新人ドクター、ムショ内を駆ける! 息をもつかせぬ医療サスペンス『プリズン・ドクター』試し読み1回目。しぶしぶ矯正医官となった史郎は千歳刑務所に配属されるが……(著者インタビューはこちら ⇒ 刑務所の新人医師が罪と病の謎に挑む…『プリズン・ドクター』刊行記念インタビュー
* * *
是永史郎(これながしろう)は必死で駆けていた。
医務棟を出て、工場と呼ばれる職業訓練場の一つを目指す。史郎が向かっているのは製本作業を行う工場だった。刑務官とともに駆け込むと、建屋の内部は騒然としていた。
深緑色の作業服に同色の作業帽をかぶった受刑者たちが、作業場の隅にわらわ らと集まっている。若い刑務官が懸命に受刑者たちを持ち場へ戻そうとしているが、 多勢に無勢か、野次馬たちは図太く居座っている。
「ほらどいて、道を空けて」
先導する刑務官に続き、受刑者たちの視線を浴びながら、史郎は倒れた男のもとへと駆け寄る。
人の輪の中央には意識を失った男が仰向けに寝かされ、AEDの処置を受けていた。年齢は70に近い。痩せた胸に、電極パッドが貼り付けられていた。名前を呼びかけたが、反応はない。
「救急要請は」
「2、3分前に」
話しながら、刑務官は除細動が終わったことを確認し、胸骨圧迫をはじめた。横たわる男の胸が上下する。史郎は途中で交代しながら、心肺蘇生を続けた。
この受刑者には狭心症の基礎疾患がある。あらかじめ検察にも報告してあるが、これほど早く心筋梗塞が起こるとは思わなかった。胸骨を圧迫する手の甲に、こめかみから汗が流れ落ちた。
千歳刑務所では、受刑者たちの平均年齢は40代。多くの受刑者は不規則な生活を送っていたこともあり、何らかの持病を持っている。高血圧、高血糖、高脂血症、頭痛、関節痛、リウマチ、皮膚炎、肝炎、痛風、性病、喘息、歯周病、うつ、認知症……数え上げればきりがない。
史郎はこの刑務所の医務課に所属する矯正医官――簡単に言えば『受刑者の医師』 として働いている。
数百、数千の人間が収容される刑務所では、多くの病人が生活を送っている。矯正医官は受刑者たちを診察し、必要に応じて医薬品を処方したり、追加で検査を行う。今回のように刑務作業中に倒れる者がいれば、その対処も行う。普段は医務棟に詰めているが、工場への回診もする。
じき、救急車の到着が伝えられた。敷地内に乗り入れた救急車から救命士が飛び降り、手際よく受刑者をストレッチャーに乗せる。ここぞとばかりに受刑者たちが見物に集まるが、刑務官たちがどうにかせき止めてくれた。
男が運ばれた後の工場は、嵐が去った後のように静寂を取り戻した。先ほどまで私語であふれていた場内は、製本機の機械音で満たされる。
――間に合わないかもしれない。
史郎は重い足取りで医務棟への道を歩きながら、運ばれていった狭心症患者のことを思い返していた。まだ矯正医官になってひと月。急患の対応をしたのは初めてだ。 もしあの患者が亡くなったら、史郎が赴任してから初の死者ということになる。
改めて振り返れば、たちの悪い患者だった。しきりに眠れないと言っては睡眠導入剤を求め、処方を拒むと激昂した。同室の受刑者から話を聞いてみると、毎晩ぐっすり眠っているらしいことが判明した。男は嘘をついていたわけである。
そんなことを日常的に繰り返していたため、初めて狭心症の発作が起こったとき、 周囲の受刑者たちはまともに取り合わなかったらしい。今度は痛み止めが目当てか、 とからかう者までいたという。口の端から唾液の泡を吐き、手足をばたつかせる様子に、同室の受刑者がようやく異変を覚え、慌てて看守を呼んだそうだ。呼ぶのがあと少し遅れれば、とっくに亡くなっていただろう。
思わずため息が出た。はじまったばかりだというのに、縁起の悪い。そこまで思って、ひどく不謹慎な考え方であることに気がついた。さっきの患者がまだ亡くなったと決まったわけではない。
史郎は運ばれた男のカルテを見返した。
窃盗罪で懲役2年。自宅から近い書店や家電量販店で万引きを繰り返し、執行猶予の最中に逮捕された。
受刑者の過去を知るたび、気が滅入る。自分が毎日向き合っている相手は、一人の例外もなく罪を犯している。もちろん、全員が狂暴というわけではない。むしろ、罪状とは似つかわしくないほど大人しく過ごす受刑者のほうが多い。だからといって気が晴れるわけでもなかった。
首筋から冷気が忍びこんできて、反射的に身震いをした。北海道の5月はまだ寒さが尾を引いている。
――こんなところ、一日も早く出ないと。
塀の外へ思いを馳せつつ、史郎は空咳を一つした。
その日の夕刻、男が亡くなったと連絡があった。史郎が千歳刑務所医務課に赴任してから、初めての死者だった。
思わず頭を搔いた。頭を搔くのはうんざりしたときに出る癖だ。生まれつき毛量が 多いため、すぐに指がからまる。
診察室の椅子に座った史郎は医者で、目の前には患者が座っている。ここまでは一般的な病院と同じだ。違っているのは、患者の背後に厳しい顔をした刑務官が控えている点だった。50代と思しき刑務官は、年季の入った制服をきっちりと着こなし、 患者の一挙手一投足に目を光らせている。万一暴れ出すようなことがあれば、すぐさま取り押さえられるよう。
患者は灰色の舎房衣を着ている。貧相な男性受刑者は、背中を丸めて椅子に腰かけていた。上目遣いの目は忙しなく左右に動き、坊主頭が小刻みに揺れている。 史郎は頭を搔いていた手を下ろし、徒労感を押し隠して尋ねた。
「どうされましたか」「あのう、胃が痛くて」
胃痛自体はよくある症状だ。だが、大事なのはここからだ。
「どの辺が痛みますか。押さえてみてください」「えっと、このあたりかな。多分」「そこは腸ですよ」「あ、間違えた、間違えた。ここだ」「間違えた?」
受刑者は史郎の顔色をうかがいながら、少しずつ手を動かす。この時点で怪しい。
「本当に胃が痛いんですね? 食事は普通に取っているようですが」
「いや、我慢して食べてんだよ。残すともったいないから」
「胃の痛みなら胃薬を出しますが」
「胃薬? 痛み止めじゃなくて?」
相手は当てが外れたような顔をしている。垂れ下がった眉が情けない。
「そうですよ。胃酸の分泌を抑える薬です」
史郎が言うと、受刑者はしばし考えこむように押し黙った。
「あ、さっき言い忘れたんだけど、何となく膝も痛くて」
「……胃痛はいいんですか」
「胃痛もあるよ。あるけど、今は膝のほうが痛むっていうか」
その割には元気そうに歩いていた。とってつけたような言い方に、史郎はため息をつく。
どう好意的に見ても詐病(さびょう)としか言いようがない。
受刑者の背後では、刑務官の滝川が微動だにせず注視している。滝川は保健助手と呼ばれる刑務官の一人で、東京の八王子にある医療刑務所での研修を受け、准看護師の資格を取得している。
このベテラン看守は史郎の指導係のような役目を果たしていた。医療現場の経験に おいては、所内で滝川の右に出る者はいない。50歳を過ぎても残業や夜勤を厭わず、 刑務官からの人望も篤い。指導係には適任だった。心なしか、大学での初期研修で出 会った救急科の指導医と雰囲気が似ている。滝川より若いが、生真面目さや感情が表に現れにくいところが似ていた。
「少し様子を見ましょうか」
「いや、でもね、本当に膝が痛いんだって。痛み止めがもらえれば……」
「いい加減にしろ」
滝川が低い声で叱りつける。
「膝のことなんか何も言っていなかったくせに、今さら言い出すんじゃない」
「はあ、まあ。すみません」
「戻るぞ」
男は未練がましく史郎のほうをちらちらと見ていたが、滝川が「おい」と言うと、そそくさと診察室から出て行った。史郎の両肩に、徒労感がどっとのしかかる。
――何件目の詐病だよ。
詐病とは、病人のふりをすることである。
刑務所では刑務作業を休むため、あるいは医薬品を手に入れるための詐病が多い。
医薬品で最も人気があるのは向精神薬や抗うつ薬。睡眠薬や痛み止めを欲しがる者も多い。これらの医薬品は精神的な安らぎや気分の高揚を与えるため、受刑者のなかにはちょっとした『クスリ』として服用したがる者が少なくなかった。みずから服用することもあれば、他の受刑者との取引に使おうとする不届き者もいる。
――それにしても。
医局にいたときから詐病を申告する受刑者が多いという噂は聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。一般社会でも詐病がないわけではない。近くにいる人間の気を引くため、休学や休職の理由を作るため、保険金を騙し取るため、など理由はさまざまだ。しかし、刑務所での詐病率の高さは一般社会の比ではない。診断の前にまずは詐病かどうかの判断が必要なくらいだった。
次の受刑者は、一週間前から頭痛がひどいと訴えた。40代のがっちりした体格の男性だ。
元暴力団関係者。覚せい剤使用で懲役2年半。
本人いわく偏頭痛持ちで、昔から痛み止めが手放せなかったのだという。入所時健診の結果によれば、〈持病なし〉ということだった。詐病と判断した史郎が痛み止めの処方を拒むと、受刑者の人相が変わった。それまでの淡々とした表情から一変し、顔全体で敵意を示す。舎房衣からはみ出た手首の皮膚には、和柄の刺青が刻まれていた。「なんで出せねえんだよ」すがすがしいほど、自分の主張に一片の疑念も抱いていない。史郎が思わず上体を引くと、すかさず滝川が間に入った。
「凄んでも無駄だ。それが効くのは外だけだ」
やんわりと肩を押し返す。鼻を鳴らした受刑者は頭痛の演技も忘れて、ふてくされたようにそっぽを向いた。
その次の受刑者は夜どうしても寝付けないという。すでに睡眠薬を処方しているが、まだ効かないのだと訴えている。30代の男性で、なで肩が目についた。
元自治体職員。業務上横領罪で懲役3年。
「目が冴えて、なかなか寝付けなくて。昨夜も明け方に一時間寝たくらいです」
アルミフレームの眼鏡をかけた男は、目の下に影のような隈をつくっていた。黒ずみ、遠目からでも尋常ではないことがわかる。入所してから、常に不眠を訴えている患者だ。薬を変えても、量を増やしても、一向に不眠が改善される気配はない。
「やっぱり、ゾピクロンが一番合ってるみたいです。もう少し増やしてもらえますか」
声音はしっかりしている。そのまま一般社会でも通用しそうだ。しかし表情はひどく虚ろで、目の焦点が時々合っていない。
悩みながら、史郎はうなずいた。
「……わかりました。増やします」
男の背後で、滝川があからさまに顔をしかめた。納得していないらしい。しかし史郎も、ここまで言われたら出すしかなかった。拒否したら、この受刑者はいったいどんな反応を示すだろう。
受刑者を連れて行き、診察室に戻ってきた滝川は受刑者を連れていなかった。
「是永先生、あとは午後にしますか」
30歳近くも年上の刑務官から敬語を使われるのは、まだ面映(おもはゆ)い感じがする。
「そうしてもらえると助かります。記録も整理したいので」
午前9時から診察をはじめて、もう11時半をまわっている。そろそろ昼食だ。あっという間だった。史郎は午前中に診た受刑者のカルテを見返した。
「胃が痛いとか言っていた人は、嘘をつくにしてもちょっとひどかったですね」
「常習犯ですよ。全然、演技が上手くなりませんけど」
滝川は壁にしつらえた薬品棚から、昼食の前後で受刑者に配る薬を取り出している。受刑者は一部の持病の薬を除いて、基本的に自分で医薬品を管理することはできない。 服用するタイミングごとに刑務官から与えられる薬を飲む。
滝川は仕切りのついた箱のなかに手早く薬を整理した。
「では、いったん失礼します」
「午後もよろしくお願いしますね」
史郎が声をかけると、滝川は慇懃に頭を下げ、診察室から出て行った。
「ふう」
部屋に一人きりになると、自然とため息が漏れる。
新千歳空港や自衛隊駐屯地を有する北海道千歳市の郊外。札幌の中心部から道央自動車道でおよそ1時間の距離に、千歳刑務所はある。
受刑者約600名に対して、常勤の医師は史郎一人だ。医務課には准看護師資格を持つ4人の刑務官がいる。彼らは保健助手と呼ばれ、受刑者の訴えを聞いたり、医務棟の受刑者の世話をしたり、投薬の管理をしている。外部からは毎週水曜に歯科医が来るが、千歳刑務所に所属はしていない。必然的に、診療は史郎一人で受け持つことになる。
自然と、何度目かのため息が漏れる。
――ここは、俺のいるべき場所じゃない。
本来なら、今ごろは神経内科の専門医としてスタートを切っているはずだった。
「何で俺が」
独り言をこぼし、書類の山と再び格闘をはじめた。
* * *
なぜ史郎は矯正医官を選んだのか…?次回、近日公開予定。
プリズン・ドクター
注目の新鋭が描く、手に汗握る医療ミステリ!
奨学金免除の為しぶしぶ刑務所の医者になった是 永史郎 。患者にナメられ助手に怒られ、 憂鬱な日々を送る。そんなある日の夜、自殺を予告した受刑者が変死した。胸を搔きむしった痕、覚せい剤の使用歴。これは自殺か、 病死か?「朝までに死因を特定せよ!」所長命令を受け、史郎は美人研究員・有島に検査 を依頼するが――。