ムッツリ意地悪型の、紫式部。乾燥意地悪型の、清少納言。……と、タイプの異なる意地悪界の東西両横綱が存在していた千年前。この二人が同時に生きていた時代があったということを考えると、恐くもあり面白くもあり。タイムマシンがあったら私は是非未来ではなく過去に行って、二人の顔を見に行きたいところです。
が、平安時代の意地悪者は、この二人ばかりではありません。この時代の女流文学の人材の層は厚く、ということはつまり意地悪者の層も厚いということなのです。
その中から今回、ご紹介してみるのは、 「道綱母(みちつなのはは)」さん。すなわち「蜻蛉日記」の作者です。
道綱母、という名前は、どうも落ち着きが悪いものです。その名の通り、彼女は藤原道綱を産んだお母さんではあるものの、「もうちょっと言い方があるんじゃないの」と、今を生きる私達としては言いたくなる。
しかしこの時代の女性は、たとえ貴族であっても、よほど身分の高い人以外は、記録に名前が残っていないのです。紫式部にしても清少納言にしても、それは本名ではない。「なんとかさんの妻」「なんとかさんの娘」「なんとかさんの母」的な名前でしか、後世の人に記憶には残っていないのでした。
で、道綱母。彼女は、紫式部や、彼女より少し年上だった清少納言よりも、一世代前に生きた女性です。清少納言が仕えた定子は藤原道隆の娘であり、紫式部が仕えた彰子は藤原道長の娘であるわけですが、道隆と道長というのは、兄弟でもあるわけです。で、その兄弟の父親が、藤原兼家。そして道綱母は、兼家の妻の一人でありました。
しかし道綱母は、道隆や道長の母ではありません。兼家はその時代の実力者であり、勢力・精力ともに旺盛な人であったので、妻はたくさんいた。中でも正妻格であったのが 「時姫」という人で、道隆・道長兄弟を産んだのは、この人なのです。
道綱母は、たいへん美しい人であったようです。だからこそ、受領の娘という貴族としてはさほど高い生まれではなかったにもかかわらず、兼家に見初められたのでしょう。一時は兼家にもたいへん愛され、一児・道綱も産み、とても幸せな時期もありました。
しかし兼家は、次々と女を作ります。一応は妻ではあるものの正妻でもない、という立場にある道綱母にとって、唯一頼りになるものは兼家の愛情ですが、兼家はあちらこちらに女を作り、時には子供を産ませたりもしている様子。道綱母は、兼家の夜離れを恨み、悶々として過ごすのです。
蜻蛉日記は、そんな気分の中から生まれてきた作品です。道綱母ににとって書くことは、胸の中でうずまく嫉妬や恨みといった感情を、一瞬、解き放つ行為だった。これは他の平安女流作家にしても同じことですが、書かずにいられなかったから彼女は書いたのだなぁと、蜻蛉日記を読んでいるとしみじみ思えてきます。
そんな彼女ですから、その意地悪性の発露も、嫉妬がらみなのです。たとえば兼家が、「町の小路の女」という女性と懇ろにしている、という時。町の小路の女にすっかり夢中になっている兼家は、道綱母の家には寄り付かなくなっています。
そもそも和歌に堪能な道綱母は、兼家に 「私はこんなに寂しく思っているのに」的な意味の歌を詠みかけるのですが、兼家はのらりくらりとした返歌。それどころか、わざわざ道綱母の家の前を通って町の小路の女のところに通っていったりするので、道綱母は嫉妬で身悶えします。
そんな時、彼女はなんと、正妻の時姫に歌を詠みかけるのです。それも最初は、
「あなたの家にさえ最近は寄り付かない兼家さんは、今はいずこにいるのでしょうねぇ」 といった意味の歌。これに対して時姫は、
「うちにはいませんから、あなたの所かと思ってましたッ」
といった歌を返しています。
道綱母としては、兼家が時姫の元にも行っていないらしいということを聞いて、「同病相憐れむ」感覚で、「お互いつらいですねぇ」と言いたかったのかもしれません。が、時姫にしてみたら、道綱母だって町の小路の女と同じ、夫の浮気相手なのです。その相手から「お互いつらいですねぇ」と言われても、嬉しくも何ともない。素っ気ない歌を返すのも、無理からぬところでしょう。
道綱母は、それでも懲りません。「時姫様は私以上につらかろう」などと思い、
「兼家さんがたとえ通ってこなくなったとしても、あなたとはお互いに慰めあっていきたいものです」
といった意味の歌をまた詠み、時姫は、
「人の心はうつろいやすいものですからねぇ……」
と、また醒めた歌。
道綱母の、「裏切られた者同士で憐れみ合いたい」という気分も、わからぬではありません。そうしなければいられなかったほど、彼女もつらかったのでしょう。しかしそこに、「時姫が負っているであろう傷をさらにえぐりたい」といった気分もほんの少しあったのではないかと、私は思うのです。
道綱母は、正妻的立場である時姫に対しても、嫉妬心を燃やしていたことでしょう。一時は、「でも私は誰よりも愛されているのだし」と自分を納得させることもできたかもしれませんが、兼家の愛が他の女に向かってしまった今、心の支えはなくなった。そんな時、 「傷ついているのが私だけ、っていうのは許せない。時姫さんにだって同じように傷ついてもらわなくちゃあ」
という意地悪心が、うずかなかったかどうか。もちろん本人はその意地悪心には気付いていなかったとは思いますが、一度ならず二度までも(本当はそれだけじゃないんですけど)、時姫に対して歌を送るという行動を見ていると、そこには女性特有の残酷さが存在しているような気がしてなりません。
町の小路の女は、やがて子供を産みます。出産で大騒ぎしている兼家の様子を聞くにつれても、道綱母の嫉妬はますます燃え上がります。
しかし、町の小路の女が産んだ子供は、しばらくして死んでしまうのでした。相前後して、兼家の愛情も、町の小路の女から離れていってしまった様子。
この時の道綱母の書きっぷりは、かなり迫力があります。
「私が悩んだのと同じように、あの女にもつらい思いを味わわせてやりたいと思っていたら、すっかりそんな風になってしまった挙げ句、子供まで死んでしまうなんて……。私が悩んでいたより、さらにもっとあの女が嘆いているかと思うと、やっと胸がすいた」
などと記しているのです。何と率直な、そして何と無防備な……! 何となく、源氏物語における六条御息所を思わせる書きっぷりではありませんか。
彼女はここで、被害者としての自分、ということしか考えていません。「私だって時姫を苦しめたのだから、私が町の小路の女に苦しめられても当然なのだなぁ」とは思わず、「私が苦しんだのだから、町の小路の女にも私と同等、もしくはそれ以上に苦しんでもらいたい」となる。
しかし、そう思ってしまうのも無理はないことかもしれません。当時の結婚形態は一夫一婦制ではなく、妻は夫が自分のところに通ってくるのをひたすら待つだけの身の上。貴族女性は自由に出歩くこともままならないため、他に気晴らしも無い生活の中で、夫の愛情を頼りにするしかなかった。そんな時に夫が他の女に夢中であることを知ったら、夫ではなく、相手の「女」に対する恨みが募るのも、わかる気はするのです。
兼家はしかし、懲りません。その後も、女を作っては道綱母に嫉妬されているわけですが、道綱母はその女の家が火事になったと聞いては「憎しと思ふところ」が半焼けになったとか、「さきに焼けにし憎どころ」が今度は全焼したらしいとか、いちいち記している。別にそんなことは書いてないけれど、憎い人の家が火事になったことに対する「ざまぁ……」という心情が、そこには見え隠れします。
道綱母は、いつまでも終らない嫉妬の波の中で、仏にすがろうともしています。幸せだった頃は「最近は女もお経を唱えたりするらしい」ということを聞いて「まぁみじめったらしい、そんなことをしてる人に限って、やもめになったりするのよ」などと思っていたのに、今や彼女自身が「私達夫婦なんて所詮……」と、涙を浮かべながらお勤めをする身。 そんな時、彼女は夢を見ます。それも、彼女の胎内にいる蛇が内蔵を喰う、という夢を。
嗚呼、何をか言わんや。今時の夢判断であったら、蛇が何を示しているか、そしてその夢がどういう意味であるのか、いくらでも説明してくれることでしょう。素人が読んでも、その時の彼女の胸の中にいかにドロドロしたものが溜まっていたかは、理解できるのですから。
当然のことながら、彼女の愛情は一人息子の道綱へと注がれていきます。夫に背かれた母に溺愛され、女性に和歌を詠みかける時も、才能豊かな母に代作してもらっていた道綱。長じて後の道綱は、兼家の子供ではあるのでそれなりに出世はするものの、時姫の子供である道隆や道長に比べるとパッとしないのでした。何か世間で馬鹿にされていたような感じもあって、その原因は母親からの少し歪んだ愛情なのではないかとも、思えてくるのです。
美しく、またエリートを夫に持ったにもかかわらず、幸せではなかった道綱母。しかし彼女は書くことによってもがきながら嫉妬を乗り越えようとし、結果的に日記文学という一分野を切り拓いたのでした。後世の世においても、道綱母と同じようなドロドロを抱える女性は数多存在するわけですが、彼女が切り拓いた道をたどることによってラクになることができた女性達もまた、少なくないのではないかと私は思うのです。
人間は、意地悪な生き物です。特に女性は、意地悪です。隠しても隠してもなお滲み出て匂い立つ、そんな「女の意地悪」を、自覚的意地悪・酒井順子が、古今の女性作家の文章の中から繙きます。紫式部の時代から、やはり女は、意地悪なのでした。