
撮影:平野愛
Titleでは年の初めに、前もってその年の休みを決めてしまう。いま手帳のカレンダーを見ると、7月21日から2週間のあいだは、ずっと「休み」のマークがつけられており、そしてそれらはすべて、上からバッテンで消されている。
本当ならこの時期から東京でオリンピックがはじまることになっていた。感動を強要される空気のなかにいるのは嫌だと思っていたので、自分のリフレッシュも兼ね、この期間は東京を離れてどこか遠くにいこうと決めていた。しかしこのコロナ禍でオリンピックは延期、二週間の休みはなくなり、結果的に今年の夏はずっと東京にいることになってしまった。
あれ、おかしいな。どこかの駅で、間違った電車に乗ってしまったのだろうかと思わなくもないが、自分が見ることのできる風景はいつも、いま、ここでしかない。降りる予定だった駅はどんどん遠ざかり小さくなってしまったが、いまとなってはもう降りたいとも思わなくなった。
店に知り合いがくるたびに、感染者数が収まらないねという話になる。たしかに収まってはいないのだが、それをどう捉えるべきなのか、4月5月のころよりも気持ちがあいまいになっており、そんな自分にも何か芯がないような、釈然としないものを感じている。
4月に臨時休業を決めたとき、きっかけになったのは店にくるお客さんの顔だった。動作の一つ一つに緊張感があり、非常時の切迫したことばが、語らずとも自然にその身体から発せられていた。
いま、店に来る人の顔を見ても、そこから何かを読み取ることはできない。そのかわり伝わってくるのは、コロナ禍や全国で起こった水害、変わらない政治など、一時にあまりにも多くのことが起こってしまったゆえの困惑、そして無力感だ。そう感じるのは、自分もそれに取り込まれようとしている表れなのだろう。前に進みたくてもそれがどの方向かわからなければ、何も考えず自分の世界に安住したほうが楽だ。
漫画版『風の谷のナウシカ』では、そうした箱庭的平和が、ラスト近くで登場する。しかしナウシカはそれを拒否して、また旅立っていくのだが……。
日曜日。車椅子に乗った子どもを連れたお母さんがやってきた。小学生用の国語の辞書を探しているという。
すみません。いま店には大人用のものしかないんですよ。お子さんにはちょっと難しいかもしれません。
〇〇くんは、その辞書使ってたよ。
えーっ、ほんとうに? ちょっと見せてください。でもこれでは難しいわねえ……。本当にこれがいいの?
ぼく、ドラえもんの辞書がいい。
ちょっと笑ってお母さんはすこし考えていたが、授業ですぐ使うのでほかの店も探してみるとのことだった。しかしもう一つの目的であった、子ども向けの雑誌はあったようだ。よかったわねぇ、じゃあ行こうか。
車椅子を押して、また駅まで行ってもらうこととなり、その親子には本当に申し訳ない気になった。でも二人は楽しそうに会話を続け、そのまま店を出ていった。二人の背中には、確かな〈生きている〉という感じがあった。
まだまだやらなければならないことがたくさんある。たとえ思考を手放した小さな世界が居心地よくても、そこから外に向け、足を踏み出さなければだめだ。
今回のおすすめ本
いま、この瞬間は、すべてでありながら「まんなか」だ。浮遊しながら自由にその〈すべて〉を書き記し、この世界で唯一の〈あなた〉を照らす絵本。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2025年3月14日(金)~ 2025年3月31日(月)Title2階ギャラリー
漫画家・上村一夫が1974年に発表した短編集『あなたのための劇画的小品集』の復刊にあたり、当時の上村作品を振り返る原画展を開催します。昭和の絵師と呼ばれた上村一夫は、女性の美しさと情念の世界を描かせたら当代一と言われた漫画家でした。なかでも1972年に漫画アクションに連載された「同棲時代」は、当時の若者を中心に人気を集め、社会現象にもなりました。本展では、『あなたのための劇画的小品集』と同時代に描かれた挿絵や生原稿を約二十点展示。その他、近年海外で出版された海外版の書籍の展示・販売や、グッズの販売も行います。
◯2025年4月5日(土)~ 2025年4月22日(火)Title2階ギャラリー
大江満雄(1906-91)は、異なる思想を持つさまざまな人たちと共にありたいという「他者志向」をもち、かれらといかに理解し合えるか、生涯をかけて模索した詩人です。その対話の詩学は、いまも私たちに多くの示唆を与えてくれます。
Titleでは、書肆侃侃房『大江満雄セレクション』刊行に伴い、著作をはじめ、初公開となる遺品や自筆資料、写真などを紹介する大江満雄展を開催します。
貴重な遺品や私信に加え、大江が晩年「風の森」と名付けて、終の棲家とした家の写真パネルなども展示。本書収録の詩や散文もご紹介します。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『生きるための読書』津野海太郎(新潮社)ーーー現役編集者としての嗅覚[評]辻山良雄
(新潮社Web)
◯【お知らせ】
メメント・モリ(死を想え) /〈わたし〉になるための読書(4)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第4回。老いや死生観が根底のテーマにある書籍を3冊紹介しています。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。