精神科医の香山リカさんの著書『イヌネコにしか心を開けない人たち』には、大の動物好きという著者が自らのことを省みながらも、加熱するペットブームの背景にあるのは、「心のゆとり」ではなく「心のすきま」なのではないか、と書かれています。動物愛護の意識の高まりや昨今のペットブームは、人間の精神の成熟や豊かな社会の反映ではないのか。それとも人間疎外や孤立化の結果なのでしょうか。本書から一部を抜粋してご紹介します。
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「動物好きはよいこと」と信じて疑っていなかった私が、「さすがにこれは行きすぎ、過熱しているのではないか」と自分も含めた世の中のペットブームにやや疑問を抱くようになったのは、ダライ・ラマ十四世の自伝を読んでからのことだ。
ペットブームとダライ・ラマ? と不思議に思う人もいるかもしれないが、チベットからインドに亡命し、1970年代になってようやく欧米訪問が可能になったダライ・ラマは、西欧社会に対する感想をこう述べている。
……大都市で便利に暮らしている人びとの多くは、実際には大勢の人間から孤立して生きているのではないか、と。これほど物質的に恵まれ、近隣の何千という人間のなかに暮らしていながら、猫や犬にしか心を開くことができない人がなんと多いことか。どこかおかしい気がする。これは心の貧しさを意味するのではないだろうか。またもう一つには、これら諸国の厳しい競争社会、そこから生み出されるおそれと人生への深い不安感があるように思う。
(『ダライ・ラマ自伝』文春文庫、2001年)
こんなことを言うダライ・ラマだが、実は「すべての生きものに慈悲を」という仏教徒のレベルを超えた動物好きのようだ。この自伝でも、亡命先の住まいで飼っていたイヌやネコの話にけっこうなページが割かれている。
それらのペットが死んでしまったとき、ダライ・ラマは「もう動物は飼うまい」と思ったそうだ。そのときの心情について詳しくは書かれていないが、おそらくは一般のペット愛好家と同様、こんなに悲しい別れはもう経験したくないと思ったのではないだろうか。
しかし、自伝ではそうとは書かれず、「それに仏教徒の立場からすれば、あらゆる生物のことを思い祈ってやらねばならぬのに、一匹や二匹の動物だけにかまけてすむのではなかろう」と自らを戒めるような言葉が記されている。
しかも、こうやって誓ったにもかかわらず、ダライ・ラマは家の入口の近くで病気の子ネコを見つけて引き取り、「自分で飲めるようになるまでピペットでチベット薬やミルクを補給してやった」そうなのだ。
「今も家族の一員として暮らしている」というそのネコは「まだ名前をもらっていない」とされているが、名前を与えていないからといってダライ・ラマが「一匹の動物にかまけて」はならぬという自らの誓いを破っていない、ということにはならないだろう。
それほど動物好きのダライ・ラマが、イヌやネコにしか心を開けない人たちを見て、あえて「どこかおかしい気がする」と言っているのだ。これはやはり、本当にどこかおかしいに違いない。
もちろん、精神科医として手助けをしなければならない人が病院にはあふれ返っているのに、そこからさっさと家に帰ってイヌやネコの世話に没頭するこの私も、もし面会の機会が得られたら、やはりダライ・ラマに苦言を呈されるだろう。
そして、ペットブームにわく今の日本社会はどうだろうか。イヌやネコといった動物を愛する人が増えることを否定するつもりはもちろんないのだが、何十万もする高価な洋服を着せたりブランドもののリードをつけたりする飼い主たちの姿に、「本当にこれでいいのか?」と疑問を持っている人もいるはずだ。