医学的・歴史的資料をもとに、人類がウィルスといかに闘い、打ち勝ってきたかを明らかにする『世界史を変えたパンデミック』(小長谷正明氏著、幻冬舎新書)が発売即重版と反響を呼んでいる。
今回は〈ペスト制圧と香港の「青山公路」〉を抜粋して紹介する。
新型コロナウィルスのパンデミックは、ペストのパンデミックと比較して語られることが多い。そのペストが制圧できたのには日本人が大きくかかわっている。
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2020年、世界はカミュ『ペスト』さながらの事態に
筆者が若いころは、難解な実存主義文学が進歩的な若者にトレンドであったが、アルベール・カミュの『ペスト』だけは最後まで読み通すことができた。
1940年代アルジェリアの港町オラン。
まずはネズミが次々と死にはじめ、ヒトが高熱で発症し、わきの下や股のつけ根のリンパ節がかたく大きく腫れて、皮ふに斑点ができて、たちまち亡くなってしまう病気がおそってきた。
治療法がなくて致死率の高いペストである。
オランは外部との往来が遮断され、閉鎖都市となってしまった。
2019年暮れに突然出現した新型コロナウィルス(COVID-19)による感染症の流行で、翌2020年1月には中国政府によって武漢市は都市封鎖を宣言され、周囲と隔絶されてしまった。
3月には、ミラノなどイタリアの都市も封鎖されはじめ、そして世界中の都市で封鎖が相次いだ。
それらの街のなかでも、カミュの小説のような人間模様が起こっていたのだろうか?
ペストは19世紀末に本体がわかり、やっと制圧できるようになった。
その陰には、日清戦争直前の時期に、香港に流行したペストと闘い、その病気に感染して死線をさまよった日本人医師がいた。
明治日本へのペスト襲来を阻止せよ
明治27(1894)年5月12日、イギリス統治下の香港の日本領事は睦奥宗光外務大臣あてに、伝染病の報告と香港からの船にたいする検疫を具申している。
その時期、日本と清国は一触即発の状態にあり、加えてペスト上陸のおそれに、政府はがぜん緊張感を高めた。
伝染病研究所所長北里柴三郎と帝国大学医科大学内科学教授の青山胤通(たねみち)を責任者とし、調査団を派遣することになった。
北里は41歳。青山は35歳。2人とも明治日本医学界のエースである。
6月12日、調査団は香港に到着した。
19世紀なかばごろより、中国南部の雲南省で数年おきにペストが発生するようになった。
先にネズミがたおれ、そのあとで人がたおれるので、中国では“鼠疫”とよばれ、風土病化しつつあった。
香港では4月下旬にペストが発生したと思われ、貧民街で患者が続出していた。
青山らは医療活動をしはじめたが、患者とのあいだで言葉が通じない。通訳も逃げうせていたのだ。
粗末な解剖室での病原菌さがし
次は病気の状態と原因の追究である。
だが日清戦争直前の微妙な時期だ、日本人医師団による解剖は、一歩あやまれば不測の事態をおこしかねない。
そこで、目立たぬように病院わきのせまい小屋を解剖室とし、粗末なテーブルと板のうえで、運びいれた遺体を青山が執刀した。
取りだしたリンパ節や脾臓などから北里が顕微鏡で細菌をさがし、培養していった。
最初の検体からは、細い棒状の細菌、桿菌(かんきん)と、もう一種類の細菌がみとめられた。
次の新しい検体からは、どの組織や血液からもその桿菌が多数検出され、それを培養した。
実験動物にナンキンネズミ(マウス)をえらび、細菌や臓器の抽出液を接種すると、マウスが発症して死んだ。
そのネズミの病理所見は人のペスト患者とおなじである。
6月19日、北里は内務省に「今回黒死病の病原を発見せり」と電報をうった。
これはただちに宮内省にも伝えられ、明治天皇に報告された。
報道されると、「百発百死の流行病を危うしとせざるは医師の鑑なり」と2人の、とりわけ北里の功績がたたえられ、朝野に賞賛の言葉があふれた。
7月7日、北里は研究結果をまとめたドイツ語の論文を書き、古巣であるベルリンのコッホ研究所に送り、イギリスの医学雑誌「ランセット」8月25日号に掲載された。
北里とエルサン、ペスト菌発見者はどちら?
一方、日本の調査団とは別に、フランスのパスツール研究所の研究員が、おなじ香港で病原菌追究にあたっていた。
スイス人のアレクサンドル・エルサンである。
彼は、ベトナムのサイゴン(現ホー・チ・ミン)に滞在中で、パスツール研究所は電報で、近くにいる彼に香港での調査研究を依頼したのだ。
6月中旬に香港に到着し、6月20日頃にペスト菌を発見し、すぐに論文をパリに送り、パスツール研究所紀要9月号に掲載された。
北里とエルサンはほぼ同時期に別々にペスト菌を突きとめたことになるのだが、北里のほうが発見も論文も若干早かった。
が、現在、ペスト菌の学名はYersinia pestisとなっており、北里ではなくエルサンの名前がついている。
白人至上主義のにおいがただようが、北里は現地でのペスト菌の検査に、スタンダードな検査法であるグラム染色をせず、エルサンはおこなっていた。
細菌分類をするときの基本的な手技であり、北里は渡航時に染色液を携帯していなかったともいわれる。
細菌の培養温度にも差があり、低い温度で培養したエルサンのほうが、ペスト菌検索には有利であった。
現在では、ペスト菌は低い温度で繁殖する好冷菌とされている。
また、功をあせりすぎたのか、北里の説明には細菌の性質についてもあやふやな点があったともいう。
しかし、昭和51(1976)年になって、第三者であるアメリカの研究所が北里の研究成果を詳細に検討した結果、まちがいなくこの時点で彼がペスト菌を発見していたことが最終的に確認された。
帰国直前、青山が発病
6月26日、青山は2人の助手とともに解剖をおこなったが、臓器の荒廃がひどかったという。
現在のように医療用手袋などはなく、素手に消毒液をつけ、皮ふに皮膜をつくるコロジオンのパウダーをまぶして解剖をおこなっていた。
6月28日、調査団は香港での調査をほぼ終え、慰労の宴をもよおした。
しかし開宴前から青山は左の腋下の痛みと腫れに気づいていた。
そして深夜、40度の高熱が出た。助手をつとめた医師も発症した。
青山の腋下のリンパ腺は鶏卵大に腫れあがって激痛をもたらし、切開して排膿している。
体はいちじるしくやせて消耗し、高熱で意識状態も悪く、幻覚や妄想などの精神症状も出てきていた。
7月1日、青山たちが黒死病を発病し重態であることが日本に打電され、香港の陸上では立派な棺が、青山たちのために用意された。
7月3日、明治政府は勲四等旭日小綬章を青山に叙勲した。
7月7日「青山、昨夜より心臓の動きはなはだ悪し」と香港よりの追加打電があり、いよいよ絶望視された。
このころ、東京の新聞社の前には、本日の青山教授の脈いくつ、熱何度と速報が貼りだされていたという。
7月20日、北里柴三郎は、虫の息で病床に伏している青山たちを置いて香港を出港した。
北里もペストでたおれることをおそれた福沢諭吉が政府に早期帰国をはたらきかけたという。
7月25日、日清戦争が勃発した。
香港からの感謝がこもる「青山公路」
このときの香港でのペスト禍では、罹患者数は2679人で、そのうち2552人が亡くなり、致死率は95%である。
が、これは確認された数であり、実際の患者や死者はもっと多かった可能性がある。
さいわい青山ら2人は5%の方に属し、発熱や精神症状がしばらくつづいたが、ペストから生還した。
8月31日、やっと青山は東京に帰還した。日清戦争中でもあり、あたかも凱旋将軍をむかえるような歓迎ぶりであったという。
しかし、この後、ともに香港でペストの研究をしたはずの北里と青山は対立しながら日本の医学会をリードしていくことになった。
伏線には、北里が、ペストで死線をさまよっている青山を香港にのこして先に帰国し、ペスト菌発見の栄誉を独りじめにしたことがあったのかもしれない。
が、香港は青山のおこないを高く評価した。
日本からやってきて黒死病防疫のために文字どおり命をかけて奮闘したことへの感謝の気持ちをこめて、道路に青山公路と名づけた。
・青山胤通著『香港に於ける「ペスト」調査の略報』明治講医会、1894年
・梅澤彦太郎著『近代名医一夕話』日本医事新報社、1937年
世界史を変えたパンデミック
2020年5月28日発売の『世界史を変えたパンデミック』の最新情報をお知らせします。