1. Home
  2. 読書
  3. 大河の一滴
  4. 人は死んだらどこへいくのか

大河の一滴

2020.09.03 公開 ポスト

第7回

人は死んだらどこへいくのか五木寛之

濁世(じょくせ)には濁世の生き方がある————。コロナ禍で再注目された累計320万部超の大ロングセラー『大河の一滴』(五木寛之、幻冬舎文庫、1999年刊)から試し読みをお届けします。

*   *   *

ここで少し古風な仏教の話をしてみたい。

鎌倉時代の宗教者であった親鸞は、日本独自の仏教を確立したたぐいまれな思想家でもある。彼は念仏ひと筋という師・法然(ほうねん)の教えに帰依(きえ)することから出発した。

 

しかし、彼の探究した阿弥陀仏(あみだぶつ)信仰は、必ずしも一般にいわれるような一神教的信仰ではないと私は思う。八百万(やおよろず)の神々とはいかなくとも、数多くの仏や菩薩(ぼさつ)の存在を認め、その諸仏のなかから阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏を選んで、その仏ひと筋に帰依(きえ)するという信仰だからである。さらにいえば、むしろ阿弥陀仏という奇特(きとく)な仏のほうから手をさしのべて人びとを迎え入れてくれるのだ、という感覚がつよい。

(写真:iStock.com/lance71)

ところで、世間では仏教とは仏を拝(おが)む宗教だと思われているらしい。そしてその仏とは、仏像であり、仏画であり、目に見えるイメージとして人物化された仏という像であるように思うのがふつうである。

しかし親鸞の教えの核心を直視すれば、必ずしも仏像や仏画が仏ではない。それは補助的な手段である。

特別な修行をしたり、突然なにかの啓示(けいじ)をうけて信仰に目覚めたりするような選ばれた人たちをのぞいて、私たち一般の生活人は神や仏といった目に見えぬ存在を容易に受け入れることがむずかしく、また感情移入することもできない場合が多い。

そこでシンボルとしての仏像や仏画が信仰心を托する対象として生まれてくる。たくさんの物語も作られる。しかし、それは必ずしも宗教の本質ではない。本堂の奥に鎮座まします仏像や仏画は、悩める人々を平安の向こう岸へ送ってくれる船であり、暗いところを照らしてくれる灯(あか)りのようなものだと考えるのが本当だろう。それは迷って生きている私たちに手をさしのべ、手を引いて導いてくれるありがたい存在として感じられる。だからこそ私たちは仏像を拝み、頭を下げ、感謝を捧(ささ)げるのだ。

しかし、そこが目的地ではない。親鸞が思い描く本当の世界、やがて人が導かれる場所は像や絵の向こう側にある浄土という境地である。その存在をありありと感じられるのが、信仰の本質というものだろう。したがって親鸞にはじまり蓮如(れんにょ)がひろめた浄土真宗(じょうどしんしゅう)では、その本尊を「名号(みょうごう)」とさだめた。名号とは六字、または八字、ときに十字の文字を紙に書き、それを拝むのである。「南無阿弥陀仏(なみあみだぶつ)」という六字の名号が多く用いられている。

しかし、字を拝むとはどういうことか。字は言葉をあらわす手段である。とすれば、親鸞の仏とは、南無阿弥陀仏という観念であり、それは具体的な目に見える仏ではないということになる。目に見えないもの。そして無限大のスケールをもつ世界。永遠の時間。いや、時間の観念すら超えたもの。それを阿弥陀という言葉で呼んだ。

「阿弥陀」とはサンスクリットの音を漢字に訳したものである。もともとも「アミターユス」(無限の時間)、そして「アミターバ」(無限の空間・限りない光)という言葉からきているらしい。そして、そのような無限大の存在を人格化・形象化したものとして阿弥陀仏という仏が物語のなかで生みだされてきた。

南無(ナーム)とは、帰命(きみょう)するという意味である。帰命とは、その前にひざまずき、頭をたれ、その手にすべてをまかせ、その存在に合一(ごういつ)する、と誓うことだろう。蓮如はその親鸞の南無=仏に帰命する念仏を一歩進めて、仏との出会いを歓(よろこ)び、感謝する言葉として念仏の意味を人びとにひろめた。

南無阿弥陀仏の解説は、仏教の入門書を読めばどこにでも出てくる。ここでは端的に、または乱暴に結論だけをいう。

地方の年配の人たちのあいだでは、念仏をするときに、「ナムアミダブツ」または「ナモアミダブツ」と全部を正確に発音しない人も多い。「ナマンダブ・ナマンダブ」と念ずる人がふつうで、なかには「ナマンダ・ナマンダ・ナマンダ」と口のなかでつぶやく老人たちも少なくない。

(写真:iStock.com/12781644)

もちろんこれは「南無阿弥陀仏」が変形したものだろう。しかし、「南無阿弥陀仏」とまで言わずに、「ナマンダ」と念ずることで十分に親鸞の真意は伝わっている。親鸞が見つめたのは仏像や仏画ではなく、じつは目には見えない無量・無限の、科学的合理的世界と対立する世界=浄土であったといっていい。そして、世間でいう地獄・極楽というのは、その地点への通過点であると私は考えているのだ。

私は心のなかで合掌(がっしょう)するとき、ごく自然に「ナーム・アミータ」とつぶやいている。ブッディストと自称するのもはばかる我流の親鸞ファンとしては、そのほうがなんとなく自分の気持ちにしっくりくるように感じられるからである。

念仏などという古くさいものが嫌いならば、それをいちいちとなえなくてもいい。「ありがとうございます」でも、「スパシーボ」でも、「グラーチェ」でもかまわない。このひどい世の中で、こうしてなんとか生きているだけでもありがたいと、心のなかで手を合わせて感謝すればいいのだ。

『大河の一滴』オーディオブックが配信開始!

2020年8⽉28⽇(金)より、『大河の一滴』のオーディオブックがAmazon Audibleにて配信開始となります。

オーディオブックとは、作品をプロのナレーターの方に読み上げてもらい、その音声を聞いて楽しむ「耳からする読書」として、ここ数年世の中へ浸透し始めているサービスです。

電車や車での移動時間、家事や運動中など、通常の読書とは違ったタイミング、体験として、読者のみなさまに楽しんでいただけるオーディオブック。この機会にぜひご体験ください。

⇒『大河の一滴』オーディオブックはこちらから(Amazonのサイトへ)

関連書籍

五木寛之『大河の一滴』

いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だとあきらめることからはじめよう——。がんばることに疲れた人々へ静かに語りかける感動の人生論。1998年(単行本)に大ベストセラーとなり、再び脚光を浴びる注目のエッセイ。

{ この記事をシェアする }

大河の一滴

いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だとあきらめることからはじめよう—―。がんばることに疲れた人々へ静かに語りかける感動の人生論。1998年に大ベストセラーとなり、再び脚光を浴びる注目のエッセイ。

バックナンバー

五木寛之

1932年、福岡県生まれ。生後まもなく外地にわたり戦後引き揚げ。早稲田大学露文科中退後、作詞家、ルポライター等を経て「さらばモスクワ愚連隊」でデビュー。横浜市在住。ベストセラー多数。歌謡曲から童謡、CMソングまで自身作詞の作品を厳選したミュージックBOX『歌いながら歩いてきた』が大きな話題に。

この記事を読んだ人へのおすすめ

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP