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オンリー・イエスタディ

2002.06.01 公開 ポスト

第5回 「スノッブをすりこまれた」安井かずみ見城徹

 安井かずみの訃報を耳にした時、初めて彼女に連れて行かれた店の情景が浮かびました。その飯倉にあるイタリアンレストラン「キャンティ」は、25年前に足を踏み入れて以来、今でも僕の行きつけの店です。自分が感動した対象や強い興味を抱いた人間とだけ仕事をしたいという僕の今のポリシーが、新人編集者だった当時も既に芽生えていたのでしょう。恐ろしく売れていた彼女に、何か仕事をしましょうと連絡を取りました。あの頃いいと思うポップスのスタッフクレジットには、たいてい「作詞:安井かずみ」と記されていました。
 キャンティの第一印象は、外国に思えました。メインディッシュのオーソ・ブッコもパスタのスパゲッティ・バジリコも、出される料理のすべてがそれまで食べたことがないほど、凄ましく旨かった。
 一番奥の窓際の席では、安井かずみとキャンティ族の双璧を成す加賀まりこが、4、5人で食事をしていました。僕は食事をしながら打ち合わせをする方なんですが、その癖がついたのは若い僕をキャンティに連れて行った彼女のせいですよ(笑)。今でも、大切な打ち合わせがある時に訪れるいくつかの店のひとつとして、足を運んでいます。西麻布支店ができてからは、そちらを訪れる方が多くなりましたけど。キャンティは雰囲気も独特で、気持がゆったりと高揚するんです。フランク・シナトラやマーロン・ブランドまで姿を見せたその店は、僕にとって夜の学校だったんです。そこには、安井かずみの詞に漂うスノッブなムードがあり、そして成功する前の人にも優しかった。無名の表現者に対しても独特の温かい応対をしてくれて、そこに行きたいと思わせる力がキャンティにはあったんです。店内に漂う匂いや雰囲気や色を感じ取って、この店にふさわしい客になりたいと、様々なジャンルのクリエイター志望の若者たちは憧れ、納得できる仕事をするとキャンティの初体験を済ませたものです。
 実際、あの店の触発能力は営々たる実績を刻んでいました。ザ・スパイダースを生みだしたのもタイガースを生み出したのもキャンティだし、あの店がなければYMOもユーミンも世に出なかったかもしれません。僕も"この店の常連になるというのは、どんなことなんだろう?”と思って仕事に励み、やがて"この店に来れなくなったら、自分の仕事がうまく回ってない時だ”と目安にするようになり、そしてキャンティを愛し過ぎて『キャンティ物語』という本まで出してしまいました。
 単なるメランコリーや情性でキャンティに顔を出すのではなく、どうしても今日はキャンティだという日があるんですよ。例えば、最近さだまさしに処女小説の『精霊流し』を書いてもらった時、彼の表現作法に共感を覚えました。"小さく生きて小さく死んでいく。目立つこともなく目立とうとも思わず目立つ能力もなく、しかし、一生懸命誠実に生きて死んで行く。そういう人たちの足音や溜め息をきちっと掬い取っている”。彼が目を向ける人たちからは、クリエイティブなものは引き出せないでしょう。でも、表現者はそういう人たちの重さを常に感じていなくてはダメだと言う想いが僕も強いし、そういう無口な人たちに負い目を感じてもいます。目立たなくても"生きてるだけで価値がある”というメッセージを敬礼と共に送りたいと思います。だから僕は、『大河の一滴』の映画化にもこだわったんですよ。
 さだまさしの小説を校了した後、一人でキャンティに行きました。安井かずみは、肺癌で亡くなる約3週間前にキャンティを訪れ、静かにお茶を飲んで帰ったそうです。彼女と結局仕事をしなかったし、すごく親しかった時期はなかったけれど、自分の中で重大な何かを失った想いがしました。
 今でも僕がキャンティに行くように、彼女とキャンティを切り離すことはできないんですよ。 

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