医学的・歴史的資料をもとに、人類がウィルスといかに闘い、打ち勝ってきたかを明らかにする『世界史を変えたパンデミック』(小長谷正明氏著、幻冬舎新書)が発売即重版と反響を呼んでいる。
今回は「西部戦線異状あり──インフルエンザ」を抜粋して紹介する。
パンデミックの影響は第一次大戦の戦況ばかりか講和条約にもおよび、それは第二次世界大戦の伏線ともなっていく。
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疫病が「スペイン風邪」となった軍事的理由
いまから100年前におこったパンデミックは多くの兵士の命を飲みこみ、新たな大戦の伏線となった。
1918年5月、第一次世界大戦の中立国スペインには戦争の惨禍はおよんでいなかったものの、世界経済の破綻で国内はインフレにあえぎ、社会情勢は不安定であった。
首都マドリードでは、不景気をふっとばそうと盛りあがった守護聖人サン・イシドロ祭りの直後、発熱と消化器症状と全身倦怠を症状とする病人が次々とあらわれた。
5月22日にマドリードABC新聞がこの病気を記事にし、5月末にロンドンのロイター通信が“マドリードに変わった伝染病が発生した。軽い症状で、死亡例は報告されていない”と配信した。
これらが、第一次世界大戦の戦中から戦後にかけて世界的に大流行したインフルエンザの最初の報道であり、以後、スペイン風邪(Spanish fluまたはSpanish Lady)とよばれるようになった。
実はインフルエンザはかなり前から各国ではやっていて、すでに1916年~17年にかけて、イギリスからのヨーロッパ派遣軍ではときどき発生していた。
だが、戦争当事国では、とくに集団生活をする軍隊での流行は戦力に影響するため秘密事項とされていて、疫病の発生は報道されていなかった。
スペインは中立国で平和だったので、ここでの悪性のインフルエンザ流行が最初に報道されることになって、疫病の名前にされてしまったのだ。
スペインにとってはまことに迷惑なネーミングである。
アメリカからの援軍が伝染病を連れてきた
1918年の春、ドイツ軍は西部戦線で攻勢をかけた。
快進撃し、パリに100キロまでせまり、カイザーは逆転勝利を信じたほどだった。
しかし、米英仏の連合軍は反撃に出た。さらに、アメリカが大量のヨーロッパ派遣軍で連合軍への増援を開始した。
だが、その陰ではインフルエンザの流行がひろまっていた。
3月4日にはアメリカ合衆国カンザス州で、発熱した若い兵士が次々と病院に押しかけはじめ、結局48人が亡くなり、ほかのアメリカ国内の米軍基地でもインフルエンザによる病死者が出た。
3月下旬、ヨーロッパにむかって航海中の機甲連隊の兵士が次々と罹患し、アメリカ遠征軍は病人集団あるいは病みあがりの兵士部隊としてヨーロッパにたどりつくことになった。
4月にはフランスに駐留する各国軍にも飛び火し、この感染症はドイツによる陰謀だといううわさが流れた。
事実、兵士たちはドイツ軍による砲撃と毒ガス攻撃、それにインフルエンザの猛攻を同時に受けていたのだ。
両軍がスペイン風邪で壊滅状態に
8月頃からインフルエンザの性質が悪性化し、それまでは三日熱とよばれたくらいで、発熱が数日間つづくだけの比較的軽い症状で死亡率が低かったが、悪性化すると高熱が出て全身をこん棒でたたかれたように痛み、それに重症患者は肺炎におちいった。
肺から大量の血性の分泌物がふきだし、空気中にいながらおぼれるようにして窒息する人もすくなくなかった。
しかし、ドイツ軍にとどめを刺すべく、アメリカは毎月30万人のペースでヨーロッパ遠征軍を送りつづけた。
兵員輸送船に乗船させるまでに病人の選別はくりかえされたが、乗船への行進中にも発病する兵士が出てくる始末であった。
大西洋に出航してすぐに発症者や死亡者が続出したため、病室に収容できず、換気のわるい船室は吐いたものと血液で赤くなった痰にまみれて横たわったままの患者でいっぱいになった。
フランスの港に上陸しても、そこの病院もすでに患者であふれていた。
治療すべき医者も看護婦もみな倒れてしまっており、ろくな治療をうけられずに亡くなる患者がすくなくなかった。
敵軍の不幸は味方の幸いと、ドイツ上層部には情勢好転の期待感も出たが、すぐに悪性化した新手のスペイン風邪にたおれる兵士が数千人も出てきた。
ベルリンでは市民が病院に殺到しており、やがて食糧不足や経済問題などもあって厭戦気分がみなぎっていった。
ついに11月3日にキール軍港で水兵が反乱し、ドイツ革命が起こって皇帝はオランダに亡命した。
11月11日にパリ郊外コンピエーニュの森でドイツ軍と連合軍が休戦協定に調印し、やっと平和が戻ってきた。
いっぽう、人間世界の平和到来とは無関係にウィルスは拡散した。
日本も例外ではなかった。
大正7(1918)年の5月には、東京ですでに三日風邪としてインフルエンザがはやっていたが、秋には悪性化したスペイン風邪の猛威が本格的となり、そのころの日本の人口約5600万人中、2380万人がスペイン風邪にかかり、38万人が死亡したという。
ドイツの行く末を変えた、ウィルソン大統領の罹患
講和条件を討議するパリ講和会議では、ドイツに対して復讐的にきびしい態度をとる英仏と、国際連盟を提唱するなど理想主義的な考えのアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は激しく対立した。
1919年4月3日午後、ウィルソンは突然声がしわがれて呼吸困難となり、発熱し、激しい腹痛をともなう下痢をおこした。
あまりに突然の発症なので、居あわせた主治医は毒をもられたのではと疑ったという。
結局、体調不良の原因はスペイン風邪であり、数日して回復したが、彼は気力がうせてしまった。
会議の原理原則をつらぬく姿勢がなくなって、報復主義的な講和条約を唯々諾々(いいだくだく)とみとめ、ベルサイユ講和条約として調印した。
そのとき、「自分がもしドイツ人なら、絶対にこんな条約にサインしないだろう」とつぶやいていたという。
インフルエンザはしばしば、回復後に抑うつ状態をもたらす。
今日の解釈では、インフルエンザ・ウィルス感染によってインターフェロンなどのサイトカイン(免疫システムではたらく小さなタンパク質)類が産生され、それらの神経作用でうつになるとされている。
ともあれ、ウィルソン大統領がスペイン風邪にかかった結果、ドイツは厳しい講和条件を飲みこまされて、条約を締結したが、国中にみなぎる復讐心がやがてナチス台頭の伏線となっていく。
2009年、スペイン風邪と同じウィルスが流行
2009年春、メキシコで、ブタから発生してヒトに感染したインフルエンザが報告され、そのウィルスはスペイン風邪とおなじH1N1であった。
90年前の悪夢の再来と世界中がおののいた。
このときのH1N1流行は、世界中では2億人以上がかかり、15万人以上が亡くなったと推定されている。
日本では約2000万人が患者として受診し、死亡者は200人で、世界平均の100分の1強の死亡率だ。
いずれにせよ、スペイン風邪の死亡者よりはるかにすくない。
概して平和な時代であり、人々の栄養状態も改善し、医学・医療も進歩していて、ワクチンや治療薬、合併症対策などの積極的な対策手段もあり、それらが功を奏したのだ。
もっとも、製薬会社が意図的に危機感をあおったという説もあるが……。
第一次世界大戦では約900万人の兵士と1000万人の非戦闘員が亡くなったが、スペイン風邪は全世界で5億人が感染し、死者は5000万人~1億人といわれ、戦争以上にすさまじい破壊力を示した。
・アルフレッド・W・クロスビー著、西村秀一訳『史上最悪のインフルエンザ』みすず書房、2004年
・Trilla A, et al.: The 1918 “Spanish flu” in Spain. Clin Infect Dis 47: 668-673, 2008
・Kobasa D, et al.: Aberrant innate immune response in lethal infection of macaques with the 1918 influenza virus. Nature 445: 319-323, 2007
世界史を変えたパンデミック
2020年5月28日発売の『世界史を変えたパンデミック』の最新情報をお知らせします。