なぜ日本人は「幽霊」を恐れ、アメリカ人は「悪魔」を恐れるのか。「サーカスのピエロ」や「市松人形」に、そこはかとない恐怖を感じるのはどうしてか。映画『エクソシスト』や、スティーブン・キングの小説は、なぜあれほど怖いのか……。稀代のホラー作家、平山夢明さんの『恐怖の構造』は、人間が恐怖や不安を抱き、それに引き込まれていく心理メカニズムについて徹底考察した一冊。「恐怖の正体」が手に取るようにわかる本書より、その一部をご紹介します。
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恐怖には2つの種類がある
僕は、恐怖というものは「文化的恐怖」と「生態的恐怖」に分類できると考えています。
生態的恐怖というのは、災害や拷問など本能的な生命の危機を感じる恐怖です。ところがこれは映画や小説などの作品にはなりにくいんですね。小説ではエドガー・アラン・ポーの短編「落とし穴と振り子」あたりが生態的恐怖をあつかっていますが、これはかなり珍しい例です。
映画なら『ソウ』(2004年/ジェームズ・ワン監督)や『ホステル』(2006年/イーライ・ロス監督)が拷問シーンで話題になったものの、やはりメインの筋立ては「犯人の目的」と「主人公が助かるかどうか」になっています。「なぜ」が追求されないと、人間は知的欲求が満たされないようです。
ゆえに、ホラー作品は「文化的恐怖」の側面が強くなります。自分以外の存在とのあいだで生じる恐怖と言えばわかりやすいでしょうか。自分と家族、自分と子供、自分と他人、自分と国、自分と世界、自分と文化。それらとの関わりが恐怖に結びつくんです。これがたったひとりだと「あきらめて死ねばいいじゃん」で終わっちゃいますからね。
つまり、それぞれの根っことなる文化が違えば、感じる恐怖の質もまた変化してくるんです。
文化的恐怖を最も大きく左右するのは宗教観でしょう。キリスト教圏では、悪魔という存在を本当に恐れています。
我々からすればデビルやデーモンはファンタジー世界の代物ですが、キリスト教圏に生きる人にとっては生々しい恐怖の対象なんですね。それほどまでに、彼らの生活にはキリスト教の教えが染みついているんです。
事実、アメリカ南部のアーカンソー州では1968年まで進化論を教えることが州法で禁じられていました。猿が人間になるはずがない、聖書に書かれた天地創造が正しいと本気で思っていたんですね。
もっとも、それは遠い昔の話ではありません。現在でも、バイブル・ベルトと呼ばれる南部一帯にはキリスト教原理主義者が一定数存在し、ケンタッキー州には創造博物館なんてものがあるんですから。この博物館は、聖書の内容を証明するための博物館です。「創世記」に書かれている内容は事実でありダーウィンの進化論は間違っているという説明が、模型や資料を使って延々と紹介されているんです。
この博物館で販売されている雑誌「アンサー」によれば、ダーウィンが進化論を主張したのも神の御業で、本当にそれを信じるかどうか神が試したんだそうです。なんとも荒唐無稽な暴論にしか思えませんが、信じている人が数多くいるのもまた事実なんですよね。
ですから、我が子に取り憑いた悪魔と闘う『エクソシスト』(1973年/ウイリアム・フリードキン監督)を観た際、仏教や神道がベースにある僕たちが感じる恐怖と、キリスト教を規範にして生きる欧米の人々が感じる恐怖はまったく別物なのかもしれません。
文化の違いでここまで異なる
欧米の場合は、歴史がある国か新しい国かで、ずいぶんと恐怖の様相が異なります。イギリスやフランスなどの歴史が長い国は幽霊譚も多いんです。イギリスなどは幽霊が出ることをウリにしているアパートがあるくらいです。
ところがアメリカでは幽霊はそこまで恐れられていません。スピリッツ(精霊)として考える文化があるからでしょう。これは、過去にその国土で大きな戦争や虐殺があったかどうかが大きく作用するようです。アメリカの場合は本土を攻撃された経験がほとんどないので、大量の人間が死んだ負の歴史がすくないんですね。
ただし、あの国は略奪と侵略の上に成り立っていますから、それに対しての負い目から派生する恐怖は脈々と受け継がれています。
ネイティブアメリカンの呪いがホラー映画によく出てきますが、あれは彼らの後ろめたさのあらわれなんですね。「あんなひどいことをしたんだ、怨んでいるに違いない」という強迫観念が、理解不能な土着的宗教への恐怖と混ざって表出しているんでしょう。
ただ、この推察には疑問の声もあるようで、「日本だって第二次大戦中はアジアでひどいことをしたけど、南京から幽霊が海を渡ってきたなんて話は聞かないじゃないか」と言われたことがあります。
それは、日本人が満州をはじめとするアジア諸国から「帰ってきてしまった」からではないでしょうか。アメリカの場合は侵略した土地、悲劇の現場にいまも留まっている。自分の足元に犠牲者がいるという事実が、文字どおり恐怖の源泉になっているんです。
幽霊を恐れない反面、アメリカは鉤爪男やモスマンなどの都市伝説が盛んです。あとは超能力ですね。あれは幽霊の代わりだと思います。宗教的特性により、アメリカでは幽霊の代わりに超能力という形で出てくるのではないでしょうか。超能力者の多くが子供なのは人形と同じ理屈、不完全な完全だからです。子供は希望の対象であると同時に恐怖の対象なんですね。
子供というのは我が子であっても別な生き物です。親としては自分と同じように生きてほしいけれど、必ずそうなるとは担保されていません。そこが恐怖の対象になるんですね。
『オーメン』(1976年/リチャード・ドナー監督)や『チルドレン・オブ・ザ・コーン』(1984年/フリッツ・カーシュ監督)、『光る眼』(1995年/ジョン・カーペンター監督)、『キャリー』(1976年/ブライアン・デ・パルマ監督)など、超能力がある子供をあつかったホラー映画が多い事実からも、僕の仮説が理解してもらえるのではないでしょうか。
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恐怖の構造
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