なぜ日本人は「幽霊」を恐れ、アメリカ人は「悪魔」を恐れるのか。「サーカスのピエロ」や「市松人形」に、そこはかとない恐怖を感じるのはどうしてか。映画『エクソシスト』や、スティーブン・キングの小説は、なぜあれほど怖いのか……。稀代のホラー作家、平山夢明さんの『恐怖の構造』は、人間が恐怖や不安を抱き、それに引き込まれていく心理メカニズムについて徹底考察した一冊。「恐怖の正体」が手に取るようにわかる本書より、その一部をご紹介します。
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一体どこが優れているのか?
恐怖にまつわる映画を語るうえで『羊たちの沈黙』(1991年/ジョナサン・デミ監督)は欠かせません。我が家には原作の文庫本が数冊あって、もう何千回と読みました。
最初こそ「面白いなあ」と思いながら素直に読みましたが、二回目以降は「なんでこんなに惹かれるんだろう、なにが好きなんだろう」って疑問を解消するための読書になりました。
これはもう「うまみ成分を調べる分析」みたいなもので、一回二回じゃ終わりません。非常に長い旅になっちゃいます。
まず、なんといってもセリフの使い方が素晴らしい。
たとえば物語の前半、主人公である女性捜査官クラリス・スターリングが連続殺人事件のヒントを得るため、ボルチモア精神科病院に収監されている猟奇殺人鬼の博士ハンニバル・レクターを訪ねる場面があるんですが、クラリスにコートを渡された雑役夫が「すごく長く出るのか」と聞くんです。
で、クラリスが「なにが」と問うと「お前にはチンポコがないから、猿の尻尾みたいにクソが長く出るところを見られるだろ」「あ、コート返して」。そんなやり取りがあるんです。しびれるでしょ。その手のセリフにマーカーでラインを引いていくと、『羊たち~』の怖さが見えてきます。
あの作品の面白さは、善悪の逆転にあります。あの作品に登場する「善人」、FBI側のプロファイラーや司法関係者、あとはボルチモア精神科病院のチルトン医師など、最初は我々が良い人と信じてやまなかった人物たちは、後半になると全員「悪人」に見えてくる。それは、観客や読者が「悪」であるはずのレクター博士を大好きになっていくからなんですよ。口にこそ出さないけど、「レクター頑張れ」と心のなかで祈りはじめる。
この口に出さないというところが実は重要でしてね。
ロックミュージカルの『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ監督)みたいにドヤ顔で「ダークヒーローでござい」にするとダサくなるんです。品のない「お酢になったワイン」みたいになっちゃう。『羊たち~』は、そのさじ加減がとてもうまい。良いお茶の会に出たようなもんで、「結構なお手前ですね」と言いたくなる。
では、なぜ我々はレクター博士を応援してしまうのかといえば、レクターの持つ悪は社会的なシステムの悪ではないからです。彼は単純に狂っているだけ、しかも虎なみに狂っている、まともな人間では理解不能な狂気の持ち主だからなんです。
長く生きていると、あの手の「理解できないけど従うべき人間」に、誰しも一度か二度は会ったことがあると思います。非常に強くて天才的な存在に対し、我々はひれ伏す以外ありません。「敵わないよ」と思いながら応援するしかない。徹底的に超人になっていく姿の前には、僕らが持っている常識もシステム的な防衛機構も通用しない。そういう意味で『羊たち~』は恐怖映画なんです。
『羊たち~』でもうひとつ興味深い部分は、レクター博士ともうひとりの連続殺人犯であるバッファロー・ビルの差ですね。さっきも言ったようにレクターは観客から好かれる傾向にあります。それは狂人だからです。対してビルは変態なので、誰も好感を抱かないんですよ。
人は狂人を崇め、変態を嫌う
大衆って狂人が好きなんです。
たとえば黒澤明監督が「撮影の邪魔だから」という理由で家や電柱を取り除かせたってエピソード、聞いたことがありませんか。あの逸話が広く知られているのは、彼を「ある種の狂人である」と思うことで安心したいからだと僕は考えています。
並みの映画人がおなじことをやろうとしても到底できるものではない。けれども「自分には才能も情熱もないからそんな無茶ができないんだ」なんて結論に達してしまったら、自尊心がボロボロになってしまう。「あの人は狂っているんだから仕方ないんだ」と思えばこそ、自我を保てるわけです。
スティーヴ・ジョブズもすさまじいエピソードがたくさん出てくる。それらの話を聞いた際、人は「あいつは狂ってるから成功したんだ」「俺たちはまともだからできないんだよね」と、どこかで安心できるでしょ。すごい人を「狂人」と呼びたいんです。「あの人はすごい努力家だ」と認めたくないから「あいつは狂人だ」という解釈をする。まさしく狂人と天才は紙一重なんです。
ところが、大衆は「変態」を絶対に許さず、徹底的に嫌悪します。変態性を自認しているフェティッシュな人は別でしょうが、自分はノーマルだと自覚している人は、変態を「あれは人間のなりそこないだ」と思っている。下に見ているんです。狂人の行動は「できない」のに対して、変態の所業は「しない」んです。誰もパンツを刻んで納豆に交ぜて食わないでしょ。やろうと思えばできるけど、敢えてしないわけですよ。
それは、変態のベースが過剰な自己愛、つまりナルシシズムだからなんです。彼らは自分の趣味嗜好から欠点、弱さまですべてを容認してしまう。それを他者に「こういう人間なんで許してね、ごめんね」と強要し、請願していく。自己改革やタフネスとは無縁の理不尽な押しつけしかおこないません。
ところが狂人は逆なんです。自分の望むことについてはなりふり構わず突き進み、障害となるものに対してはとことん闘っていく常軌を逸した力を持っている。そして、その障害のなかには自分の弱さも含むんです。おのれを克服するんです。
ゴッホなんて人はその典型ですよね。徹底的に自己を克服して、耳を切り落としてまで描く。変態にそこまでの力はないんです。だから、人は狂人を崇め、変態を嫌うのではないでしょうか。
恐怖の構造
なぜ日本人は「幽霊」を恐れ、アメリカ人は「悪魔」を恐れるのか。「サーカスのピエロ」や「市松人形」に、そこはかとない恐怖を感じるのはどうしてか。映画『エクソシスト』や、スティーブン・キングの小説は、なぜあれほど怖いのか……。稀代のホラー作家、平山夢明さんの『恐怖の構造』は、人間が恐怖や不安を抱き、それに引き込まれていく心理メカニズムについて徹底考察した一冊。「恐怖の正体」が手に取るようにわかる本書より、その一部をご紹介します。