濁世(じょくせ)には濁世の生き方がある————。コロナ禍で再注目された累計320万部超の大ロングセラー『大河の一滴』(五木寛之、幻冬舎文庫、1999年刊)から試し読みをお届けします。
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私たち人間は小さな存在である。
かつて私はヴァチカンのシスティナ礼拝堂の大壁画を眺めて、不思議な違和感をおぼえたことがあった。そこに描かれている有名なミケランジェロの記念碑的作品『最後の審判』のなかの、あまりにも巨大でマッチョなキリスト像に圧倒されたのだろうと思う。私はルネサンス時代よりも前の、平面的で様式化された人間像のほうが、いまでも好きだ。やせこけて、あばら骨も浮きだしている前かがみのキリストや人間たちにつよい共感をおぼえるからである。
ルネサンスは、「人間は偉大である!」と力強く宣言した時代である。それまでの教会と神の権威のもとでは、人間は卑小(ひしょう)でちっぽけな存在でしかなかった。しかし、その小さな存在である人間たちには、現代の私たちのように、自分らが宇宙の最強の生物であるというおごりはなかったにちがいない。
私たちはふたたび、人間はちっぽけな存在である、と考え直してみたい。だが、それがどれほど小さくとも、草の葉の上の一滴の露(つゆ)にも天地の生命は宿(やど)る。生命という言いかたが大げさなら、宇宙の呼吸と言いかえてもいい。
空から降った雨水は樹々の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸いこまれる。そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。やがて渓流(けいりゅう)は川となり、平野を抜けて大河に合流する。
その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁(にご)った水も、汚染(おせん)された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水(あまみず)となって地上に注ぐ。
人間の生命は海からはじまった。人が死ぬということは、月並みなたとえだが、海に還(かえ)る、ということではないのか。生命の海に還り、ふたたびそこから空にのぼっていく。そして雲となり露となり、ふたたび雨となって、また地上への旅がスタートする。
それが私の空想する生命の物語だ。ごくありふれた安易なストーリーにすぎないが、私は最近、本気でそう思うようになった。
人間とは常に物語をつくり、それを信じることで『生老病死』を超えることができるのではないか。
自殺するしかない人は、そうすればよいのだ。死のうとしても死ねないときがあるように、生きようと努力してもそういかない場合もあるからである。だが、大河の一滴として自分を空想するようになったとき、私はなにもわざわざ自分で死ぬことはないと自然に感じられるようになってきたのだ。
『大河の一滴』オーディオブックが配信開始!
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大河の一滴
いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だとあきらめることからはじめよう—―。がんばることに疲れた人々へ静かに語りかける感動の人生論。1998年に大ベストセラーとなり、再び脚光を浴びる注目のエッセイ。