6月5日にALS(筋萎縮性側索硬化症)のため、76歳で逝去された美容家の佐伯チズさん。
ALSと診断されたことを公表されてからも、病と向き合いながら美容家としての活動を可能な限り継続したい、という意思をお持ちでした。2015年に発売された『今日の私がいちばんキレイ 佐伯流人生の終いじたく』にも、人生で起こる想定外のことが、新たな人生を切り開くことにつながったと書かれています。本書の中から、美容にとどまらない著者の考え方、実践例など、年齢を重ねることが楽しみになるエピソードを紹介します。
真っ赤なシャツに黒い吊りズボン、腕にはミッキーマウスの時計を巻き、足元はピカピカの革靴に白いソックス……。男の子が生まれたら、そんな格好をさせたいと思っていました。結局、子供を授かることはありませんでしたが、いつだって私の夢は具体的なのです。
「夢は具体的であるほど叶えやすい」「アバウトな夢はアバウトなまま自然消滅する」。これが夢を追い続けてきた私の持論です。
子供がいなかったこともあり、専業主婦だった新婚当初の私は正直、時間を持て余していました。夫を送り出し、家のことを一通りしてもまだ正午です。「夕方の買い物まで何しようかしら……」。この余った時間がもったいないというのと、ある夢を叶えるために私は夫に相談して、ゲランという化粧品メーカーで働くことにしたのです。
私が結婚をした一九六七年は、いざなぎ景気の真っただ中でした。アルファベット表記の頭文字をとって3C、または新・三種の神器といって、カラーテレビ、クーラー、クルマが普及し始めた頃です。かつてアメリカ映画の中で見ていた豊かな暮らしが日本にもやってくるかと思うと、私は心が躍り、家でじっとしてはいられなくなりました。当時は社宅住まいだったので、ゆくゆくはマイホームも手に入れたいと考えていました。それらの夢を一刻も早く叶えたいというのが、私が働くきっかけになったのです。
自分のエステティックサロンをもつということは、正直、私の中で強く夢見ていたことではありませんでした。けれども、定年退職後にひょんなことから自らの著書を出版する機会に恵まれ、翌年、東京・代々木にサロンを構えると、私の中でまだ芽が出ていなかった夢がむくむくと膨らみ始めたのです。
「いつかは銀座にサロンを出したい」「そして真っ赤なドアをつけたい」。なぜ赤いドアかというと、ニューヨーク五番街にある世界的に有名なエリザベス・アーデンのエステティックサロンは、ドアが赤いことにちなんで、“レッドドア”の愛称で親しまれています。映画や小説にもたびたび登場する、上流階級御用達のアーデンサロンは、もちろん私にとっても憧れの場所。そのエッセンスを自らのサロンに取り入れたいと思ったのです。
そして銀座は日本で最も地価が高いといわれる一等地であり、私にとっては大阪から上京して初めて美容の世界に触れた、思い出の場所でもあります。
私は念じ続けました。そして、ことあるごとに「いつかは銀座!」と人に宣言しました。そして二〇〇七年、銀座一丁目に「ルージュ・ド・ポルテ(紅の扉)」をオープン。翌年にはチャモロジー(魅力学)スクールを併設したエステティックサロン「サロン ドール マ・ボーテ」を銀座通りに構え、エントランスの大きな扉は目の覚めるような赤にしました。
思えば私は子供の頃から夢見る夢子でした。そして夢があったから前を見て走ってこられたのです。「こんな仕事をしたい」「こういう人と結婚したい」……。誰しも何かしらの夢をもってこれまで生きてきたはずです。
生まれてから死ぬまで、こうして夢に寄り添うことで、人は成長することができると思うのです。年をとったら夢はいらないということはありません。「もうこんな年齢だし」「何がやりたいか分からない」などと、年齢を重ねて夢を見ることを放棄してしまうのは、一種の怠慢だと思います。もちろん私も今だって夢を捨てたことはありません。
夢といっても、何も大それたことを考えなくてもいいのです。「きれいに死んでいきたいわ」というのもひとつの夢でしょう。「明日、うなぎ食べたいな」でもいいのです。もしかしたら、すぐに夢を叶えられないかもしれないけれど、夢を見ることが大事です。お金のあるなしは関係ないのです。
今日の私がいちばんキレイ 佐伯流人生の終いじたく
6月5日にALS(筋萎縮性側索硬化症)のため、76歳で逝去された美容家の佐伯チズさん。
ALSと診断されたことを公表されてからも、病と向き合いながら美容家としての活動を可能な限り継続したい、という意思をお持ちでした。2015年に刊行された『今日の私がいちばんキレイ 佐伯流人生の終いじたく』にも、人生で起こる想定外のことが、新たな人生を切り開くことにつながったと書かれています。本書の中から、美容にとどまらない著者の考え方、実践例など、年齢を重ねることが楽しみになるエピソードを紹介します。