ生命の危険があろうとも、東電に撤退してもらうわけにはいかないのだ。
私は同時に、政府と東電の統合対策本部を東電本店内に設けることが必要と判断し、細野豪志総理補佐官を私の代わりに事務局長として常駐させることを決断した。事故発生後、この原発事故収束には、東電と政府が一体であたらなくてはならないのに、撤退問題といった重要問題でさえ意思疎通が十分でなかった。これは事故の収束作戦を進める上で、致命傷になりかねないと考えたのだ。そして、清水社長を官邸に呼び、「撤退はない」と言い渡し、また「統合対策本部を東電本店内に置く」ことを提案し、了解を取り付けた。
私は、統合対策本部を立ち上げるため、三月一五日午前五時三五分、東電本店に乗り込んだ。「撤退」は清水社長だけの考えではなく、会長など他の幹部の判断も当然入っていたと考えたので、私は、会長、社長など東電幹部を前に、撤退を思いとどまるように説得するつもりで、渾身の力を気持ちに込めて次のように話した。
「今回の事故の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。これは二号機だけの話ではない。二号機を放棄すれば、一号機、三号機、四号機から六号機、さらには福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何か月後かには、すべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの二倍から三倍のものが一〇基、二〇基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。
何としても、命懸けで、この状況を抑え込まない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。そんなことをすれば、外国が『自分たちがやる』と言い出しかねない。皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達は遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のこととともに、一〇時間先、一日先、一週間先を読み、行動することが大切だ。
金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。六〇歳以上が現地へ行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる。」
これは同行した官邸の若いスタッフの聞き取りのメモを起こしたものである。
※試し読みは今回で終了です。続きは本書でご高覧ください。
東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと■目次
はじめに
序章 覚悟
第一章 回想 ――深淵をのぞいた日々
三月一一日・金曜日/三月一二日・土曜日/三月一三日・日曜日/三月一四日・月曜日/三月一五日・火曜日/三月一六日・水曜日/三月一七日・木曜日/三月一八日・金曜日/三月一九日以降
第二章 脱原発と退陣
第三章 脱原発での政治と市民
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「冷却機能停止」の報せから拡大の一途をたどった原発事故。有事に対応できない構造的諸問題が露呈する中、首相として何をどう決断したか。歴史的証言。