はあちゅう様
手紙だけのやりとりっていいな、って私も思っていたところです。直接お会いしたり顔を合わせることで増える情報量ももちろんいいのですが、私はしゃべるのが下手なので、じっくり考えて言葉を選べるほうが落ち着きます。はあちゅうさんもそうだっておっしゃってましたね。
さて、前回のはあちゅうさんのお手紙で、個人的ハイライトは《結婚はお互いがお互いを一番深く愛しているていのロールプレイング》という箇所で、この一週間くらい、歯を磨いたり、お皿を洗ったり、日常のふとした瞬間にこの言葉が思い出されて、思わず何度も考えてしまいました。
まず最初に心に浮かんだのは、拒絶、嫌悪。なぜそんなことをしなければならないのだろう、という疑問。けれど考えているうちに、そういえばこの世の中には「仮面夫婦」なんて言葉があるなあと思い出しました。男女問わず既婚の友人がよく「配偶者は子どもの親として必要なだけ。早く新しい恋愛がしたい」などと言いながら平気で(いや、そういう人ほど)いい家族アピールをSNSに投稿したりしています。
私は正直に生きたいという願望が強く二枚舌の関係を作るのが苦手なので、そんなふうに嘘をついてまで守りたい関係があるということがうらやましくもあります。そういえば、はあちゅうさんは江國香織さん、お好きでしたよね? 『スイートリトルライズ』という小説は、まさにそんな関係のよさを書いた名作でした。お互いに恋人がいて、家では会話もないけれど、それでも必要としあう夫婦の物語です。
「いい夫婦」もそうですが、「いい母」なんてものはもっと演じたい誘惑にかられるものかもしれません。もしくは演じなければならないという圧なのかもしれませんが。自著にも記したのですが、シングルファーザーのパートナーと付き合う中で、子どもたちとの関係づくりをし始めた頃にはやはり「うまくいっているように振る舞いたい」という思いに取り憑かれていました。
これはむしろ関係性の問題・家族の問題というよりは自意識の問題かもしれません。家族のことによらず、私にも自覚している虚栄心は多々あり、テスト勉強をしていないのにいい点数が取れちゃった、みたいな言動をしていたり、いっぱいいっぱいで溺れそうなのに余裕があるように振る舞っていたり、ひょうひょうと生きているように見えるようにがんばっていたり。そんな自分を発見することがよくあります。
ただ、私がはあちゅうさんとおそらく決定的に違うところは私はそのコントロール欲を自覚して自分の虚栄心を暴いてやることが好きで、そこから逃れてもっと自由な自分になることを求めているところです。もしくは自分の人生の重要人物と、マニュアルに捉われずにオリジナルの関係を作ることこそを善としています。
でもはあちゅうさんは私が切り離したい欲望をまるごと認めて、肯定して生きてる。はあちゅうさんの本や手紙を読んで、肯定して生きられる強さも、潔くていいなあと思いました。そしてはあちゅうさんと私の生き方は、右に全振りするか左に全振りするかの違いだけで、意外と近いのかもしれないですね。
私は自分のロールプレイングをぶっこわすことに命を燃やそうかな。
さて、前回の私の、はあちゅうさんに失礼かもしれないことを聞きたいときにはどうしたら? という質問へのお答え、ありがとうございました。「え? そんなこと?」という拍子抜けした感じもあり、でも、たしかにそうですね。気持ちの軸が自分にあるか、相手にあるか、という部分はすごくわかる気がします。
私が自分を制するためによく思い浮かべる例なのですが、「タトゥーを入れている人に、絶対に『タトゥーを入れるのって痛いんでしょう?』と聞かない」と決めています。まずその質問をされることに飽きているだろうし、しかも答えて楽しい質問じゃないですよね。そのタトゥーが素敵だなと思うのであればほめたり絵柄の意味を聞いたりすればいいし、ネガティブor無関心なら発言しなくていいんですよね。反射的に質問しそうなときって、ちょっと立ち止まって考えるべきですね。教えてくれてありがとうございます。これからははあちゅうさんのこの言葉も思い出します。
でも、はあちゅうさんがすべての矢を受け止めているのであれば、摩耗してしまいそうで心配です……。余計なお世話とは思いますが、悪意ある人や鈍感な人からの質問は受け流したりNOを言うこともまた相互理解へつながると思いますよ! 拒まないのがはあちゅうさんらしさなのかもしれないですけどね。
家庭の理想像のお話は、私もとても似た価値観なので共感しました。自分が育った家は高校生の頃は門限が19時で、10分でも遅れようものなら父母が「19時は家族全員で夕食をとる時間だから」という理由で罵声を浴びせてきました。当時の私はこの理不尽な仕打ちに毎度怒り狂っていましたが、憎むべきはずの「家族全員で夕食をとる」ルールを、自分がそういう家で育ったことを理由にいいことだと思っているふしがあるんですよね。パートナーの家庭ではパートナーの残業や帰宅時間によって子どもたちの夕食の時間が前後するのですが、このことを「かわいそうだ」と思っている自分を見つけたとき、「おい、正気か」と自分で自分を揺さぶりたくなりました。
だから理想を持つことはやっぱり私にとっては恐怖です。いや、正確には理想を持ってもいいけれど、叶わないならさっさと捨てるべき、でしょうか。でもそれを突き詰めているとべつに他人といっしょに生きなくてもいいという答えに辿り着いてしまうんですよね。
私の願いは、お互いの人生の旅で、いっしょにいられる期間だけいっしょに旅をするように生きることです。どちらかが「ではここで。私は別の道に行きます」と言ったら、笑顔でお別れできることです。
けれど、はあちゅうさんの「花田さんは、相手の人生に巻き込まれたいと思うことはゼロですか? たとえば、彼氏のトンちゃんのお子さんのミナトちゃん、マルちゃんとの交流は、トンちゃんの人生に巻き込まれていることには入りませんか?」という指摘はとても鋭く、耳の痛いものでした。私は彼らの人生に巻き込まれて参加できたことをとても嬉しく思っているし、彼らのことが大好きなんです。ただ、同時に「自分は好きで関与している」「いつでもここから出られる」という逃げ道を用意しておきたいのです。何があっても離れないというような覚悟がないことが、私が家族ということばに対して感じる後ろめたさの正体でもあると思います。自分の自由を担保するために、彼らの自由を担保しているところもあります。
とは言え、「巻き込みたくない」と言いながら彼らの生活を仔細に書いて出版してしまっているんで、ある種最高に巻き込んでいるとも言えますし、もう言ってることとやってることがめちゃくちゃですね。自分の中でもこの問題については揺れています。迷惑をかけあえるような親しい関係になれたらいいなと思うと同時に、彼ら(特に意識しているのは上の子、ミナトとの関係性ですね)が引いた境界線は踏み越えないようにするし、彼らが離れてほしいと思ったときには立ち去るつもりでいます。
ほんとうの家族だと、それでもやっていかないとならないですよね。その粘り気が家族の良さでもあり、息苦しさでもあるなと思います。
もっといろいろなお話がしたかったのに、気づけば私からはあちゅうさんに問いかけられるのはもうこの手紙が最後なんですね。
あらためて本を読み返して、おばあちゃんモードのこと、事実婚のこと、恋愛と結婚の違い、「お母さんの顔になったね」問題、……と、お話したいことはまだたくさんあったのですが、この『子供がずっと欲しかった』は、はあちゅうさんの結婚・妊娠・出産が一目でわかる記録であると同時に、それらが自身の問題として降りかかることではあちゅうさんのフェミニズムが始まった一冊のように私には思えました(もっと前から始まってます! って感じだったらごめんなさい)。
私もフェミニズムについてはまだまだ勉強中ですが、はあちゅうさんが直面したもやもやや戸惑い、フェミニズムが解決してくれたり勇気づけたりしてくれるのではないかなというのが、本を読んでの感想のひとつです。もっとこっちにおいでよ! こっちに来たらもっとラクになるよ! って言いたくなるような。こっち、っていうのはフェミニズム側のことです。
実際に臨月の頃にフェミニズム本を買いあさって読みまくった、と本文中にもありましたが、本を読んで、また実際に妊娠・出産を経て、はあちゅうさんにとってのフェミニズムとは今、どんなものですか? 特に心にマッチした本や印象に残った本はありましたか?
と、ついつい職業病、本の話ですみません。最後のお手紙、楽しみにしています!
花田菜々子
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はあちゅうさんからの最後のお返事は、5月13日公開予定です。