北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父、横田滋さんが、先日87歳で亡くなりました。生死もわからない娘の生存を信じ、行方を探し続けた滋さんと、妻・早紀江さん。2012年4月刊行の『めぐみへの遺言』は、その長きにわたる夫婦の闘いの日々をジャーナリストの石高健次さんが追った、涙なしでは読めない一冊です。追悼の意を込めて、本書の一部をご紹介いたします。
* * *
―――めぐみさんが突然消えてから20年目に私がご自宅を訪ねて、北朝鮮に拉致されそこで生きている可能性がありますと告げたのですが、それまでの空白の日々というのは……。
早紀江 私の方がもうおかしかったです。死にたいくらい悲しかった。だって昼間、誰もいなくなっちゃうでしょ。主人は銀行、めぐみの弟二人は学校へ行って、部屋に一人でいてもう気が狂いそうになる。なんでこんな辛い目に遭わなきゃならないのかと悩みました。
親ですからいろいろなことを考えて、何か私たちの教育が悪かったのか、もしかしてめぐみにはいろいろな悩みがあったのか、それはもういろいろな心の傷や苦労を想像しました。
誰かに連れていかれたとしたら、今頃どこかに埋められているのではないかという思いもありました。新潟は雪がたくさん積もるので、雪の山を眺めながら、春になったらあの山のどこかで埋められているかもしれないから、捜しに行かなくてはと。
海の向こうに赤いブイが浮かんでいるのを見つめながら、あれはめぐみがいなくなった時提げていた赤いスポーツバッグじゃないかとか、そのような思いで、じっと見つめて泣いていました。
砂浜など、何度も何度も走り回って何か落ちていないかと捜したけど見つからない。
女性の頭がい骨が日本海で見つかったから来てくれと警察に言われて自転車で向かうのですが、足が震えて走れない。めぐみが以前診てもらっていた広島の歯医者さんから歯の治療痕が記されたカルテを取り寄せていて、警察へ持っていく。そういうことばっかり、もう発狂しそうな感じで、毎日、泣いて、泣いて、泣き続けていました。
警察へ行って「どうなりましたか?」といつ訊いても「どんなにやっても何も分からないんです」「すみません、本当に申し訳なく思っています」という返事しかなくて。新潟のそれまで知らなかった所も、自転車であちこち行きました。ある日、小さな入江に出たんです。今思えばどの辺だったかな、駅の裏手の方向に走っていたのかな。浜辺に小さな船着き場があって。
滋 信濃川の河口だと思う。
早紀江 その入江に自転車を置いて、海を見ていたんです。小さな船がポツンと浮かんでいるくらいで、ボーッと見ていたら、おかしいなと思ったんでしょう、通りがかった女性が「どうかなさいました?」と訊くので、びっくりして私が、実はこうこうで、どんなに捜しても娘が見つからないんですと。たまたま通りがかったらこんな所にちょっとした入江があったので来てみたんですと泣きながら話していた。
その女性が「かわいそうに大変ですね」と言って、しばらくお話をしました。
ほんと、自転車ではいろいろな所へ行きました。何か見つからないだろうかと……、見つからないことが分かっていても。
滋 やっぱり死んだという証拠がない、生きている証拠ももちろんないんですけど、死んだ証拠が出るまでは生きているのを前提に、親は同じ所でも何回も行くんですね。
きのう漂流物がなくても今日はあるかもしれない……、ずっと捜していた。
でも、そんな時期が過ぎてしまえば、結局待つだけということになって。たまに人捜しのテレビに出て呼びかけてもめぐみに関しては効果は表れないんです。
一度、朝日新聞から失踪宣告の特集記事を書くからと取材されて、めぐみの失踪宣告をどうして出さないのかと訊かれました。それは大人の場合なら相続などいろいろな問題があるけれど、子供だから出しても何ら利益がない。息子の拓也、哲也は小学校3年生の頃だったから、そういうことは何も解らない。それで我々二人のうちどちらかが死んだら出すかどうかを考えてみます、と答えたことがありました。
死んだという証拠がないということは、どこかで生きている可能性がある。私はいつまでも待つしかない、と思っていました。
※肩書きは当時のものです
めぐみへの遺言
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父、横田滋さんが、先日87歳で亡くなりました。生死もわからない娘の生存を信じ、行方を探し続けた滋さんと、妻・早紀江さん。『めぐみへの遺言』は、その長きにわたる夫婦の闘いの日々を追った、涙なしでは読めない一冊です。追悼の意を込めて、本書の一部をご紹介いたします。