新型コロナの流行以降、毎日メディアに登場しているウイルス学者・岡田晴恵教授は、10年前に、幻冬舎文庫より小説を出している。
ここでは、致死率の高い危険な「強毒型インフルエンザ」が流行して、日本がパニックに陥る『H5N1 強毒性インフルエンザウイルス日本上陸のシナリオ』より一部公開する。
現在大流行中の新型コロナウイルスは、小説と違い、致死率が高いウイルスでないにもかかわらず、「感染爆発〈パンデミック〉」により、我々の経済も、生活も、破綻しかけている。致死率の高いウイルスが、もし、今回の新型コロナのように流行してしまったら、日本は、世界は、どうなる……!?
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南の島で、致死率の高い強毒性新型インフルエンザが発生。日本にも感染が広がる一方だ――。
【おもな登場人物】
大田信之 国立感染症研究所ウイルス部長、WHOインフルエンザ協力センター長
沢田弘 大阪府R市立S病院副院長、感染症内科の専門医
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11月30日 医療従事者の過労死
病院は新型インフルエンザに罹患した患者と既に入院している患者の新型インフルエンザの罹患で、医療は極限の状態に置かれていた。そこへさらに既に入院している病棟も混乱を極め、新しい入院患者を受け入れる余裕などはなくなっていた。
医療従事者が次々と病に倒れたために、ただでさえ混乱した病院は人手がほとんどないといってもいい状態だった。数少ない医師も看護師も休む間もなく、交替する要員もないまま、かろうじて仮眠をとる程度で、家に帰ることもできず、もう何日もぶっ続けで仕事をしている者がほとんどだった。彼らを動かしているのは悲壮なまでの使命感だけだった。
そんな状況の中で、大阪府R市立S病院副院長の沢田が、副院長室で倒れているのが発見された。病院前の駐車場の仮設テントでの診療を引き継いでから2週間目、沢田の死因は新型インフルエンザへの感染ではなく、過労死であった。発見された時には、既に死後数時間を経ていた。彼は病院の副院長室で寝泊まりをして診療を続けていたのだった。白衣のまま発見された彼は、副院長に昇進したときに大学の同級生らからもらった聴診器を握りしめて、事切れていた。「新型インフルエンザの来襲は戦争だ。その最前線から医師は逃げてはいけない……」。沢田は研修医らにそう語り続けていたという。
防災の避難所となった体育館、公民館が医療機関となった。さらにそれでも足りなくなると、大規模集会施設や、大型店舗のフロアーを借り受けた。
カナダでは、これらの患者収容施設の使用が行動計画に盛り込まれていた。そのための備品を準備することも想定されていた。だが、日本ではそのような対策について具体的に検討されたことはなかった。つまり急遽、こうした膨大な患者を看護するしかなくなったため、十分な備品や医療用具もないままに、苦肉の策として同じような対応がとられたにすぎない。そのため、これらの臨時の医療機関では十分な医療措置が施されようはずもなかった。
臨時の病院があちこちにできたことを受けて自衛隊には応援要請が知事からなされ、防御服を着た隊員が、お粥(かゆ)の炊き出しを始めていた。七分粥、五分粥、三分粥と作り分けられ、また味噌汁を薄めに作って、この病時食を臨時に収容された患者たちに配布するのだ。
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各地に設置された発熱センターでは、重症者の送り込み先となる病院を既に失っていた。これまでは病院へ送り出していた、帰すことのできない重症患者を発熱センターでも受け入れ始めざるを得なくなっていた。小さなテントに敷き詰められた布団に、患者が寝かされ始めた。もう、どうにもならない。テントに収容できる人数には限りがある。ほかに大規模施設で、患者を収容できる場所を探し出さなければならない。
その中で働く医師らは、一様に同じような悲痛な叫びを心の中で強くあげ始めていた。また治療にも支障をきたし始めていた。なにしろ医療機材がないのだ。これだけひどい呼吸困難には、人工呼吸器を装着し呼吸の安定をはかるのが通常だ。
しかし、野戦病院化したこの施設で、そんなことは不可能だ。患者が発症して運び込まれてきても1~2日の短期間で死亡するケースが目立ち始めた。
輸液での水分の補給すら、困難となった。下痢と嘔吐を繰り返す患者のための点滴が不足している。
「看護師長! もう点滴がないんです」
「倉庫は見た? 非常事態用の棚の奥の箱にもない?」
「ありません」
「じゃあ、以後はもう点滴の代わりにスポーツ飲料を少しずつ飲ませて」
「はい」
もう医療行為といえないかもしれない。だが、なんとか少しでも患者の状態を改善させたいと、看護師たちは、イオン電解質の入ったスポーツ飲料を少しずつ与えて看護する。
細菌の重感染を防ぐための抗生物質も不足、枯渇し始めていた。誰もがパンデミック時の医療の限界を感じ始めていたのだった。
12月10日 大阪・吉川クリニック
発生より1ヶ月後、大阪の吉川の病院では、息子の正が、クリニックの医療を引き継いでいた。
吉川は、病魔に倒れたあの日、大学病院で働く息子へ「あとの、この患者たちを頼む」と妻に伝言を頼むと、そのまま意識が戻ることなく、診療室の床に敷かれた布団の上で1週間後に医師である息子に看取られて亡くなった。看護師から連絡を受け、大学病院から駆け戻った息子の正は、実家のクリニックの診療室で、意識混濁のままの父、その横で枕を並べて寝込んでいる母、そして転院するべき病院を見つけられずにクリニックで父親が最後まで診療していた患者らが院内に敷き詰められた布団で寝かされているのを見て、立ち尽くしたのだった。正はすぐさまクリニックの奥から残っている医薬品、点滴医療具を取り出し、父と母、そして残された患者らに出来る限りの処置をした。
クリニックを休診にした後にも、医師が既に倒れているとは知らない患者とその家族が間断なく、クリニックのインターフォンを押し、中には「タミフルを分けてくれー」と外で叫ぶような光景も見られた。正は3日間、両親とクリニック内の患者の手当てをしながら、押し寄せる新たな患者とその家族の悲痛な叫びに応えることができない自分に歯がゆさを感じた。
吉川が倒れて4日後の朝、国・自治体で放出が決まっていた備蓄タミフルが、医療機関に届き始めた。要求量には及ばないが、これから順次放出されるという。正は、クリニックを再度開くことを決意し、父を看取った後も、クリニックの医療を立派に引き継いでいた。
新型インフルエンザの大流行は、1ヶ月たってもいまだに続いていた。過去の流行の経験では、最初の流行の一波は8週間続くとされているのだ。流行収束の兆しは見られない。日本の津々浦々にまで、ウイルスはその手を拡げてきていた。
外出を避け、屋内に閉じこもる人々、自宅で新型インフルエンザウイルスと闘いながら療養している人、多くの都市で医療機関だけでは対応しきれない大量の患者が、大規模施設にいっせいに寝かされていた。感染をおそれた人々が屋内に引きこもり、公共の交通機関も止まっているため、街はゴーストタウンのように静かだ。
発生から1ヶ月を経て、ようやく闘病の末、回復の見込みの出てきた人々もまだ体力が戻らず、働けるまでには至らない。流行が続く中、どの産業もその働き手の3分の1以上の人々を失って、経済活動は縮小の一途をたどっていた。
「人手さえあれば……」、そんな要望は街中のそこここにあふれ、備蓄ワクチンで免疫を持ち、軽い症状で済んだ人や感染して回復した人々などの「新型ウイルスに免疫を持った人」の社会機能参加が強く求められていた。
スーパーなど日用雑貨や食料品を扱う店では、いよいよ品薄になり、場合によっては営業を取りやめる店も多数出てきた。物流が滞り、品物が入ってこないのだ。特に、食糧の自給率の低い日本では、海外からの輸入に頼る様々な食料が、既に枯渇していた。
だが、すべてのスーパーや大規模小売店がこのような混乱状態にあったわけではなかった。日本に新型インフルエンザがやって来た時、大手スーパーのイーサイズでは、初手の対応から異なっていた。それは、プロジェクトチームがこれまで渾身の力をこめて築いた行動計画に基づき、迅速に対応を行ったからだ。
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感染爆発〈パンデミック〉の真実
世界的な新型コロナウイルスの大流行で、我々はいまだかつてない経験をしている。
マスクやトイレットペーパーが売り場から消え、イベント自粛や小中高休校の要請が首相から出され、閉鎖した商業施設もあれば、従業員の出社を禁止する企業も出ている。
そこで毎日、メディアに引っ張りだこなのがウイルス学の岡田晴恵教授。
なんと岡田氏は、10年前に自身が書いた小説の中で、まさにこうなることを、予言していた!
そこで、この2つの小説、『H5N1 強毒性新型インフルエンザウイルス日本上陸のシナリオ』『隠されたパンデミック』を、緊急重版かつ緊急電子書籍化した。