『空手バカ一代』
1970年代に一世を風靡し、当時の少年たちの体と心を熱くさせた漫画作品です。
主人公は言わずと知れた大山倍達氏ですが、作品の後半部において、
その大山倍達氏と並ぶほどの人気を博した登場人物がいます。
それが、芦原英幸氏です。
”ケンカ十段”の異名を取った伝説の空手家として知られ、
尋常ならざる強さとエネルギーで空手界を席巻した風雲児。
語られる逸話は数知れず。残した偉業も数知れず。
現代に芦原氏が生きていたら事業家として名を成したのではないか。
そんな風にさえ思えるほどです。
この芦原英幸氏の晩年を直弟子として支えた原田寛さんが
「人間・芦原英幸の真実を伝えたい」との思いで
『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』を4月16日に上梓しました。
芦原英幸氏の直弟子として過ごす日々は一体どのようなものだったのでしょうか。
刊行を記念して、本書の「はじめに」を抜粋してお届けします。
* * *
平成三十一年四月二十四日。この原稿を本格的に書き始めた日である。
そしてこの日は、“ケンカ十段”の異名で知られた伝説の空手家・芦原英幸の命日。
芦原英幸に拾ってもらった昭和六十二年のあの日から、早くも三十二年の月日が流れた。時は移ろい、平成から令和へと元号も変わった。
不世出の空手家として数々の伝説を残した芦原英幸の人生は、まさに「壮絶」の一語に尽きた。
存在自体が超人的だった芦原英幸には、死など訪れないと思っていた。しかし、彼の身にも不変の真理は訪れた。他の人と何一つ変わらず、自然のあるがままに、その時は訪れてしまった。
「人間は、必ず死ぬ」
という当たり前のことを身をもって知った。
初めて松山に来て芦原会館を目にしたあの日、それから数年を経て芦原先生の死に遭遇するとは、夢にも思っていなかった。先生との出会いと最期の別れのシーンが脳裏から離れることはない。
芦原先生は、晩年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病を患い、強靭さを誇ったその肉体は徐々に衰えていった。最晩年は言葉を発することもままならず、私が自作した文字盤を使って必死に意思を伝えてくれた。
正に、命の炎を最期まで燃やしきっていくような日々の中、文字盤に綴った一文字一文字。
「生きていたい」
「まだ、死ぬわけにはいかない」
「死にたい」
日によって精神状態が変わるため、生きることを望む日もあれば、死ぬことを願う日もあった。それらを受け止める度に、日常の会話の重要さと、言葉の重みを知った。
振り返ることでしか人生の確認は出来ない。芦原先生に出会った頃の私は、まさかその最期を看取ることになるとは思ってもいなかった。芦原英幸という空手家の激動の人生の晩年に、私自身が引き込まれ、その体験の全てが人生の生きる糧になるとは……。
月日は積み重なり、私自身も、芦原先生が天国に旅立ったのと同じ五十歳という年齢を迎えた。在りし日の芦原先生に対して共感のような感情を覚えることも多くなったと書くのはおこがましいだろうか。
芦原先生の死後、様々なことがあった。自分なりに、目の前の試練を乗り越え、今までの人生を必死に生き抜いてきたつもりでもある。
そしてようやく、芦原英幸の最も近くで仕えたあの頃の体験を冷静に振り返ることが出来るようになった。
「死」という自然の真理は、当たり前だが私自身にも降り注いでくる。次世代の人間も無事に育ってきている中、直弟子として身近に接することでしか知り得なかった芦原英幸の真の姿を整理しておこうと思うに至った。
空手家・芦原英幸。
私の人生において、二人といない唯一無二の偉大なる師匠である。
今から四十年程前の、スポ根漫画ブームの時代。「少年マガジン」誌に連載された梶原一騎原作の人気漫画『空手バカ一代』において、大山倍達に次ぐヒーローとして一世を風靡したのが芦原英幸だった。
しかも彼は、漫画だけの存在ではなかった。実在する人物として、当時の少年達の多くが憧れたスーパーヒーローだったのだ。
当時、「空手バカ一代」に描かれることでその名を知られるようになった芦原英幸は、日本列島に極真空手ブームを巻き起こした中心人物としても注目されることとなる。その強さと行動力は尋常なものではなく、一挙手一投足が注目された。また、空手家としては異例とも言えるほど柔軟な発想力を有した人物でもあった。だが、そういう強烈な個性を持った人間の宿命とも言えるのだろうか、一つの団体の器の中には収まりきれない存在となり、長年在籍していた極真会館を永久除名処分となった。
その後、芦原英幸は自身の空手団体「芦原会館」を設立し、独立独歩の道を歩むこととなる。
独立後も精力的に活動を続け、独自の空手技術「サバキ」を体系化(サバキとは、相手の攻撃を受け流し、円運動からサイドステップを用いてカウンターで攻める技術である)。持ち前の行動力で、組織を国際的なものへと発展させていった。空手の技術書や教習用ビデオも次々と世に送り出し、「空手界の天才」と評される大反響をもたらした。
そこにはまぎれもなく、師匠・大山倍達に対する挑戦という側面があった。
大山倍達率いる極真会館への反骨心が、芦原英幸のエネルギー源となっていたのは間違いないように思う。大山倍達も芦原英幸の挑戦を真正面から受け止めた。両雄並び立たずという言葉があるが、それはあの二人にも当てはまるのだろうか。師弟でありながら、強烈なライバルでもあった二人は、高次元での切磋琢磨を繰り広げていたように思える。空手家としての強さが突出していた二人は、その指導力も抜きん出ていた。後の空手界や格闘技界において、世界的に影響を与える多くの弟子を輩出したのだ。
そんな人物であっただけに、芦原先生は、常に強烈なオーラをまとっていた。彼を取り巻く空気が緩んだものになることはなかった。接しているだけである種の修行になるような緊張感があったのだ。
早口で頭の回転が速く、並みの人間の何歩も先を行き、どれだけ努力しても差が広がる一方と感じざるを得ないほどの存在感。天才的な発想力と鬼神のような行動力で、空手界における別次元の革命児でもあった。
常に人の輪の中心にいる芦原先生は、太陽のように眩い光を放ち、人を強烈に惹きつける魅力があった。
しかし……。
その裏には別の顔があった。誰一人として絶対に信用しない猜疑心の塊のような側面も持ち合わせていたのだ。しかもその猜疑心は、家族に対しても向けられた。
芦原英幸には、強烈な光と闇が存在した。
対人関係においても、白か黒かしかなく、決してグレーが存在しない。
その性格ゆえ、離れていく人間も多かった。しかも、芦原英幸との距離感が近ければ近い人ほど、去って行かざるを得なくなってしまったというのもまぎれもない事実だった。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」
芦原先生のことを思い出そうとすると、このつぶやきを発する先生の姿が真っ先に脳裏に浮かぶ。
芦原先生を松山空港に送り迎えする車中、左手に持つタバコを車の助手席の窓から突き出すお決まりのポーズで、流れゆく景色の先を見つめながら、よくこうつぶやいていたのだ。
そして、これまたお決まりなのだが、
「おい原田、俺を歴史上の人物に例えたら誰だろう?」
と私に聞いてくるのだった。
ハンドルを握りながら首をかしげ、「押忍……?」と言葉を濁すのが精一杯だったが、心の中ではいつも、「織田信長って言ってほしいに決まってる!」と思っていた。
本人も茶目っ気たっぷりにニコッと笑ってこちらを向き、
「織田信長かな?」
などと言っていたが、
「でも信長は五十歳で亡くなっただろ? 早過ぎだよな。梶原(一騎)先生も五十歳で亡くなったし……。やっぱり俺は、真田かな~? 原田、どう思う?」
と、答えようのない問いを投げかけてくるのであった。
本人も織田信長のようでありたいと思っていた節はあるが、五十歳で亡くなったことが気に入らないらしい。生前、よくそう語っていた。自身を世に送り出してくれた漫画原作者の梶原一騎先生が五十歳という若さで亡くなったことも、その考えに影響を及ぼしていたのかもしれない。
そんな風に語っていた芦原先生が、織田信長や梶原一騎先生と同様、五十年でその生涯に幕を下ろしてしまったのは運命のいたずらなのだろうか。芦原先生の生涯を思うと、まるで駆け抜けるようにして現世で暴れまわったかのような印象を受ける。
空手界に革命を起こし続けた芦原先生だが、晩年に挑んだ大革命を成し遂げるまであと一歩のところで跳ね返され、どん底に叩き落とされた。
その大革命に挑んでいる最中、当時は有効な治療法がないとされていたALSという難病を発病。誰にも避けることが出来ない肉体の滅びが刻一刻と迫ってくるなか、時に生に執着し、時に運命を受け入れたかのような諦めの境地に陥った。もがきにもがいた最後の三年間であったように思う。
人生は、一度きりであるし、リセットもきかない。変化していく世の中の動きを正確に予測することなど出来るはずがない。だから、不測の事態への準備はしておくべきだと思うが、それでも「まさか」と思わざるを得ないことが起きるのが人間社会である。芦原先生が五十歳の若さで亡くなるなんて、誰も思っていなかった。
私は、芦原英幸の最晩年の八年間を一番近くで仕え、その壮絶な最期を看取った最後の弟子である。
仕え始めたのは、高校卒業したての十八歳のときだった。
初任給三万円のアルバイト職員。私の人生はそこからスタートした。
初めての仕事が、芦原英幸のカバン持ち兼運転手。
右も左もわからない、世間知らずの小僧だった。そんな小僧を芦原先生は拾ってくださった。
いわゆる「拾われし者」である。
そういう人生が幸せなのか、それとも不幸なのか?
それはわからない。だが、拾ってもらったご恩は生涯忘れない。
何の因果か、多くの弟子が芦原先生の元を去っていくなか、辞め時を失い、最も側で仕える者として最後の一人になってしまった。
私が天から授かった使命とは何だったのか?
芦原先生の死に際しては葬儀委員長を拝名し、遺言通りの葬儀を取り仕切った。また、芦原先生の長男である英典君を二代目館長に就任させるべく奔走した。
芦原先生の側近であったがゆえに、望むと望まざるとにかかわらず組織のキーパーソンのような役割を演じざるをえなかった。
必然、力を持ちすぎた要注意人物としても扱われるようになり、最終的に芦原家にとって目の上の瘤的な存在となってしまった。そして、三十歳のときに芦原会館を退職したのである。
振り返ると、それが運命だったと思わざるを得ない。意志の力で乗り越えた壁もあるにはあるが、意志とは無関係に背負わされた役目も多々あった。歴史の転換期の波に飲まれ、組織の事業承継という難問に向き合わざるを得なくなってしまった。組織において、継承は一大事である。関係各位の思惑が錯綜する中、繋ぎ役あるいは調整役として自分なりに懸命にその役をこなした。そして、それが終わった暁には、私は組織から去っていく運命だったのだろう。もちろん、当時はそう冷静に思えるはずもなく、後に理解出来たことではあるが。
しかし、誰でも味わえるわけではないドラマの中で生き抜いていったおかげで、「何があったとしても最後まで、絶対に諦めない」という強い精神力を養うことが出来たのも事実である。
組織を離れた後、様々な分野の方々との貴重な出会いを経験した。苦しい局面もあったが、そういった際に自分を支えたのは、芦原先生の指導を受ける中で培われた精神力や忍耐力である。
芦原先生の伝説的な逸話は、多くの書籍の中で真実であるかのように書かれている。もちろん、そこには真実もあるが、事実と異なるものも数多く見られる。単純に、事実関係の確認を怠ったがゆえの脚色もあるだろう。だが、読者はそういった逸話を好み、受け入れた。超人的な「芦原英幸」のイメージは、そうやってどんどん膨らんでいったように思う。
長年、私はそこに違和感を抱いていた。
本書を世に出そうと思ったきっかけの一つは、脚色された芦原英幸のイメージを排し、「人間・芦原英幸」の真の姿を伝えたいとの思いが強まったことだった。人間離れした超人的な逸話ではなく、芦原英幸を側でずっと見てきた私だからこそ伝えうる真実を、できる限りこの両目で見てきたままに、そして両耳で聞きとってきた言葉通りに伝えたいと思ったからである。
「芦原会館」という組織の内側にいた頃は、芦原先生の発言に対しては、たとえ違うと思ったことでも「押忍!」と答えることしか出来なかった。反対意見を言うということは、破門されることを意味していた。
「そんな関係は間違っている」と言われれば返す言葉もない。理不尽と言われればそれまでだ。今の時代からすれば信じられないような世界だろうが、当時の私はそれが当たり前だと思っていた。もちろん、信頼する先輩がひどい目にあえば、「なぜだ!」と義憤に駆られることはあったが、それでも芦原先生に対して意見するなんてことは考えられなかった。
芦原英幸の下で修行した八年間は、今でも非常に厳しい思い出として心の中に宿っている。
芦原英幸の元を去っていくのは、組織内の貢献度が高い者が多かった。実力が大きければ大きいほど、それまでの高評価が一変し、誹謗中傷へと変わっていった。
あの頃は、その急変に戸惑うことしかできなかったが、その誹謗中傷こそが本物の証なのだと今にして思うこともある。芦原英幸が認めたからこそ贈られた「勲章」なのかもしれない。
前述した通り、芦原先生の葬儀において私は葬儀委員長を拝命した。芦原先生の遺言通りに、この「勲章」を受け取った直弟子の諸先輩方の門前払いを実行した。
あんな苦しいことはもう二度とやりたくない。
芦原会館を退職後、葬儀で門前払いをした直弟子の方々に、自分なりの誠意を尽くしてお詫びに行った。
「破門」された先輩達と率直に語らいながら、芦原先生から聞いていたこととは違う真実があることを初めて知った。芦原会館在籍時は「内側からの視点」しか持っていなかった私だが、退職したことで「外側からの視点」を獲得することができたのだ。葬儀において「門前払い」などという失礼極まりない対応をした私であるにもかからず、嫌な顔ひとつせずにお会いしてくださった先輩方。空手の実力もさることながら、人間的な器の大きな方たちばかりだった。
人生に別れはつきものである。その別れが円満にはいかないものであった場合、人は自分を正当化することがある。芦原先生とて、例外ではない。
そういうことに思いが至らず、芦原先生を絶対視した私は未熟だったのだ。思いが至ったとしても、何に対しても「押忍」としか答えられなかった私は、やはり未熟だったのだ。繰り返しになるが、当時の私は芦原英幸に対して忠誠を尽くすことだけしかできなかった。
月日は流れ、私も年を重ねた。芦原会館を退職して、長い年月が経った。今の私が、芦原英幸に対して全ての同意を意味する「押忍」だけしか返せないのだとしたら、何の成長もしていないことになる。それは、誰よりも芦原先生に対して申し訳ない。
私なりに見てきた芦原先生の姿を書こうと思う。芦原先生から浴びせられる誹謗中傷を「勲章」にして、とてつもないスケールで活躍している直弟子の先輩方の真実も語りたいとも思う。
今なお活躍の場を広げる芦原先生の直弟子達の足跡を知っていただければ幸いです。そして何より、人間としての芦原英幸の魅力と迫力を肌で感じて頂ければ幸いです。
※続きは『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』でお楽しみください