亡き父・昭吾の悲しい別れから「人間と機械の違い」について考えるようになった神楽。そこでたどり着いた答えが「遺伝子」だった。人の心は遺伝子で決まるという結論に達した神楽だったが、彼にもまた秘密がありーー。
これまで日本では一切電子化されていなかった、東野圭吾作品。このたび、二宮和也、豊川悦司出演で映画化もされた超話題作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! 発売に先駆け、特別に100P相当の「プラチナ試し読み」を全7回にわたってお届けします。
「外に出たい若者たちよ、もうしばらくご辛抱を! たまには読書でもいかがですか。新しい世界が開けるかもしれません。保証はできませんが。ーー東野圭吾」
* * *
Kたちの作った作品十点と陶芸家たちの未発表作品十点が、専門家たちの前に並べられた。彼等はそれらを手にとってじっくりと吟味し、どれがロボットによって作られたものかを見極めるのだ。
その時の結果は、インターネットによって、即座に伝えられた。その時に画面に現れた文字を、神楽は今も思い浮かべることができる。
鑑定士軍団の的中率は四十八パーセント――というものだった。
本物と偽物が半々なのだから、目をつぶっていても五十パーセントの確率で当たるはずだ。それがこの結果というのは、もはや鑑定不能と宣言したに等しかった。
鑑定に参加した専門家たちは、責任を陶芸家に押しつけた。
「今の陶芸家は個性がない。奇麗な作品は作れるが、人間臭さが感じられない。これでは簡単に模倣されても仕方がないだろう。昔の陶芸家が作るものには、決して真似できない味というものがあった。今回の結果は残念だが、真摯に受け止めるしかない」これは四十年のキャリアを誇る美術商の言葉だ。
「ロボットが優れているというより、人間のほうがロボットに近づいている。そのことを、今回は改めて感じた」こんな表現をした者もいた。
一部のマスコミは、Kの言葉も伝えた。「当然の結果だ。全く驚いていない」というものだった。
この結果は、美術界を揺るがした。専門家でさえ、ロボットの作った贋作を見抜けないと証明してしまったのだから、陶芸品に対する信頼度は地に落ちた。その現象は間もなく、他の美術工芸品にも飛び火した。殆どすべての作品の値が暴落した。焦ったある画家は、「工芸品のような、もともと機械で作ることが可能なものと違い、画家のイメージが複雑に絡み合う絵画はロボットでは贋作を作れない」と発言し、工芸家たちの顰蹙を買った。
こうした状況に、神楽昭吾は激怒した。彼の怒りは、敗北した鑑定士たちに向けられた。
「何という情けない話だ。人間が丹誠込めて作ったものと、機械によって作られたものの違いもわからんとは。そんなことだから愛好家たちに愛想を尽かされるんだ」
昭吾はKたちの行為を、芸術を愛する心に対する冒瀆だと断じた。
「芸術というのは、作品に触れた人々の心の中で結晶化するものだ。なぜ感動するか、どこに心を打たれたかということは、本人にすらも説明できない。だからこそ尊く、人々の心を豊かにしていく。ところが芸術もどきが出回ると、真の芸術を結晶化させる力が、みんなの心から次第に失われていく。これは大変な重罪だ。断じて許すことはできない」
昭吾はマスコミを通じ、Kに挑戦状を叩きつけた。どれほど巧妙に真似てあろうと、自分の作品ならば必ず真贋を見分けられると宣言した。
しかしこれに対するKの返事は、「もはやその必要はない」というものだった。先の鑑定対決で、自分の技術の高さは証明されたと満足しているようだった。また裁判所も、さらなる対決には意味を感じなかったらしく、昭吾に協力する姿勢は見せてくれなかった。
苛立った昭吾に、某テレビ局が近づいてきた。自分のところで神楽昭吾作といわれる陶芸品をいくつか揃えるから、それらが本物か否かを自分で鑑定してくれないか、というのだった。
この申し出に、昭吾は難色を示した。テレビの企画では、視聴者を納得させられないのではないか、と危惧したのだ。鑑定対象となる作品の真贋を、局側が事前に昭吾に教えていると勘繰られるおそれがあるからだ。
「疑う人は、どのようにやっても疑います」テレビ局のプロデューサーはいった。「こちらとしては、極力厳密に実施したいと思います。先生は、余計なことは考えず、鑑定に集中してくだされば結構です。視聴者は、それほど馬鹿ではありません。真剣勝負をすれば、必ずそのことが伝わります」
最終的に、この言葉で昭吾は決心した。
神楽が小学校五年の夏だった。彼は生まれて初めて、テレビ局のスタジオに足を踏み入れた。いつもなら、好奇心に勝てず、勝手に動き回っていたところだ。しかしその日は、ずっと父のそばにいた。タイトルマッチを控えたボクサーを見守るように、期待と不安を抱え、無言でじっとしていた。
いよいよ番組が始まった。生放送だった。リハーサル通りに司会者が進行していく。神楽は観覧席の隅から、父の真剣勝負を見つめることになった。
緊張した面持ちの昭吾の前に、三つの箱が並べられた。この中に含まれている贋作を見破る、という趣向になっていた。ただし、いくつ含まれているかは明らかにされていない。昭吾も、それは教えてもらわなくていいといっていた。
箱の中身は茶碗、大皿、壺だった。いずれも神楽の目には、父の作品に見えた。しかしそれは遠目だからかもしれない。
昭吾が三つの作品を鑑定するのに、さほど時間はかからなかった。彼が自信に満ちていることは、離れていても神楽にはわかった。神楽は安堵した。父は勝った、と確信した。
「では、発表していただきましょう。どの作品が本物で、どれが偽物でしょうか」司会者が昭吾に尋ねた。
昭吾は真っ直ぐに前を見つめ、口を開いた。
「じっくりと見るまでもありません。私には、ひと目で答えがわかりました。局側は、私が間違えることを期待して、このような作品を並べたのでしょうが、その手には乗りません。確信を持って、断言します。ここにある三つの作品は、すべて私のものです。神楽昭吾の作品に間違いありません」
じつに堂々たる口調だった。その姿を見て、神楽は父親のことを誇りに感じた。自分が彼の息子なのだということを周りの人間たちにいいたい気分だった。
「ええと、では、この中に偽物はないということですか」司会者が、作り笑いに戸惑いの表情を滲ませた。
「そういうことです」昭吾は頷いていった。「すべて本物です」
「その結論に変更はありませんか。まだ時間はありますから、今一度確認していただくことも可能ですが」
「その必要はありません。私は自分の作品については、それを作った時の状況まで覚えています。見間違えるはずがない」
「そうですか……」司会者が、番組スタッフのほうをちらりと見た。
何を勿体ぶってるんだ、と神楽は苛々した。昭吾が、もう確認する必要がないといっているのだから、さっさと答えをいえばいいじゃないかと思った。おそらく、あまりにもあっさりと正解をいわれてしまったので、番組制作側としては失望しているのだろうと想像した。そんなこと知るもんか、と神楽は腹で舌を出した。
「わかりました。そこまで自信をお持ちなら、我々としましても、これ以上引っ張る意味がありませんので、解答を発表させていただきます」司会者が、ようやく意を決したようにいった。その顔から笑みは消えていた。唇を舐め、呼吸を整えるように軽く息を吐いた後でいった。「神楽先生、驚かれると思いますが、ここにある三つの作品は、じつはすべて贋作なんです。本物はひとつもありません」
スタジオ内が一瞬静かになり、その後でどよめきが起こった。それはそのまま神楽の思考状態を表現していた。頭の中が真っ白になった後、激しく混乱し始めていた。
うそだ、と彼は呟いた。
だが彼以上に昭吾は混乱しているに違いなかった。昭吾は立ち尽くしていた。その目は大きく見開かれていた。充血しているのが遠目にもわかった。
「そんな……馬鹿な」呻くようにいった。「そんなはずがない」
「ところが神楽先生、本当のことなんです。先程おっしゃったように、我々は少々意地の悪い問題を用意しました。本物と偽物を混ぜておくより、すべてをどちらか一方にしたほうが難しいと考えました。我々が選んだのは、すべてを偽物にするというものでした。先生のお答えとは、全く逆なんです」
司会者の口調には、昭吾を気遣うような響きがあった。憐れんでいるようにも神楽には聞こえた。そのことが一層、惨めな気分にさせた。
昭吾が突然、作品に近づいた。茶碗を手に取ると、首を振った。
「信じられん。そんなことはあり得ない。これは私が作ったものだ。私の手による作品だ」
「違うんです」司会者がいった。今度は、その声には冷たいものが含まれていた。「信じたくない気持ちはわかりますが、違うんですよ。これらは偽物なんです。贋作グループがロボットを使って作ったものなんです」
「これが贋作だと……」
昭吾の目が殺気を帯びてきた。彼は持っていた茶碗を大きく振り上げた。
いち早く危険を察知し、彼の背後に近づいていたスタッフが、それを後ろから止めた。
「割らせてくれ。割ってみないことには、到底信用できん」
喚きながら暴れる昭吾を、大勢のスタッフが取り押さえた。
テレビ局が用意した車で、神楽は昭吾と共に自宅に帰った。車中、昭吾は一言も発しなかった。眉間に皺を刻んだまま、じっと瞼を閉じているだけだった。そんな父に神楽も声をかけられなかった。
神楽父子の家は西多摩にあった。昭和初期に建てられたという日本家屋を買い取り、改装したものだった。
家に帰るなり、昭吾は仕事場に向かった。神楽はついていかなかった。ついてくるな、と父の背中が語っていたからだ。
間もなく仕事場から、叫びに似た怒声が聞こえてきた。さらに、何かを叩き壊す音もした。昭吾が自分の作品を壊しているのだと神楽は悟った。
止めることなどできなかった。神楽は押入から布団を引っ張り出し、頭からかぶった。
どれほどの時間が経ったのかはわからない。気がつくと何も聞こえなくなっていた。神楽は布団から出て、仕事場に向かった。
薄暗い廊下を歩き、仕事場の前に立った。入り口は引き戸になっている。それを開けた。
床には陶器の破片が散乱していた。それらは戦場に散らばった死骸を連想させた。仕事場の中央にある作業台の上も同様だった。
そして――。
その作業台の上に、昭吾の姿があった。神楽は一瞬、立っているのかと思った。だがそうではなかった。父親の足は作業台から浮いていた。
何かの物音で、神楽は顔を上げた。外が何だか騒がしい。急患でも運び込まれたのかもしれない。無論、不思議なことではない。ここは病院なのだ。
彼は頭を振った。頭痛は少し治まったようだ。
またしても嫌なことを思い出してしまったな、と自虐気味に笑った。リュウから意識を取り返す時には、いつもそうだ。あの廊下と引き戸の夢を見せられる。
ただし、あの夢の続きはない。それはおそらく、父親の首吊り死体を目撃した直後の記憶がないからだろう。次に気がついた時、彼は病院のベッドで寝かされていたのだ。後で聞いたところによると、彼は昭吾の仕事場で眠っていたそうだ。毛布で全身を包み、隅でうずくまっていたのだという。
神楽を発見したのは駆けつけた警官たちだ。揺すっても声をかけても目を覚まさないので、病院に連絡したということだった。
なぜ警官が駆けつけたのか。それは通報があったからだ。自宅で父親が首を吊って自殺した、というものだった。
この内容から、電話をかけたのは神楽ということになる。実際、通信指令室の記録でも、通報者は神楽龍平となっていた。
だが神楽には、その記憶はない。死体発見後の行動を警官から尋ねられた時も、何ひとつ答えられなかった。
記憶を失っていた間に彼がしたのは、じつは電話をかけたことだけではなかった。警官たちが仕事場に入った時、床は奇麗に掃除されていたのだ。神楽が目にした陶器の破片は、すべて片づけられていた。それもまた彼自身がやったとしか思えない。
あまりのショックで精神がパニックを起こしたのだろう、というのが医師の説明だった。その間のことが記憶に残っていないというのも、よくあることだといわれた。ただ神楽のケースが珍しいのは、その間におかしなことをしたわけではなく、極めて冷静に、的確な手順で行動していることだった。通報を受けた担当者も、小学生とは思えないほど理路整然と事実を伝えてきた、と感心していたらしい。
おそらくそれが、リュウが最初に出現した時なのだろう、と現在の神楽は考えている。しかしもちろんその時点では何もわからず、「気にするほどのことではない」という医師の言葉を鵜呑みにしていた。
何より当時の神楽は、父を亡くした悲しみが大きく、それ以外のことを考える余裕がなかった。昭吾の親戚のもとに預けられたが、殆ど誰とも口をきかず、学校にも行かず、部屋に閉じこもったままで何日間も過ごした。
最初は悲しみを抱える毎日だった。それを過ぎると、次には怒りを募らせる日々に変わった。自ら命を絶つほどに父親を傷つけた贋作者たちを呪った。何とか復讐できないものかと悶々とした。
それも過ぎてしまうと、今度は空虚な時間がやってきた。あの尊敬すべき父の作品が、たかが機械にコピーできてしまうという事実を受け入れた瞬間、それまでの価値観、世界観が、ぐるりと一変してしまったのだ。
一体、人間と機械の違いは何だろう――そんなことを考えるようになった。構成している物質が違うということ以外に、根本的な違いはあるだろうか。
心が存在することか。では心とは何なのだ。脳という物質が作りだした、行動をコントロールするプログラムに過ぎないのではないか。その証拠に脳が故障すれば、精神にも支障をきたす。うつ病が脳内物質の補充によって改善されることは、広く知られている。
神楽は自分の手を見つめた。何時間も何日間も見つめ続け、臓器や脳や血液のことを考えた。間もなく、その思索の対象は細胞になった。
やがて彼はゴールに辿り着いた。それが遺伝子だった。
施設に入れられた彼は、遺伝子の謎を解くため、勉学に励んだ。大学では遺伝子工学と生命工学を専攻した。人間と機械の違いは何か――そのことが常に頭にあった。
二十一歳の夏、神楽はついに一つの結論に達した。人間の心は遺伝子によって決まる、というものだった。これはすなわち、人間と機械は本質的には何も変わらない、という結論に至る前章でもあった。
奇妙なことが起き始めたのは、ちょうどその頃だ。何かの拍子に気を失うことが多くなった。ところが不思議なことに、周りの人々はそのことに気づいていないのだ。むしろ、その間の記憶をなくしていることを心配がられた。
どういう時に気を失うのか、神楽自身にもわからなかった。このままではいつか重大な事故を起こすのではないかと不安になった。
やがて、気を失った時に、ひとつの現象が起きていることに神楽は気づいた。周りのどこかに、必ず絵が残されているのだ。最初は悪戯描きのようなものだったが、次第に精巧な絵に変わっていった。
誰が描いたのかを教えてくれたのは、同じ研究室にいる女性だった。
「帰ろうと思って廊下を歩いていたら、まだ研究室の明かりがついていたんで、ちょっと覗いてみたんです。そうしたら神楽さんが机に向かってて、何か一生懸命にペンを動かしている音が聞こえてきたんです。最近じゃ手書きすることなんてめったにないから、何を書いてるんだろうと思って首を伸ばして見たら、鉛筆で絵を描いていらっしゃるじゃないですか。神楽さんにそんな趣味があるとは知らなかったから、かなり意外でしたよ。邪魔しちゃ悪いと思って、声をかけずに部屋を出たんですけど、前から絵を描くのが趣味だったんですか」
この話に神楽は驚愕した。彼女が目撃したという時間は、彼が気を失っていた時だったからだ。
神楽は、人格についての研究論文を読み、一人の人物に会いに行くことにした。それが水上洋次郎だった。水上は、多重人格研究の第一人者だった。
神楽を診察した水上は、真っ直ぐに彼の目を見つめてきた。
「君の判断は正しかった。君の中には、もう一人の人格が住んでいる。つまり君は二重人格者なんだ」
ノックの音で神楽は我に返った。誰かが激しく叩いている。
「神楽君、まだ起きてないか? リュウ、まだそこにいるのか」水上の声だ。
神楽は立ち上がり、ドアを開けた。水上の蒼白な顔が目の前にあった。
「どうしたんですか」
水上は、瞬きしてから口を動かした。
「大変なことが起きた」
「何ですか」
水上は気持ちを落ち着かせるように深呼吸をし、じっと神楽の目を見つめながらいった。
「彼等が……蓼科兄妹が……殺された」
プラチナデータの記事をもっと読む
プラチナデータ
国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。その開発者が殺害された。神楽龍平はシステムを使って犯人を突き止めようとするが、コンピュータが示したのは何と彼の名前だった。革命的システムの裏に隠された陰謀とは……。これまで紙でしか読めなかった、東野圭吾さんの作品。このたび本作『プラチナデータ』が、初めて電子書籍になりました! それを記念して、特別に「ためし読み」を7回にわたってお届けします。