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最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間

2020.06.09 公開 ポスト

コロナに耐え重版決定!

伝説の空手家・芦原英幸にどうやって弟子入りしたのか?原田寛

コロナ禍による緊急事態宣言の真っ只中に発売した『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』。
全都道府県の書店が休業を余儀なくされる中での船出という試練に耐え、見事に重版がかかりました。
重版を記念して、本書の一部分を抜粋してお届けします。

伝説の空手家・芦原英幸さんへの憧れを膨らませた少年時代の原田寛さんが、18歳にして人生の決断をします。

*   *   *

空手家・芦原英幸。
その人は、私の憧れだった。
――この玄界灘を渡り、芦原先生の元で修行して強くなりたい。
それが私の願いだった。

私は、一九六九年二月十四日に福岡県北九州市で生を受けた。

緑豊かな皿倉山の青あらしの風、金山川周辺の長閑な田園風景。穏やかな景色が広がってはいたが、その一方で、風向きが変われば八幡製鉄所の煙突の煙の臭いが立ち込める。
 
川筋者が集う炭鉱で栄えたそんな町で、私はやんちゃ盛りに育った。
 
当時、高度経済成長の波に乗り、製鉄で栄える鉄の町は人、人、人の活況に湧き、エネルギーに満ち溢れていた。
 
年に一度の秋の風物詩、八幡製鉄所の起業を祝う「起業祭」。秋の夜長の風情が今も忘れられない。
 
郷里を離れ早三十二年、その全てを愛おしく感ずる。

私が北九州で過ごしていた当時、時代はスポ根漫画、劇画ブームだった。
 
子ども達は、大好きな週刊マンガを食い入るように読みふけり、その劇画の物語の中へと自身を深く浸透させていった。
 
数ある漫画の中でも、特に人気があったのは、「少年マガジン」に連載された梶原一騎先生原作の「空手バカ一代」だった。
 
当時、私は八幡西区鉄竜町の製鉄社宅に住んでいたが、そこから歩いてすぐの相生町に秋田書店という本屋があった。近所の子ども達はみんなそこに集まり、顔をくっつけ合うようにして「空手バカ一代」を読みふけっていた。買うお金がないので立ち読みではあったが、特に叱られることもなかった。
 
その漫画を通じて、私は「芦原英幸」の存在を知ることになる。
――こんな人が実在するのか!
とシンプルに驚いた。私だけではなく、「芦原英幸」は多くの子どもに鮮烈な印象を与えた。

「かっこいいなー! 本当に四国の八幡浜という町に、この人がいるんだ? いつか、自分も空手の修行しに行ってみたいな」
 
友達同士でそんなことを語り合った少年時代が懐かしい。小学校低学年だった子どもの純粋な願いが、いつの日か将来の夢となった。希望に満ち溢れていた。

それから時は経過して、一九八四年。私は十五歳になっていた。
 
高校は地元の新設校、福岡県立北筑高校へ進学した。先に空手道場に通っていた一つ上の親戚の導きもあり、かねてからの夢であった空手道場へと入門した。
 
その空手道場というのが、芦原会館北九州支部だった。これは全くの偶然なのだが、私は少年の頃に憧れた芦原英幸が率いる団体で空手を学ぶことになったのである。
 
今のようにインターネットで情報収拾ができる時代ではない。ましてや当時十五歳の少年だった私は、空手界を取り巻く情勢の予備知識もなかった。ゆえに知らなかったのだが、芦原英幸が極真会館から独立して設立したのが芦原会館だった。
 
裏事情はよく知らない当時の私だったが、時代の最先端をいく空手技術を身につけられる道場だと聞き、胸を躍らせながら稽古に明け暮れた。
 
稽古は、毎週月・水・金。学校が終わるや否やすぐに自転車に乗り、約一時間かかる道場までの道程を、雨の日も雪の日も、苦もなく通い詰めた。
 
勉強そっちのけで、空手の世界にどっぷりと浸かる日々。週三回の稽古が本当に楽しくて仕方がなかった。
 
そんなふうに空手にのめり込むようになってから一ヶ月くらい経った頃だったと思うのだが、審査会を受審するために博多に向かう親戚に同行したことがあった。

――審査会って何をやるんだろう?
――どんなに強い人がいるんだろう?

審査会場には昇級や昇段を目指す者たちが二百人はいただろうか。それぞれが、基本・型・コンビネーション・組手を行ない、黒帯メンバーがそれを見守っている。審査する側もされる側も真剣そのもの。白帯の者でも、他流派から来た荒くれ者なども紛れ込んでおり、目の前の黒帯を倒して自分も早く上に昇りたいと息巻いている。黒帯側もプライドがあるので負けるわけにはいかない。そんな張り詰めた雰囲気を感じながら興味津々で審査会場に入った私だったが、その瞬間、正面に座っている背広姿の人物に圧倒された。緊張感漂う会場内でも一際異彩を放つその鋭い眼光は人間のものと思えなかった。
 
その人物こそ、芦原英幸先生だった。
 
ただでさえ緊張感溢れる審査会場ではあるのだが、芦原先生が醸し出す空気は別格だった。立ったまま審査会を見学しているだけなのに、

――あの人がこの会場で一番強い。
 
と感じ取っていた。それくらい、強烈なオーラだったのである。

休憩時。
その芦原先生が私の横を歩いていった。近くで見ると、その存在感はさらに際立っていた。スーツにショートブーツを履いて闊歩するその姿は、これまで見たこともない圧倒的なエナジーとオーラを放っていて、眩く見えた。

――すごい……。これがあの芦原英幸かー!
 
まるで芸能人を見るような思いで興奮していた私。すると、芦原先生がいきなり私のお腹に寸止めのパンチを放ったのだ。

「おっと! 強いな! ボク!」
 
とジョークを入れながら場をなごます芦原先生。「押忍」と返すこともできずにドキマギとする私に笑顔を向けて、芦原先生はその場を後にした。
 
芦原先生にとっては日常的な出来事かもしれないが、私にとっては一生忘れることのできない思い出である。

それから一年間、休むことなく稽古に打ち込んだ。そして、高校二年生になり、今度は親戚の同行ではなく、私自身が審査会場に立つために博多に行く日が来た。
 
基本稽古の審査のとき、中段突きを放った自分を見て芦原先生が、

「おい! みんな見てみろ、この子の突きを! 稽古しまくっているのが一目でわかるよ。この子は凄くなるな。飛び級だよ」
 
とおっしゃってくれた。その一言とともに審査が終わった。
そして続けざまに、

「君、高校卒業したら本部の松山に来たらいいよ。芦原の元で、みっちりやったらもっと凄くなれるけん」
 
と言葉をかけてくださった。
 
あの芦原英幸にそんなことを言ってもらって嬉しくないはずがない。必死に稽古を続けた甲斐があった。その言葉だけでも明日からさらに頑張る活力になる。大人だったら「リップサービスだろうな」と思うかもしれないが、当時の私にはそんなことはわかるはずもない。飛び上がりたくなるような心持ちだった。

だが、本当に驚いたのは審査結果を見たときだった。
五級から三級の緑帯に飛び級をしていたのだ。
顔が紅潮するほど興奮した。
 
審査会が終わり、博多から北九州に帰る電車の座席でぼんやりと車窓の景色を眺めながら思った。

――俺、芦原先生が言ってくれた通り、高校卒業したら四国の松山に行こうかな? 芦原先生の元で本気で稽古に打ち込んでみたいな……。
 
今振り返ってみれば、あの電車のなかでの物思いこそ、「人生の進路」というものを具体的に意識した最初の瞬間だったのかもしれない。

それからさらに一年が経過し、念願の黒帯を取得した。それまで以上の熱意で稽古に明け暮れる毎日。私の心の中で本部行きへの思いは強くなる一方だった。
 
そして私は決断した。

――高校卒業後、進学はしない。芦原先生がいる松山総本部で空手の修行をする。
生半可な気持ちではなかった。
 
そんなある日、芦原会館北九州支部の岡崎秀之支部長の結婚式に出席するため、芦原先生が北九州市に来られることとなった。
 
幸運なことに、福岡空港まで芦原先生をお迎えに行く一員に私も加えてもらったのだ。
 
空港に降り立った芦原先生は到着するや否や、

「また福岡に来ちゃったな、ばってん」
とジョークをかましながら、
「芦原の九州弁は、おかしいかな? ばってん」
と皆を笑わせ、和ませた。
 
昼食をとるために入った食堂では、
「やっぱり、福岡に来たからには、豚骨ラーメン食べなきゃな、芦原はラーメン!」
と大きな声で注文していた。私はチャンポンを頼んだ。
 
ラーメンとチャンポンが来た瞬間、芦原先生が割りばしで私の前に来たチャンポンの麺を掴み上げ、
「そっちのほうが、美味しそうだな? 芦原は、そっち食べていい?」
とおっしゃった。断ることができるはずもなく、瞬時に交換となったのは良い思い出である。芦原先生は、いるだけで周囲を明るくさせる天性の陽気さがある人だった。
 
しかも、恐ろしいほどの早食い。
ものの数十秒でチャンポンを食べ終えた芦原先生は、
「おいお前ら、フーフーして食べるんだぞ、芦原は、外でタバコ吸いよるけんな」
と言い残し、そそくさと店を後にした。
 
盛大な結婚式も終了し、式場内での二次会となった。
 
私は緊張していた。高校を卒業したら松山にある芦原会館本部で修行をしたいと岡崎支部長に告げていたからだ。自分の結婚式であるにもかかわらず、岡崎支部長はその日に芦原先生に話をすると約束してくれていた。いくら感謝してもしきれない人生の恩人である。
 
岡崎支部長はその約束をきちんと守ってくれた。芦原先生は感に耐えないと言った様子で、
「岡崎、お前も後輩思いで本当に凄い奴だな。自分の結婚式の日に後輩のことを気遣って。わかったよ。その子を受け入れるよ」
と言い、ギロっと私を一瞥した。

「本当に芦原の空手を学びたいのだったら、気を引き締めて来るんだよ。本物の芦原の空手を教えてあげるけんな」
 
自分の念願が叶った喜びと、「芦原の空手」という言葉の重みへの緊張が体を駆け巡り、私は「押忍」と答えるのが精一杯だった。
 
二年間だけの約束だったとはいえ、空手の修行のためだけに愛媛に行くことを許してくれた両親には頭が上がらない。何よりも、子どもの夢を優先させてくれた。我が子を持つ身になり、息子が当時の自分自身と同じ年齢になった今、本当に深く感謝している。

*   *   *

※後編は6月14日掲載を予定しています。

関連書籍

原田寛『最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間』

直弟子だから知っている 人間・芦原英幸の真実!   ・天才空手家・芦原英幸の光と影 ・師匠・大山倍達への愛憎渦巻く思い ・二宮城光師範との涙の別れ ・知られざる闘病生活の実態 ・芦原会館の跡目問題 ・葬儀の際の貫禄の立ち居振る舞い 石井和義 ・芦原英幸暗殺未遂事件の真相 ……など 「先生と過ごした命懸けの日々を知ってもらいたい」――著者

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最後の直弟子が語る 芦原英幸との八年間

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原田寛

1969年、福岡県北九州市生まれ。国際空手道連盟如水会館館長。”ケンカ十段”の異名で知られた伝説の空手家・芦原英幸の最後の直弟子として修行。独立後、日本をはじめ十ヶ国以上に道場を展開し、空手道を通じた青少年健全育成と国際交流事業に力を注ぐ。愛媛県松山市在住。

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