濁世(じょくせ)には濁世の生き方がある————。コロナ禍で再注目された累計320万部超の大ロングセラー『大河の一滴』(五木寛之、幻冬舎文庫、1999年刊)から試し読みをお届けします。
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こう考えてみると、どんな人にも人生のふっとしたおりに「心が萎(な)える」という状態が必ずあるものなのだ。しかし、考えてみると、そこには人生に対する無意識の甘えがあるような気がしないでもない。そもそも現実の人生は決して楽しいだけのものではない。明るく、健康で、幸せに暮らすことが市民の当然の権利のように思われている最近だが、それはまちがっていると私は思う。
人間の一生とは本来、苦しみの連続なのではあるまいか。憲法が基本的な国民の人権を保障してくれたとしても、それは個人の心の悩みや、「生老病死(しょうろうびょうし)」の問題まで面倒をみてくれるわけではないだろう。
人は生きていくなかで耐えがたい苦しみや、思いがけない不幸に見舞われることがしばしばあるものだ。それは避けようがない。憲法で幸福に暮らす権利と健康な生活をうたっているのに、なぜ? と腹を立てたところで仕方がない。まず、人生というものはおおむね苦しみの連続である、と、はっきりと覚悟すべきなのだ。私はそう思うことで「こころ萎え」た日々からかろうじて立ち直ってきた。
むかしの人は、そのことを「人生とは重い荷物を背負って遠い道のりを歩いていくようなものだ」というような言いかたをした。たかだか三、四百年の時が経過したくらいで、人生のありようが変わるはずがないではないか。封建時代にあった苦しみが消えるのと引き替えに、近代の苦しみが生じ、さらに現代にはむかしにはなかった新たな苦しみが出現する。「世間虚仮(せけんこけ)」と深いため息をついて死んだ聖徳太子(しょうとくたいし)のころと、私たちの生きる現代と、どちらが人の世の苦しみは深く重いか。
その比重は、まったく同じではないかと私は思う。人生の苦しみの総量は文明の進歩と関係なく一定なのだ。むかしの人がいまの私たちより幸せだった、などとは私は思わない。平安時代と、江戸時代と、明治や大正のころと、そして先端技術時代のいまと、人間の営(いとな)みはほとんど変わっていないような気がする。
ちがうのは、地球と自然の寄生物であったヒト科の動物が異常に増殖し、地球や自然を大量に破壊する存在となったことや、天変地異(てんぺんちい)を恐れ超自然的な力を信じていた人間たちが、科学の進歩とともに宇宙の主人顔をしはじめたことぐらいのものだろう。
前向きに生きることは悪いことではない。プラス思考でおのれを励まし、人間性を信じ、世界の進歩を願い、ヒューマニズムと愛をかかげて積極的に生きることも立派な生きかたである。
しかし、一方で現代の人間の存在そのものを悪と見て、そこから出発する生きかたもあるのではないか。その真暗闇(まっくらやみ)の虚空(こくう)に、もし一条(いちじょう)の光がさしこむのが見え、暖かな風が肌に触れるのを感じたとしたなら、それはすばらしい体験である。まさに奇蹟(きせき)のような幸運であると思いたい。まず、これまでの人生観を根底からひっくり返し、「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」と覚悟するところから出直す必要があるのではないか。
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大河の一滴
いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だとあきらめることからはじめよう—―。がんばることに疲れた人々へ静かに語りかける感動の人生論。1998年に大ベストセラーとなり、再び脚光を浴びる注目のエッセイ。