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プラチナデータ

2020.04.17 公開 ポスト

#1 命じられた極秘任務【東野圭吾、電子書籍特別解禁】東野圭吾

渋谷のラブホテルで見つかった、女子大生の死体。捜査を担当する警視庁の浅間玲司警部補は、極秘任務を命じられることに……。それは犯人のものと思われる分析物を持って、ある研究所を訪ねることだった。そこで見たものとは……。

これまで日本では一切電子化されていなかった、東野圭吾作品。このたび、二宮和也、豊川悦司出演で映画化もされた超話題作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! 発売に先駆け、特別に100P相当の「プラチナ試し読み」を全7回にわたってお届けします。

「外に出たい若者たちよ、もうしばらくご辛抱を! たまには読書でもいかがですか。新しい世界が開けるかもしれません。保証はできませんが。ーー東野圭吾」

*   *   *

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死体は鮮やかなブルーのキャミソールを着ていた。豊かな胸はそれによって隠されていたが、下半身は露出していた。下着を着けていないからだ。首には濃紺のチョーカーが巻かれている。その少し上の部分が赤黒くなっていた。素手で絞めた痕だ、と慣れた捜査員ならすぐにわかる。

(写真:iStock.com/fergregory)

浅間玲司は一台の小さな電子機器を手にしていた。二本の細いコードが繋がっていて、先端には金属のクリップが付いている。何度か目にしたことがあるものだ。

「また電トリですか」後輩の戸倉が浅間の手元を覗き込んでいった。「最近、多いですね」

「これ、本当に効くのか」

「らしいですよ。俺はやったことないですけどね」そういってから戸倉は浅間の耳元で囁いた。「試してみたらどうですか。少しだけなら、身体に悪影響はないって話ですし」

「じゃあ、おまえがやってみろよ」

浅間がいうと、後輩刑事は肩をすくめ、苦笑いをして遠ざかった。それを見送った後、浅間は持っていた電子機器を元の場所に戻した。死体が発見された時、それはナイトテーブルの上に置いてあった。

鑑識作業は続いている。彼等の仕事が終わるまでは、浅間たち捜査一課の人間でさえも現場には近づけないというのが建前だが、そんなものを守っていたらまともな初動捜査などできないというのが刑事たちの考えだ。

現場は渋谷のはずれにあるラブホテルの一室だった。清掃をしようと係員が部屋に入り、死体を発見した。殺されていたのは二十代前半と思える女性で、ベッドの上で倒れていた。

性交した形跡はあるが、体内に精液は残っていない。使用済みのコンドームも見つかっていない。女性のバッグの中身と共に犯人が持ち去ったと思われた。バッグからは、必ず持っていたに違いない財布と電話がなくなっていた。身元を確認するものは残っていない。

よくあるくだらない事件だ、と浅間は思った。馬鹿な男と馬鹿な女がどこかで意気投合し、このホテルにしけこんだ。二人とも並のセックスにはあきていたので、どちらかが持っていた『電トリ』で遊ぼうということになった。『電トリ』というのは最近若者たちの間で流行っている脳刺激装置だ。両耳に電極を取り付けて電源を入れると、微弱なパルス電流が脳に流れ、薬とは違った刺激が味わえるのだそうだ。もちろん国に認可された機械ではない。どこかの国の誰かが作りだし、闇マーケットに流した品物だ。最近はそういうおかしな商品が、ほかにもたくさんある。『電トリ』というのは電気トリップの略だが、それさえも正式名称ではない。正式名称など誰も知らない。作った本人でさえ知らないかもしれない。

このホテルにやってきた二人は、『電トリ』で頭を狂わせながらセックスをしたのだ。それによって得られる快楽が並大抵のものではないということを、浅間は最近取り調べた若者から聞いた。特にサドやマゾの性癖を持つ者には、たまらないらしい。

「俺、何度も彼女を殺しそうになったもんな」その若者は楽しそうにいった。

この事件も、そういう馬鹿な遊びの結果だろうと浅間は見当をつけた。男は女を絞め殺した後で、自分のしでかしたことに驚き、怖くなって逃げたのだ。だがたちの悪いことに、後始末をする程度の知恵はあったらしい。女の身元を示すものが残っていないこともそうだし、鑑識班が決定的な指紋を見つけられずにいることもそうだ。

くだらない事件ではあるが、すぐにやっつけられる仕事でもなさそうだ、と浅間は憂鬱になった。女をナンパしそうなサド男というだけでは、日本中を聞いて回るだけで百年かかる。

現場の状況を把握した後、浅間は部屋を出た。廊下にも鑑識の姿がある。当分の間、このホテルは商売があがったりだろう。

エレベータを待っていると、「浅間君」と後ろから呼ばれた。鑑識の責任者である田代が近づいてきた。手に小さなケースを持っている。

「これを警視庁に持っていってほしい」

「俺が? 何ですか、これは」

「毛だよ」田代はにやりと笑った。

「毛?」

「枕から髪の毛が一本。床から二本。こっちは下の毛だ。どっちも被害者のものではない」

「なんで俺が陰毛を運ぶんです」

「ベテラン刑事としては不満だろうが、那須課長からの指示だ。君に持ってこさせろ、と指名があったんでね」

那須の神経質そうな細い顔が頭に浮かんだ。また何かおかしなことを思いついたんじゃないだろうな、と浅間は嫌な予感がした。捜査員たちの聞き込み能力にランクを付けようといいだしたのは二年前のことだ。幸い、まだ実現はしていない。

プラスチック容器を受け取り、浅間はホテルを後にした。タクシーを拾い、警視庁に向かった。容器は密封されているが、誰かの陰毛が入っていると思うと、スーツのポケットに入れておくだけで不愉快だった。

警視庁に着くと、真っ直ぐに捜査一課長の部屋へ行き、ドアをノックした。どうぞ、と返事があったのでドアを開けた。正面に机があり、その向こうに那須がいた。横に立っているのは浅間の直接の上司である木場だ。上司ではあるが、尊敬はしていないし、頼りにもしていない。単なる課長の伝令役だと浅間は思っている。だが今日は、その伝令を使わずに那須が直接に指示を出してきた。何か特別な企みがあるらしいと浅間は読んだ。

「毛を持ってこいといわれたので、持ってきました」浅間は容器を差し出した。

だが那須は受け取ろうとはせず、木場に目配せした。

木場が一枚のコピーを出してきた。地図が印刷されている。

「それを持って、この場所に行ってもらいたい」

「はあ?」浅間は係長の丸い顔を見返した。「人手不足ですか。だったらバイク便を紹介しますよ」

木場がむっとして睨んできた。

「これは極秘任務だ」那須が低い声でいった。「残念ながらバイク便には任せられない。駆けだしの警官でもだめだ。木場君と相談して、君が適任だと判断した」

浅間は課長と係長の顔を交互に見つめ、最後に地図に視線を落とした。×印を記したところがある。

「有明……ですか。この場所に何があるんです?」

「表示は、『警察庁東京倉庫』となっているだけだ」那須が答えた。

「倉庫ねえ。で、本当の中身は?」

「それは行ってみればわかる。いや、行ってもまだわからんかもしれんな。しかしまずはその目で見ておいてもらいたい。だからこそ君を選んだんだ。君のようなタイプは、自分の目で見ないことには、ここでいくら説明しても理解できないだろうからね」

どうやら俺は馬鹿にされているらしいと浅間は感じた。だがここでへそを曲げる前に、このインテリたちが何を企んでいるのかを見極めてやりたいという気持ちもある。

(写真:iStock.com/TkKurikawa)

浅間は地図に手を伸ばした。

「持っていけばいいんですか。その後は?」

「持っていくだけでいい。先方に渡したら、帰ってこい。いくら何でも、そうすぐに結果は出ないだろうからな」那須は細かく身体を揺すって笑った。

「結果というと……」浅間は持っている容器を見た。「これで何かわかるんですか」

「だから、今ここで説明しても無駄だといってるんだ。あわてなくても、数日後には答えを知ることになる」

「早く行け」木場がいった。「タクシーを使ってもいいぞ。領収書は経理に回せ」

「自腹をきります」浅間は踵を返し、ドアに向かった。

地図に記された場所には、本物の倉庫がいくつも建ち並んでいた。浅間はタクシーを降りた後、徒歩で探したが、目的の建物を見つけだすのにひどく手間取った。『警察庁東京倉庫』と書かれた看板が、想像したよりもずっと小さかったからだ。

その建物は灰色の塀で囲まれていた。開閉式の鉄柵の脇にインターホンがある。浅間はそこのボタンを押した。

「何でしょうか」男の声がスピーカーから聞こえてきた。

「警視庁から来た者ですけど」

「お名前は?」

「浅間といいます」

「わかりました。そこでお待ちになっていてください」インターホンが切れた。

浅間が待っていると、すぐそばにあった小さな扉が開いて、警備員らしき男が出てきた。身体が大きく、扉をくぐるのが窮屈そうだった。

「身分証を見せてもらえますか」男がいった。インターホンと同じ声だった。

浅間が警視庁のバッジを提示すると、警備員は納得した顔で頷いた。

「どうぞこちらへ」

警備員に促され、扉をくぐった。さらに駐車場の脇を通り、ようやく建物に近づいた。入り口のドアを開けて中に入る。警備員の後について薄暗い通路を歩いていくと、エレベータの前に出た。軽自動車ぐらいなら運べそうな大きさだった。警備員はエレベータのドアを開け、どうぞ、といった。

地下に行くのか、と浅間は察した。建物がさほど高くないことは外から確認している。

エレベータが止まり、ドアが開いた。一人の男が立っていた。白衣を着た、四十歳ぐらいの男だった。顔色は白く、目は細くて吊り上がっている。真っ黒な髪をオールバックにしていた。

「警視庁の浅間さんです」警備員がいった。

「御苦労様です」男は浅間に頭を下げた後、警備員に目を向けた。「君は持ち場に戻っていなさい」

警備員は頷き、エレベータに乗った。そのドアが閉まるのを見届けてから、男は再び浅間のほうを向いた。

「那須課長から話は聞いています。分析物はお持ちですね」

「分析物というと、これのことですか」浅間は内ポケットからプラスチック容器を出した。

男は頷いた。「毛髪だと伺いましたが」

「――と、陰毛です」

「大いに結構。では、こちらへ」男は歩き始めた。

「受け取らないんですか」

男は立ち止まり、ゆっくりと浅間を振り返った。

「私があなたからそれを受け取るわけにはいかないんです。ここにはここのルールがありましてね。あなたから直接手渡していただかねばなりません」

「誰にです?」

男はふっと唇を緩めた。「それはすぐにわかります」

「課長といいあなたといい、やけにもったいぶるんだな。ここにはここのルールがあるといいましたが、ここは一体何なんですか。で、あなたは誰なんです。名前も聞いてない」

すると男は、はっとしたように顎を上げた。白衣の内側に手を突っ込み、名刺を出してきた。

「失礼。那須課長から聞いておられるものと思っていました。私はこういう者です」

差し出された名刺には、『警察庁特殊解析研究所 所長 志賀孝志』とあった。

「特殊解析研究所……何をやってるところですか」

「読んで字の如し。特殊な解析についての研究です」そういって志賀は歩きだした。

ひんやりとした空気の漂う白い廊下を志賀は進み、ひとつのドアの前で止まった。何の表示も出ていない部屋だ。ドアの横に付いているパネルに志賀は左手を当てた。ドアは静かに横にスライドした。静脈認証システムになっているらしい。

中に足を踏み入れ、浅間は目を見張った。そこには様々な電子機器や装置が並んでいた。特に目を引くのは中央に置かれた巨大な機械で、高さは人間の背丈ほどもある。

「宇宙にでも行く気ですか」

浅間の言葉に志賀は薄笑いを浮かべた。

「宇宙より、もっと神秘的なものを探究する装置です」

浅間は肩をすくめた。

志賀は奥に進んだ。そこにもドアがある。彼はそれを無造作に開いた。

「開けるなっ」突然、向こうの部屋から男の尖った声が飛んできた。「ノックしろといってるだろ」

「あっ、失礼」志賀が謝っている。「警視庁から捜査員が来たものだから……」

「あと五分待て。そうすれば出ていってやる」

「わかった」志賀は静かにドアを閉じ、ふっと吐息をついた。

「あっちの部屋にいるのは?」浅間は訊いてみた。

志賀は迷うような表情を浮かべた後、苦笑を漏らした。

「あなたに説明するのは難しいな。それにあなたは知らなくてもいいことだし」

「これを渡すんじゃないんですか」浅間は容器を見せた。

「それを受け取るのは彼じゃない。別の人間です」

「ははあ」浅間は頷いた。ほかにも誰かいるらしい。

改めて室内を見回した。ここが何をする部屋なのか、浅間には見当もつかない。持ってきた髪の毛や陰毛を使うのだろうということは想像がつくが、そこから先がわからなかった。

「ここは科警研とは別なんですか」浅間は訊いた。科学警察研究所の略だ。警察庁の管轄で、科学捜査について研究する機関だ。

「元は科警研の傘下にありました。本格的に稼働するにあたり、独立したんです。場所が公になっているのもまずいですしね」

「へえ、余程大きな秘密を抱えているんでしょうね」

浅間が揶揄を込めた言い方をした時、奥のドアががちゃりと開き、三十歳ぐらいの男が現れた。引き締まった顔つきの、髪の長い男だった。

「ええと……」志賀が躊躇いがちに口を開く。

「彼なら出ていきました」髪の長い男はそういって浅間を見た。「そちらは?」

「警視庁の浅間警部補だ。殺人事件の犯人のものと思われる分析物を持ってこられた」

男は頷き、ドアをさらに大きく開いた。「あまり片づいてないけど、どうぞ」

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東野圭吾

1958年、大阪府生まれ。大阪府立大学電気工学科卒業後、生産技術エンジニアとして会社勤めの傍ら、ミステリーを執筆。1985年『放課後』(講談社)で第31回江戸川乱歩賞を受賞、専業作家に。1999年『秘密』(文藝春秋)で第52回日本推理作家協会賞、2006年『容疑者χの献身』(文藝春秋)で第134回直木賞、第6回本格ミステリ大賞、2012年『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川書店)で第7回中央公論文芸賞、2013年『夢幻花』(PHP研究所)で第26回柴田錬三郎賞、2014年『祈りの幕が下りる時』(講談社)で第48回吉川英治文学賞、さらに国内外の出版文化への貢献を評価され第1回野間出版文化賞を受賞。

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