医学的・歴史的資料をもとに、人類がウィルスといかに闘い、打ち勝ってきたかを明らかにする『世界史を変えたパンデミック』(小長谷正明氏著、幻冬舎新書)が発売即重版となり、反響を呼んでいる。
今回は「都市封鎖の起源となった病――黒死病(ペスト)」を抜粋して紹介する。
新型コロナ対策で注目されたロックダウンも船の検疫も、黒死病をくい止めるために編み出されたものだった。
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歴史上繰り返されてきた北イタリアでの感染爆発
中世から近世にかけて、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの都市は、メソポタミア、エジプトなどの東方世界からヨーロッパへの入り口であり、交易の中心地として、異邦人やものめずらしい物産、金銀財宝が流れこんできた。
だが、到来物はそれだけではなく、しばしば疫病がやってきた。
そして2020年、突然にパンデミックとなった新型コロナウィルス感染症が世界中で報道されるようになり、ヨーロッパでは北イタリアが最初の感染爆発(アウトブレーク)の地となった。
検疫や都市封鎖という、平時にはおどろおどろしい響きをもつ事柄も、ヴェネツィアやミラノの歴史とはかかわりが深いのだ。
北イタリアにかぎらず、ヨーロッパのどこの地域でも、中世以降は何度もペストに襲われてきた。
なかんずく、14世紀中頃の大流行はヨーロッパの人口の30~40%、2500万~4000万人の命を奪ったといわれている。
このときのペスト大流行は黒死病と呼ばれた。
さらには、ペストはヨーロッパ土着の伝染病、つまり風土病化し、何百年かにわたって約2億人もが犠牲になったという。
疫病が流行り、大儲けした奴もいた
イタリアの詩人ジョバンニ・ボッカッチョが書いた『デカメロン』(十日物語)は、街に流行する黒死病をのがれて別荘に閉じこもった貴族たちが退屈しのぎに語りあった小噺集で、パニックに陥ったフィレンツェ市民の様子がつづられている。
それによると人だけではなく、豚などの動物にも感染がおよんでいる。
人々は病人の世話をしなくなり、妻も夫をかえりみず、父親や母親が子どもの世話をするどころか、そんな子どもははじめからいなかったかのように逃げていく。
使用人は法外な金で病人の面倒を見るのだが、彼らも病気にかかって死んでゆく。
人が死ぬと、以前のようにしめやかにお弔いするのではなく、集まって大笑いしてバカ騒ぎをする。
大きな穴に遺骸を荷物のように何層にもかさねて埋葬する。
何十回も何百回も神へのお祈りがおこなわれ、信心深い人は行列をつくって町中を練りまわったが、それもむなしかった。
ボッカッチョはさらに、街には屍体(したい)があふれ、人々は働かなくなり、貧乏人が増えた一方、これを機会に大儲けした奴もいると非難している。
風紀は乱れ、聖職者も酒や色ごとにおぼれ、デカダンな生活を送るようになったともいう。
病以上におそろしい“インフォデミック”
疫病による大量死がおこると、うわさや思いこみが飛びかうようになり、社会不安を引きおこす。
新型コロナウィルス禍では、世界保健機関(WHO)は、病気の世界的流行を意味するパンデミック(Pandemic)とともに、誤った情報が蔓延して社会に害をおよぼすインフォデミック(Infodemic : Information epidemic)を警告している。
人々は情報に踊らされてパニックになり、トイレットペーパーやマスクが品薄になるだけではなく、某国がしかけた生物兵器の陰謀だなどという話がインターネット空間に飛びかったりして、ときには政府の要人も踊らされている。民族や人種、宗教による差別や迫害にも発展しかねない。
黒死病の時も、インフォデミックは深刻な結果をもたらした。
疫病の原因となる毒を、ユダヤ人たちが井戸に投げこんだのだと、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)が襲撃され、ポグロム(ユダヤ人虐殺)が、南仏でも、ジュネーブでも、バルセロナでもと各地で頻発した。
フランスとドイツの境にあるストラスブールでは、2000人ものユダヤ人が焼き殺され、ポグロムはドイツ各地にも飛び火していったという。
黒死病対策で編み出された都市封鎖
しかし、当時の治療法で有効なものはほとんどなく、医学的にのこされた成果や教訓はわずかだった。
病因もわからなければ治療法も編み出されなかったが、ひとつ、確実に公衆衛生上の進歩があったのは、隔離や検疫の制度だ。
これらは今日でも有効であり、2020年の新型コロナウィルス禍でも、疾患封じこめの対策としてとられている。
黒死病の流行地は周囲から町ごと隔離されて封鎖され、周囲との往来が制限された。
ボッカッチョの『デカメロン』にも、市当局に特別に任命された役人が、病人の市中への立ちいりを禁止して、衛生管理の周知徹底のおふれがきを出したと書かれている。
また、患者の家も封印され、なかに人間の生存する気配がなくなると、焼き払われたりした。
北イタリアの主要都市ミラノは新型コロナウィルス禍でも、流行初期に急速に患者が増加したために、いち早く都市封鎖されたが、黒死病のときにも積極的に都市封鎖がなされた。
イタリアのほかの地域での流行を知って、ミラノは城門を内側から封鎖し、周囲との交流を絶ったのだ。その結果、黒死病をまぬがれた。
しかし、10年後にふたたびペストがイタリアで流行し、今度は子どもがおもな感染者だったが、ミラノでは大人にも大流行した。
ペスト菌への免疫がなかった人たちがかかったのだ。
船の検疫もヴェネツィアの黒死病対策が起源
今般空港やクルーズ船などで注目された検疫制度も、この時代のヴェネツィアが起源である。
かつて、この海上都市は貿易で栄えており、大きなガレー船などが小アジアやエジプト、黒海からひっきりなしにおとずれ、疫病もそれに乗ってやってきた。
1374年、ヴェネツィア共和国は感染した船を港から閉めだす権限をもつ臨検官を3名任命した。
アドリア海に面したヴェネツィアの植民都市ラグーザで、本国に入港する前の船を30日間係留し、伝染病が発生しないことを確認させた。その後、それでは期間が短いというので、40日間の係留となった。
ラグーザは、現在はクロアチアのドゥブロヴニクである。世界遺産で中世そのもののたたずまいのこの港湾都市に、そのようなエポックメイキングな歴史があったのだ。
40日はイタリア語でquaranta giorniなので、英語で検疫をquarantineという。
現在ではほぼ制圧された病に
さいわいペストの大流行はヨーロッパでは18世紀を最後になくなった。
19世紀末のアジアでの流行で、原因菌や流行のメカニズムが解明され、20世紀になって抗生物質が出てきて、ほぼ制圧されている。
比類なき大量死をもたらした黒死病が、はたして現在のペストと同じ病気だったのか、重い症状をもたらす別の感染症ではなかったのかという議論も、医史学の学者の間にはあった。
が、南フランスのモンペリエや、イギリスのロンドンなどの墓地で発掘された黒死病犠牲者の骨からは、ペスト菌と同じDNAが検出されている。
14世紀中頃にヨーロッパをおそった黒死病のパンデミックはおびただしい大量死をもたらし、激減したヨーロッパの人口が黒死病以前に回復したのは16世紀になってからである。
労働人口の減少は、ジャックリーの乱やワット・タイラーの乱などの農民の反乱を呼びおこした。
そして、領主や修道院などの荘園が衰退し、地方の領主を中心とする中世的な封建制から、国王を頂点とする中央集権制へと、社会構造が変わっていった。
全世界に強くネガティヴな影響をもたらしている新型コロナウィルス禍が過ぎ去ったあと、国際的にも、国内的にも、世の中はどういう様相に変わっているのだろうか。
・ジョン・ケリー著、野中邦子訳『黒死病─ペストの中世史』中央公論新社、2008年
・宮崎揚弘著『ペストの歴史』山川出版社、2015年
・Brossollet J, Mollaret H: Pourquoi la peste? Gallimard, 1994
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