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プロ野球激闘史

2020.07.25 公開 ポスト

工藤公康 ドラフト会議の席で指名を決めた「坊や」広岡達朗

広岡達朗さんの新刊『プロ野球激闘史』は、巨人現役時代のライバル、西武・ヤクルト監督時代の教え子から次世代のスター候補まで、27人を語り尽くした“広岡版・日本プロ野球史”。「サインを覚えなかった天才・長嶋」「川上監督・森との確執」「天敵・江夏の弱点とは?」――セ・パ両リーグ日本一の名監督による、知られざるエピソードが満載です。

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私のところにも、プロ野球界のさまざまな情報が入ってくる。驚くような話もあれば、にわかには信じられない怪情報もある。だが、「やっぱりそうか」と思うような信憑性の高そうな話もある。

2019年のCS(クライマックスシリーズ)が終わり、ソフトバンクがパ・リーグ優勝の西武を破って3年連続の日本シリーズ進出を決めたころ、複数の情報源から「工藤監督の評判がよくないらしい」という話を聞いた。

ソフトバンクの監督になってから5年。前年までにリーグ優勝2度を経て3度の日本一も飾ったのだから、そろそろチームの内外から批判的な声が上がり始めてもおかしくないころだが、私はこの情報を聞いて「工藤もやっと一流の監督になってきたか」とニンマリした。

監督は選手に好かれようと思うな

私はつねづね、監督やコーチのような指導者は「選手に好かれようと思ってはいけない」と思っている。大事なことは、自分がやりたい理想の野球をコーチや選手たちにしっかり示し、そのために妥協のない指導を徹底することである。

私がヤクルトの監督になったとき、いきなり厳しい練習をやらせたので専属トレーナーから「監督、こんな練習を続けていたらケガ人続出で勝てませんよ」と忠告されたことがある。しかし私は、「これくらいの練習でケガをするようなら、もともと勝てっこないわ」と無視して自分のやり方を貫いた。

案の定、それまでぬるま湯の万年Bクラスだった選手たちは陰で批判や不満を募らせたが、半年たって結果が出始めると納得し、「この監督についていけば勝てるかもしれない」と思うようになった。

トレーナーが心配したようなケガもなく、シーズン途中で監督代行になった1976(昭和51)年は5位だったが、正式に監督に就任した翌77年は2位、78年には球団創立以来初めてのリーグ優勝と日本一を勝ち取った。

監督の役目は、実家の両親から預かった若い選手を社会人として恥ずかしくない人間に教育し、プロの世界で10年以上は飯が食える選手に育てること。心しなければならないのは、選手に好かれようと思って甘やかさないことだ。

だから私は「工藤の評判がよくない」という話を聞いたとき、「56歳になって、工藤もようやくりっぱな監督になってきたか」と安堵した。

西武が工藤を単独指名できた理由

私と工藤の縁は1981(昭和56)年秋のドラフト会議で始まった。ヤクルトの監督を辞めて3年。西武の監督に就任した直後の私は、根本陸夫管理部長を中心に進められていたドラフト作戦にはタッチしていなかった。

ドラフト会議の当日、西武の指名は5位までで、6位が空欄になっていた。

編成責任者の根本さんに「6位はいないんですか?」と聞くと「いない」という。私がさらに「なぜいないんですか。アマチュア野球で一番いいのは誰ですか」と聞くと「名電工の工藤が一番いい選手だけど、もう熊谷組に就職が決まっているから、どこも指名しないんだ」という返事だった。

工藤は名古屋電気高校(現・愛知工業大学名電高校)の投手として夏の甲子園大会に出場し、ノーヒットノーランを記録してベスト4まで進んだ逸材である。

おかしな話だと思った私は、「だったら権利だけは取っておかないと今後の交渉ができないから、最後でもいいからとにかく指名して権利だけ取ってください」と頼み込んだ。

根本さんは苦虫をかみつぶしたような顔で「監督がそういうんじゃ、しょうがないな」といって名簿を追加して、工藤の単独指名が決まった。

ドラフト会場で急遽決まった工藤の指名を、他球団やマスコミは「西武と工藤の出来レース」と騒いだが、これが真相である。

そして私には、西武の親会社・国土計画(当時)が熊谷組に工藤の譲渡を働きかけてくれるだろう、という確信があった。西武の監督に就任するときに親会社を調べて、なんでも一生懸命に取り組む会社だというイメージを持っていたからだ。

評判気にせず「工藤野球」を貫け

工藤は大きな目をした頭のよさそうな青年だった。私は「この子は小利口だから、二軍に置いたら首脳陣の目を盗んで手を抜くだろう」と直感したので、春のキャンプから私の目が届く一軍に入れた。もちろん、きれいなフォームから投げ下ろす速球と天下一品のカーブにも魅力があったからだ。

工藤は1年目から中継ぎで起用した。計27試合登板して1勝1敗、防御率3.41はりっぱな成績だった。2年目も中継ぎが中心で、防御率3.24と順調に成長したが、3年目の1984(昭和59)年は9試合の登板に終わった。

この年、工藤には精神的に甘い面があると思ったので、ハングリー精神を身につけさせるためアメリカの1Aリーグ、サンノゼ・ビーズに留学させた。

この留学で工藤は、マイナーリーグの厳しい生活を見てプロ意識に目覚めたのだろう。翌年は西武の先発として8勝3敗で最優秀防御率(2.76)のタイトルを獲り、リーグ優勝に貢献した。

あのころ私は彼を「坊や、坊や」と呼んでいたので、マスコミは私が特別扱いしていると思ったらしいが、そんなことはない。金の卵を間違いなく育てるために、そばに置いて目を光らせ、私生活も野球も厳しく鍛えたのだ。

あの「坊や」がプロのマウンドで29年も投げ抜き、通算224勝で野球殿堂入りした。監督としては2019年も4年連続で日本シリーズに出場し、私の古巣で監督としても宿敵だった巨人を破って4度目の日本一を飾った。周りの評判など気にせずに、「工藤の野球」を確立してもらいたい。

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広岡達朗

1932年、広島県呉市生まれ。早稲田大学教育学部卒業。学生野球全盛時代に早大の名ショートとして活躍。54年、巨人に入団。1年目から正遊撃手を務め、打率.314で新人王とベストナインに輝いた。引退後は評論家活動を経て、広島とヤクルトでコーチを務めた。監督としてヤクルトと西武で日本シリーズに優勝し、セ・パ両リーグで日本一を達成。指導者としての手腕が高く評価された。92年、野球殿堂入り。『動じない。』(王貞治氏・藤平信一氏との共著)、『巨人への遺言』『中村天風 悲運に心悩ますな』『日本野球よ、それは間違っている!』『言わなきゃいけないプロ野球の大問題』(すべて幻冬舎)など著書多数。新刊『プロ野球激闘史』(幻冬舎)が好評発売中。

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