精神科医の香山リカさんの著書『イヌネコにしか心を開けない人たち』には、大の動物好きという著者が自らのことを省みながらも、加熱するペットブームの背景にあるのは、「心のゆとり」ではなく「心のすきま」なのではないか、と書かれています。動物愛護の意識の高まりや昨今のペットブームは、人間の精神の成熟や豊かな社会の反映ではないのか。それとも人間疎外や孤立化の結果なのでしょうか。本書から一部を抜粋してご紹介します。
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我が身より人間より、動物が大事
私が子ども時代をすごしたのは北海道の小樽市だが、地震の少ないそのあたりが十勝沖地震の被害を受けたのは、小学校2年生のときのことだった。その日、たまたま風邪で学校を休み、部屋で寝ていた私は、「地震よ、早く外に逃げて」という母親の叫び声に従って、パジャマのまま玄関から飛び出した。自宅は小さな産婦人科医院を開業していたので、診療中の病院の職員や患者さんまでが、慌てて外に出てきた。地面はまだグラグラと揺れている。
「よかった、みんないるわね」と母親が安堵の声をあげたが、そのとき私は、居間にいたはずの飼いイヌがいないことに気づいた。そして、何も考えずに自宅の中まで戻って、そのヨークシャーテリアを抱き上げて、再び外に出た。
その間、30秒くらいのことであり、家そのものが崩れるようなこともなかったので危険もなかったのだが、「さっきまでいた娘がいない!」と両親は慌て、その後、イヌを抱いて戻ってきた姿を見て今度は驚きあきれたようだった。もちろん、「何かあったらどうするの」と怒られたが、私としてはイヌを助けることで頭がいっぱいで、自分の身の危険のことなどいっさい気にならなかった。
このように、私には、動物を飼い出すとすぐに「我が身より動物が大事」という気持ちになる傾向がある。さらにこの傾向は、自分が飼育する動物を超えて、ほかの動物にまで広がることもある。つまり、「人間より動物が大事」と思ってしまうのだ。
人間への嫌悪・敵意と表裏一体
後述するように、私に限ったことではなく、世界中で動物愛護活動をする人の多くが、「人間より動物が大事」という考えにとりつかれている。
はじめは「人間の都合を優先するのはやめよう」あるいは「動物と人間の共存」と穏やかなことを言っているのだが、いつの間にか「動物のためには人間が我慢すべきだ」、さらには「動物のためには人間が多少、犠牲になっても仕方ない」という極端な考えにまで発展しがちなのだ。
たとえば、2002年5月6日、オランダの極右党党首ピム・フォルタイン氏を暗殺したのも、動物愛護や環境保護に熱心に取り組んでいる活動家だった。もちろん暗殺の理由がその動物愛護活動と関連したものであったかどうかはわからないが、犯人の中で「動物は救うべきだが、フォルタインは死ぬべき」という価値観があったのは確かだ。
そしてそもそも、同性愛者であることを公にしていたフォルタイン氏自身も、スキンヘッドでスタイリッシュな洋服に身を包み、いつも自家用の高級車に乗るときはプードルを2匹抱いていたとも言われる。移民に対する人種差別的な敵意をむき出しにし、オランダからの排斥を訴えていたフォルタイン氏だが、おそらくそのプードルたちに対しては無限の愛情を注いでいたことだろう。
このように、動物愛護活動はときとして、動物以外つまり人間への嫌悪や敵意などと表裏一体となる危険性があるのだ。この問題については、また章を改めてくわしく述べたい。
いずれにしても、私自身にも人生のごく早期からこの傾向、「動物への独善的で一方的な愛情と、人間への愛情の希薄さ」が認められたことを自覚している。
学校での友だちや先生とのかかわりはごく表面的なものにとどめ、授業が終わると一目散に家に帰る。そして、尻尾をちぎれんばかりに振って出迎えてくれるイヌや「コンニチワ」などと話せるセキセイインコとともに、心から楽しい時間をすごす。親に「勉強しなさい」と言われると、「あ、ちょっと散歩に連れて行かなきゃ」とイヌを連れて近所の神社まで出かけ、境内の階段に腰をかけて時間をつぶした。
つまり、動物はときとしては“心の友”であり、ときとしては現実逃避の手段であったのだ。そのことが動物にとってはうれしいことなのか迷惑なのかまで考える心の余裕は、とてもなかった。
この「心の余裕がないときほど動物に夢中になる」というのも、世間一般で広く見られる傾向である。自分自身がそうであるにもかかわらず、私は長いあいだ、自分の心にも生活にもゆとりがある人が動物好きとなって動物愛護活動に身を投じるもの、と思っていた。しかし、どうもそうとは言いきれないらしい、ということが、最近わかってきた。その問題についても章を改めてくわしく検討したい。