都内で発見された、女性の死体。銃で頭部を撃たれ、暴行された跡があった。数日後には、別の場所でも同様の死体が発見される。しかし現場に残された遺伝子情報は、誰にも合致しないものだった。はたして犯人の正体は……。
これまで日本では一切電子化されていなかった、東野圭吾作品。このたび、二宮和也、豊川悦司出演で映画化もされた超話題作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! 発売に先駆け、特別に100P相当の「プラチナ試し読み」を全7回にわたってお届けします。
「外に出たい若者たちよ、もうしばらくご辛抱を! たまには読書でもいかがですか。新しい世界が開けるかもしれません。保証はできませんが。ーー東野圭吾」
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5
電話のチャンネルを合わせると、志賀孝志の白い顔が液晶画面に映し出された。相変わらず、真っ黒な髪をオールバックにして固めている。まるでヘルメットのようだ。
画面の右上にテロップが出ている。究極の科学捜査を築く男、とあった。
男性のインタビュアーが質問を始めた。
「先日、大阪で起きた強盗殺人事件で、現場に落ちていた煙草の吸い殻から犯人を割りだしたということですが、具体的にはどういうことなんでしょうか」
志賀が無表情のままで口を開いた。
「現場ではなく、被害に遭った家のそばの路地で発見された吸い殻です。捨てられてから時間が経っておらず、通常、人が留まるような場所ではないため、犯人が潜んでいた可能性が高いとみて、うちのほうで解析したのです」
「それによって何かわかりましたか」
「DNAからは多くのことが判明します。顔の造作、骨格、体型、見かけ上のことは大抵わかります。先天的な病気を持っていれば、それもわかります」
「でもそれだけで、誰が捨てたかを特定するのは不可能ですよね」
「並行して、蓄積してあるデータの中から合致するものを検索します。過去に犯罪歴のある人間のデータは、殆どすべて入っていますから、再犯の場合はすぐに特定できます」
「しかし、今回の犯人は初犯でした」
「登録してあるデータの中から、吸い殻を捨てた人間と血縁関係にあると思われるものが見つかったんです。そういう柔軟性が、このDNA捜査システムの特徴です。その情報を基に捜査が行われた結果、一人の人物が浮かび上がったというわけです。あとは御存じの通りです。その人物の自宅から、被害者の指紋が付いた紙幣が見つかり、スピード逮捕が実現しました」
「それはたしかに大したものだと感心します。特殊解析研究所には、現在どれぐらいのデータが登録されているんですか」
「申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。極秘事項なので」
「一説によると、DNA法案が成立する以前から、試験的に実際の捜査でDNA検索が行われていたということですが」
「プロファイリングは行っていました。検索については、当時の法律の範囲内で実施したこともあります」
「本人に無断で一般人のDNA情報を入手していたという噂もあります」
「それは何かの間違いでしょう」
動揺を一切感じさせない志賀の顔を見て、よくいうよ、と浅間は舌打ちした。
隣の席の戸倉が、液晶画面を覗き込んできた。
「特解研の所長ですね。最近、よくテレビに出てるなあ」
「PRのためだろ。どれぐらい犯罪防止に役立つかを宣伝して、DNA登録者を増やそうって魂胆だ」
テレビの中では、インタビュアーが質問を続けている。
「今後もデータを増やしていこうとお考えですか」
「もちろんそうです。網の目が細かいほうが獲物を逃がしにくい」
「警察が遺伝子を管理することに否定的な意見も多いです。プライバシー等、倫理的な面で、もっと議論すべきことがあるんじゃないでしょうか」
「誤解のないようにいっておきますが、警察が管理しているのではなく、国が管理しているのです。戸籍や納税記録と同じです。警察は許可を得て、それを利用しているに過ぎません。議論は続けられるべきでしょう。しかし忘れてもらいたくないのは、DNA捜査が稼働してから、検挙率は格段に上がっているということです。犯罪の抑止力になっているのも明白です。もしあなたが、あなたの身内から犯罪者を出したくなければ、あなたがDNA登録をすればいいのです。そうすれば、あなたの身内にもしかしたらいるかもしれない犯罪者予備軍たちの悪の芽を摘み取ることができます。DNAはごまかせないし、遺伝子は嘘をつかないのです」
浅間はスイッチを切り、自信満々の志賀の顔を消した。
御苦労様、と呟き、机のパソコンに目を向けた。書きかけの報告書が表示されている。最近はデスクワークが増えた。
志賀の話は法螺ではない。実際に、検挙率は上がっている。現場から、毛髪、体液、血液、唾液などが採取できた場合は、確実に容疑者を絞り込んでいける。目撃情報を求めて歩き回ることも少なくなった。
だが浅間には、このシステムが人間を幸せにするものだとはどうしても思えなかった。彼は子供の頃に読んだSF小説を思い出した。国民全員にICチップを埋め込み、どこで誰が何をしているのか、国家が厳重にチェックしているという物語だった。気味の悪い話だと思った。だが個人のDNA情報を国が管理するというのは、それと同じことではないのか。
気乗りせぬままに報告書の作成を再開しようとした時、警報音が鳴り、パソコンの画面が突然切り替わった。地図と事件内容を記した文書が表示された。通信指令センターから送られてきた情報だ。殺人事件らしい。担当として、木場班が指定されていた。
部屋の空気が瞬時にして緊迫したものになった。浅間はパソコンを操作し、内容を自分の電話に転送した。上着を手にし、立ち上がる。
「戸倉、車はあるか?」
「緊急出動用の車両を一台、地下に確保してあります」戸倉もすでに支度を終えている。
「よし、乗せてくれ」
ほかの刑事たちが同乗させてくれといってきたら面倒だった。浅間は戸倉の背中を押すように部屋を飛び出した。
千住新橋のそばの堤防で、死体は発見された。すぐ下を荒川が流れている。ビニールシートをかぶせて隠してあったのを、ゴミ掃除をしていたボランティアグループが見つけた。夕方のことだった。
死体は若い女性だった。そばにバッグが捨てられており、中には財布も免許証も入ったままだった。したがって身元はすぐに判明した。池袋にある専門学校に通う生徒で、年齢は二十二歳、埼玉県川口にあるマンションで独り暮らしをしていた。
頭を口径の小さい銃で撃ち抜かれており、即死と思われた。また明らかに暴行された形跡があった。さらに驚いたことには、体内に精液が残っていた。
もちろん、その精液は特殊解析研究所に運ばれることになった。
「これ、八王子の事件と同じじゃないですか」運ばれていく死体を見送りながら戸倉がいった。「殺し方が同じだし、体内に精液が残っている点も同じだ。これほどDNA捜査のことが話題になっている時に、コンドームをつけずに暴行殺人をする奴が、そう何人もいるとは思えません」
浅間は黙って頷いた。彼も同じことを考えていたからだ。
五日前に八王子でも事件が起きていた。殺されたのは女子高生で、今回と同様に頭部を撃たれていた。戸倉がいったように、精液も残っていた。浅間たちとは別の班が動いているが、まだこれといった進展はないらしい。つまり特殊解析研究所からも、有効な解析結果が出てきていないというわけだ。
「なんか、嫌な予感がするな」浅間は呟いた。
翌日の午後、千住署で特殊解析研究所の報告会が開かれた。ただし、顔を揃えているのは、幹部クラスが殆どだった。DNA捜査に関する会議は、必要最低限の人数で行うように、という通達が警察庁より出ている。
「まず最初に申し上げておきます」神楽がいった。「今回、うちに持ち込まれたサンプルは、先日起きた八王子での事件で解析したものと、全く同じものだということです。つまり、被害者となった二人の女性は、同じ男性と性交渉を持ったと断言できます」
「やはり同一犯か」那須が机を叩いた。
「精液が一致していると申し上げただけです。彼女たちと性行為に及んだ人物が犯人かどうかまでは断定していません」
回りくどい言い方をしやがって、と浅間は腹の中で毒づく。
「すると、解析結果はもう出ているわけだね」木場が神楽に訊いた。
「出ています。八王子の捜査本部にはすでに報告済みですが、ここで改めて報告させていただきます。まずはプロファイリング結果です」神楽は傍らに置いてあった書類を配り始めた。
そこには、『血液型 A Rhプラス、身長 百六十プラスマイナス五センチ、肥満傾向強』といった特徴が並んでいる。
「モンタージュは?」木場が催促するように訊いた。
神楽はパソコンのキーを叩き、皆に見えるようにモニターを回転させた。
そこには丸い顔で、腫れぼったい目をした男の顔が映し出されていた。
「後で、プリントアウトしたものを提出いたします」神楽がいった。
書類を見ながら那須がため息をついた。
「八王子の連中と合同でやるしかないな。何としてでも、この写真の男を見つけだすんだ。状況から見て、どちらの事件も、殺害現場は別だ。犯人はほかの場所で殺し、車で死体を運んで捨てたと考えられる。広域捜査だから、ほかの署にも応援を頼もう」
「あのう、課長」木場が遠慮がちにいった。「解析結果は、これですべてなんでしょうか。データベースとの照合は行われてないんですか」
那須は顔をしかめた。
「そうか。俺は八王子での報告を聞いているが、君たちは知らないんだったな。神楽君、例のことをみんなに話してやってくれ」
はい、と答え、神楽は改めて全員を見回した。
「残念ながら、現段階でのデータベースの中に、今回持ち込まれたサンプルと高い一致率を示したものは見つかりませんでした。特殊解析研究所では、今回のサンプルを『NF13』として登録します」
「NF?」浅間は思わず訊いた。
「『NOT FOUND』の略です。これまで、同様に一致したものが見つからないケースが十二件ありました。今回は十三番目です」
「なんだ、結構、役立たずなんだな」
「先の十二件のうち八件が、データベースを増やすことにより解決済みです。NF13も、正体が判明するのは時間の問題でしょう」
浅間は首を傾げた。「さあ、それはどうかな」
「何か気に入らないことでも?」神楽が訊く。
「この手の犯人は、過去にも同様の性犯罪を犯しているケースが殆どだ。前科のある人間のDNA情報を検索すれば、一致したやつが見つかるはずだ。見つからないっていうのは、どこかに漏れがあるからだと思う」
神楽は笑いながら頭を振った。
「DNA捜査の恐ろしさを一番よく知っているのは前科者たちだ。そんな人間が、わざわざ精液を残していくはずがない。この犯人は初犯です。間違いない」
「システムに欠陥があるとしたら?」
浅間の言葉に神楽の顔から笑いが消し飛んだ。
「おい、浅間」木場が割って入った。「余計なことをいうな」
「欠陥なんかありませんよ。完璧です」神楽が浅間を睨みつけてきた。
「そうかな。先日、有名な数学者がネット上で発言してたぜ。国民のDNA情報のすべてをコンピュータに登録して完璧に管理するなんてことは、技術上、不可能だってな。そんなコンピュータは世界中のどこにもないって」
「我々は特殊なプログラムを開発したんです。そんじょそこいらの数学者には思いつかないようなプログラムをね。まあ、おたくにいってもわからないでしょうがね」神楽はパソコンを折り畳み、立ち上がった。全員を見回す。「特殊解析研究所からの報告は以上です。今後もデータベースの拡張に努め、NF13の解明に全力を注ぎます」
6
新世紀大学病院の敷地内に足を踏み入れたところで、神楽は建物を見上げた。銀色に輝く建物だ。そう見えるのは、殆どガラス張りといっていいほど、各部屋の窓が大きく作られているからだ。太陽光線を規則正しく浴びることが健康維持の秘訣、という信念を創立者は持っていたらしい。耐震設計は完璧で、ガラスが割れて降ってくることはないという話だが、患者がライフルで狙われやすくなる、ということは危惧していないようだ。
いつどこの誰が殺人者になるかわからない時代に不用心なことだ、と神楽はここの建物を見上げるたびに思う。
正面玄関から中に入り、待合室を横切ろうとしたところで足を止めた。隅のほうで白衣を着た男たちが、細長い机を前にして座っている。彼等の背後の壁には張り紙がしてあった。そこには、『DNA登録のお願い』と書かれている。
神楽は合点した。彼等は特殊解析研究所の依頼を受け、国民のDNA情報を集めているのだ。ほかの病院でも、同様の活動がなされている。そのおかげで、神楽たちのところに集まるDNA情報の数は、多い時では一日に一万件を超える。
神楽は彼等のところに近づいていった。一人の職員が、主婦らしき女性を説得している。
「――ですから、このDNAによる犯罪捜査が進められて以来、検挙率は格段に上がっているわけです。その点をまず御理解いただきたいのです」
「それはまあ、わかるんだけど」主婦は乗り気でないようだ。きょろきょろと周囲を見回している。何か口実を見つけて、席を立とうと思っているのかもしれない。
「どうか、登録していただけないでしょうか」職員は媚びるような目をしている。
そんなにぺこぺこすることはないだろう、と神楽は傍で見ていて、苛々してきた。
「だって、もし私の親戚から犯罪者が出たら、その人と私の間に血の繋がりがあるってことが、すぐに周りに知れ渡っちゃうでしょ。それはちょっとねえ。プライバシーの侵害じゃないかしら」
「しかし、それについては国会でも承認されておりまして……」依然として職員の歯切れは悪い。
神楽は大股で近づいていった。
「あなたの身内から犯罪者を出さなければいいんです。それだけのことです」
彼の言葉に、主婦はぎくりとした顔で見上げた。
「あなたは?」職員が訊いてきた。
「DNA捜査を担当している者です」そういって職員に頷きかけた後、神楽は主婦に視線を戻した。「誤解されているようですが、DNA登録の真の目的は、犯罪者を捕まえることにあるわけではありません。これから犯罪に走るおそれのある人間たちに、それを思いとどまらせることが最大の目的なんです」
「でも、衝動的というか、出来心でやっちゃう場合もあるでしょう?」
「そういった犯罪者は見逃せということですか」
「そんなことはいってません。ただ――」
「あなたのいうように、DNA捜査があっても、やはり犯罪は起こります。逮捕されることが確実なのに、そのことに考えが及ばない浅はかな人間が多いからです。その場の衝動だけで動いてしまい、通り魔殺人のようなことが起きる。そこで考えていただきたいのは、そうした犯罪の被害者の気持ちです。あるいは被害者の遺族たちの思いです。彼等は、どんな手を使ってでも、犯人を突き止めたいと思うでしょう。DNA捜査は、彼等にとって大きな支えなのです。登録者が増え、犯人を見つけだせる可能性が高まることを、心の底から望んでいます」
「それはわかりますけど……」
「そうした通り魔がもし自分の身内だったら世間体が悪いので捜査には協力しない――そんなことが遺族たちの前でいえますか」
神楽の言葉に、主婦は俯いた。自分だけがなぜ責められねばならないのだ、と不満に思っているに違いなかった。
「大丈夫ですよ」彼は口調を和らげて続けた。「DNA情報は、身内に犯罪者が出ないかぎり、絶対に利用されることはありません。国の手で、徹底的に管理されています。それともあなたは、身内から犯罪者が出るおそれがあると思っておられるのですか」
彼女は顔を上げ、神楽を睨んできた。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
だったら、と神楽は笑いかけた。
「治安を良くするための施策に協力していただけませんか。ここであなたが手本を示してくだされば、ほかの人たちも後に続きます。こうして私があなたにお願いするのは、あなたがこの問題に少しでも関心を示してくださっていると思うからです。あなたがまるで無関心なら、とうの昔に席を立っておられたでしょう。いやそもそも、最初からここには座っておられなかったはずだ」
主婦の表情に変化が現れた。彼女は周囲の目を意識し始めたようだ。実際、神楽のよく通る声によって、待合室にいる人間たちの視線が集まっていた。
「登録をお願いできますか」
神楽がだめを押すと、彼女は吐息をついた。
「どうすればいいんですか」
それを聞き、神楽は横でやりとりを聞いていた職員に目を向けた。
「こちらの御婦人に手続きの説明を」
男性職員は我に返ったように目を見開いた。
「あ……では、この書類に名前と連絡先を書いていただいて、それから、あの、頬の粘膜を採取させていただければ結構です」
「血液型を調べるよりも簡単ですよ」そういって神楽は主婦に微笑みかけ、その場を離れた。
プラチナデータ
国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。その開発者が殺害された。神楽龍平はシステムを使って犯人を突き止めようとするが、コンピュータが示したのは何と彼の名前だった。革命的システムの裏に隠された陰謀とは……。これまで紙でしか読めなかった、東野圭吾さんの作品。このたび本作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! それを記念して、特別に「ためし読み」を7回にわたってお届けします。