今回取り上げる古典:『私の幸福論』(福田恆存)
「親の反対する道が成功へとつながる」というアドバイス
朝、テレビの情報番組に出演していたときのこと。高校の卒業式と中継がつながった。コーナーの主旨としては、卒業生にMCやコメンテーター陣が門出を祝うものだった。ドラマは知らないが、たいていアドリブで番組は進行する。流れでコメンテーターからも、卒業生にアドバイスを、ということになった。
私は「もし人生で迷ったら、親が反対する方を選べば、たいてい成功」と答えた。みんなは苦笑していた。親が聞いているなかで、それを言うか、と突っ込まれた。けれど、私はそう確信している。
もっともそれは成功の定義によるかもしれない。ただ、これは「やらずに後悔するよりも、やって後悔したほうがいい」といった使い古された人生訓ではない。また、「両親は古い時代に生きているから、将来のことなんてわかりっこない」という理由だけでもない。
迷うとは、究極的にどっちを選んでもいいことだから、私は、できるだけ自分から言い訳を排除したほうが自由に近づくと思っている。そして、その先にどのような失敗が待ち構えていようとも、自分の選択と宿命をすべて肯定することからしか、いわゆるかっこいい大人にはなれないのではないだろうか。
諦めをともなう現実的な幸福論
大学生のころに手にとった福田恆存『私の幸福論』は刺激的だった。そのときまで私は福田恆存について、保守論壇のおじさん、というイメージしかもっていなかった。「一匹と九十九匹と」など有名な評論は読んだことがあったが、氏独自の文体ゆえに熱心な読者ではなかった。
しかし、『私の幸福論』はわかりやすく、痛快な本だった。たとえば、世の中の理想論者たちを念頭に、このように述べる。
<与えられた現実に眼をつぶって受け容れろというつもりはありませんが、それだからといって、ただ現実がまちがっているというようなことばかりいってもはじまらない。現実がどうであろうと、みなさんは、この世に生まれた以上、幸福にならねばならぬ責任があるのです>
<醜、貧、不具、その他いっさい、もって生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのび生きなさいと申しあげているのです>
世の中は変わらないかもしれない。いや、変わるかもしれない。社会や世間の意識を変えようとするのは尊い行為かもしれない。ただ、氏はあくまでも、現実は現実として、まずは受け入れて、ある種の諦観を伴う幸福論を展開していく。平易な言葉にもかかわらず、その身も蓋もない書き方に、当時の私はほとんど戦慄してしまうほどだった。
メディアなどに出る人たちは、つねに「なぜこの政治問題に発言しないのか」「社会問題に発言しないのか」と問われる。この意見を発しろ、という圧力にはつねに違和感を抱く。社会がどうなってもいいといっているわけではない。社会を変えるよりも、まずは自分の生活と幸福のほうが優先だ、というていどの趣味嗜好は認められていい。
私はほとんど政治的な発言をしないようにしている。イデオロギーについても語らない。努めているというよりも、そもそもその傾向がない。それは、どこか若い時代に読んだ、左翼とも違う、福田恆存の徹底的な個のリアルに支えられている。
私たちが自由であるためには制限が必要
本書『私の幸福論』は女性向けのエッセイとして描かれながら、男女ともに刮目(かつもく)する箇所が多い。たとえば私は、自ら子育てをしながら、自由について考えることが多い。世の中では「子どもの自由にやらせろ」「自由が一番だ」という声をよく聞く。何か、それに違和感がある。
<自由とは、責任のことであり、重荷であります。自由であるためには、私たちの精神はたえず緊張していなければなりません>
<ちょっとでも油断すれば、どんな不測の事態が起って、(中略)私たちの足をすくいにくるか知れたものではありません>
<自由とは、なにかをなしたい要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられています>
ここであえて誤読しながら、冒頭の話に戻る。私は両親が反対するほうを選べといったが、“あえて”自分で両親が反対することで、氏のいう自由の「重荷」「緊張」を自覚するからだ。私は「起業したいんですが、どう思いますか」と相談されると、「やめたほうがいいと思います」と答えるようにしている。もちろん、その程度の回答で起業をやめるなら上手くいかないだろうし、なによりも、それでもなお“あえて”起業するのならば自由の「重荷」「緊張」がいやがおうにもつきまとうからだ。
起業すると、一日じゅう寝ていても、映画を観ていても、止めてくれる人はいない。仕事が舞い降りることはない。そこにいたって「なにかをなしうる能力」があるかどうか直視せざるをえない。
話を『私の幸福論』に戻す。氏が面白いのは、上記に加えて障碍や制限というものに、肯定的な評価を与えている点だ。
<私たちが自由であるためには、それをしみじみ味わうためには、無際限の自由ではだめなので、それに限界を与え型をはめにくるなにものかが必要なのです。(中略)家庭とか、夫婦、親子、その他すべての人間関係の型がないならば、私たちは自分の存在もたしかめられないし、自由も享受できないでしょう>
不測の事態が起きても自由を謳歌したいなら
このところコロナ禍における自由業というものを考えている。フリーとは自由であると同時に、仕事がなかったら無休だし、さらにタダで使われる可能性がある。コロナ禍における仕事の激減で自由を手放し、会社員に戻りたいひともいるだろう。フリーは、数ヶ月の仕事がないだけでも預貯金が底をついてしまう。もちろん、私は公的な支援は必要だと思う。ただ、私はどうしても、公的援助だけが正解で、それがないと政府“だけ”が悪者であるといった論には汲みできないでいる。
自由を謳歌するのであれば、その分の責任をまっとうするために、自ら可能な限りのことを準備しておくべきではないか。その自由の謳歌が、たった数ヶ月でとまってしまう、たまゆらであって良いのだろうか。
これはかなり矛盾したメッセージになる。自由には、「重荷」「緊張」が伴う。自由に動くためには、その動く舞台を盤石にする覚悟がいる。ただし、もちろん、それだけの覚悟をもってしても万が一は起きうる。しかし、その人生をもまるごと肯定すること。
<はじめから宿命を負って生まれて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです>
幸福にこだわるより自分の生き方を見つけよ
本書は結婚や恋愛、そして家庭について卓見にあふれている。
しかし、その中でも、若い私にほんとうの勇気をくれたのは「快楽と幸福」章の、このような記述だ。
<私たちはなにか行動を起こすばあい、「将来」ということに、そして、「幸福」ということに、あまりにこだわりすぎるようです。一口でいえば、今日より明日は「よりよき生活」をということにばかり、心を用いすぎるのです。その結果、私たちは「よりよき生活」を失い、幸福に見はなされてしまったのではないでしょうか>
<将来、幸福になるかどうかはわからない、また「よりよき生活」が訪れるのかどうかはわからない、が、自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきたのだから、この道を探る――そういう生き方があるはずです。いわば自分の生活や行動に筋道をたてようとし、そのために過ちを犯しても、「不幸」になっても、それはやむをえぬということです>
そして、その選択こそが自分に自信を与える。不幸になってもいい、という幸福論。この逆説こそが、なぜか強く私を元気づけた。
いつか、自信をもち、かっこいい大人になった、元・卒業生たちにお会いしたい。
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