そのままを見る、感じる、記憶する――。
1975年、高校1年の夏にたったひとりでソ連、東欧を歩いた少年・佐藤優のまっすぐな旅の記録『十五の夏』(幻冬舎文庫、上下巻)からの試し読み。
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■マサル少年のこれまで
「社会主義国で、ホテルをとったり、レストランで食事をすることがこれほど大変とは思わなかった」。「共産圏に入って2日目なのに早く西側へ出たくなった」。プラハでなんとか一泊したあと、ワルシャワへ早めにたつことにした。
空港から帰るとちょうど昼頃だった。まだユースホステルには入ることができない。そこでいつもの食堂で昼食をとることにした。鶏のもも肉のグリルがあるので、それをメインにして、すっかり気に入ったマッシュポテトをつけあわせにした。それからチーズとサラミソーセージとケーキをとった。飲み物はコーヒーとコカ・コーラにした。食事+ケーキ+コーヒーよりもコカ・コーラ1本の値段の方が高い。奇妙な感じがする。
テーブルに座って食事をしていると「ジャパン?」という声をかけられた。
30代くらいの男が4人いる。4人は、たどたどしい英語で話しかけてくる。僕は日本の高校1年生で、東京の少し北の地域からやってきたことなどを身振り、手振りを交えながら伝えた。
感じのいい人たちだ。しばらく話を合わせていると、1人の男が「一緒に俺の家に来ないか」と誘ってきた。
少し不安な気持ちもあったが、社会主義国の治安はいいという。それにこの機会を逃したらポーランド人の日常生活を見ることができないと思った。僕は勇気を出して「イエス」と答えた。
男たちは食堂でミニハンバーグ、ポテトサラダ、サラミソーセージなどを大量に買った。それ以外にも袋に瓶が何本も入っている。飲み物なのだろう。これから何をするのだろうか。僕の胸の中で好奇心が膨らんだ。
食堂のすぐそばにタクシー乗り場がある。タクシーはすべて日本では絶対に見かけることのないオンボロ車だ。旧式のソ連車ボルガのタクシーに乗った。ほんとうは定員オーバーなのであろうが、サロンが広いので、後部のベンチシートに4人が乗った。助手席に乗った男が道を細かく案内する。車は相当の速度で大きな通りを走った。ポーランドでは、いまにも壊れそうなオンボロ車が時速80キロメートルをはるかに超えるようなスピードで走っている。信号は守るが、横断歩道に歩行者が立っていても車が停まることはない。完全な車優先社会だ。
30分くらい車に乗ったであろうか。高層住宅がたくさん集まる地域に着いた。新宿駅西口から甲州街道に沿っていったところに十数階建てのマンションがいくつも建っている場所がある。そのうちの一つが「日ソ友の会」(モスクワ放送のリスナーズクラブ)の事務所だったので、訪ねたことがある。あのマンションのような建物が何十棟も建っている。日本の団地では横長のビルがいくつも並んでいるが、ここはすべて縦長の建物だ。20階を超えるビルもあるかもしれない。こんな地区があることに僕は驚いた。最新の団地なのだろう。しかし、この白い最新式のビルの群とオンボロなタクシーがとてもアンバランスな感じがする。
入口は大きな木の扉で閉ざされている。その横に1から10までの数字が並ぶボタンのついた金属の箱がある。男のうちの一人がボタンを押すと「ジー、ジー」という音が扉の内側からした。鍵が開いたようだ。ボタンを押した男が扉を開けた。僕たち5人は中に入った。すぐ横にエレベーターホールがある。大きなエレベーターと小さなエレベーターがある。ボタンを押すと大きなエレベーターの扉が開いた。僕たちはエレベーターに乗った。男が十何階かのボタンを押すとゴーッという音を立ててエレベーターが動き始めた。
80平方メートルくらいの広さがあるだろうか。日本風に言うと3DKの団地だ。僕が住んでいる2LDKのテラス型団地の倍以上の広さがある。ダイニングキッチンには4人掛けくらいのテーブルがあるが、居間には6人が一緒に食事をとることができる大きなテーブルとソファセットがある。床には幾何学模様のじゅうたんが敷いてある。部屋の中心にはシャンデリアのような電灯がついている。社会主義国の生活水準は低いと聞いていたが、住宅に関しては決して悪くない。
男たちは、キッチンで食事の準備を始めた。僕は窓から街の景色を見ていた。ポーランドとは、「平原の国」という意味だと聞いていたが、地平線が見える。また、この住宅街の近くには大きな工場が見える。
テーブルには、無色透明や琥珀色の液体が入った瓶とそれよりも背の低い瓶が何本も、そしてチーズ、ハム、サラミソーセージ、ミニハンバーグ、ポテトサラダなどが並べられている。
各人の席にショットグラスとコップが並べられた。これから酒盛りが始まるようだ。「僕は未成年なので、酒を飲むことができない」と説明しようと思ったが、「未成年」という英語が出てこない。それにこの男たちも英語はほとんどわからないので、仮に僕が英語で説明したとしても理解できないだろう。
僕は、リンゴの絵が描いてある背の低いボトルを示して、「これを飲みたい」と言った。男の一人がコップにこのリンゴジュースを注いでくれた。それとは別にショットグラスに無色透明の液体を注ぐ。注射のときの脱脂綿の消毒用アルコールのような臭いがする。これを飲むのだろうか。
別の男が立ち上がって何か口上を述べた。ポーランド語なので、何を言っているのか全然わからない。全員が立ち上がって一気にショットグラスをあけた。僕もこの無色透明の液体を飲み込んだ。とりあえず液体を飲み込むことはできたが、次の瞬間にむせてしまった。それから1秒くらいして、胃の上の方から食道にかけて火のような熱いものが上がってきた。僕はリンゴジュースを飲み干した。男たちはその様子を見て、白いチーズのようなものをパンに載せて、手真似で僕に食べろという。食べてみた。何の味もしない。舌触りもチーズというよりも、昔、沖縄で食べた硬い島豆腐のような感じだ。確かにこの白チーズとパンを食べて、少し落ち着いた。
これがウオトカなのだろうか。僕は男たちに、
「ウオトカ? ラッシャン・ドリンク?」
と尋ねた。
男の一人が、紙とボールペンを持ってきて、
VODKA RUSSIA
WODKA POLAND
と書いた。そして、VODKA RUSSIAを二重線で消した。残りの男たちが笑った。
どうも、Wで始まるポーランドのウオトカ(WODKA)がほんもので、Vで始まるロシアのウオトカ(VODKA)はにせものであると言いたいようだ。
この後、僕たちは筆談を交え、いろいろな話をした。その結果、僕が理解したのはだいたい次のようなことだった。
『十五の夏』文庫化
高校一年の夏、僕はたった一人で、ソ連・東欧の旅に出た―—。
1975年の夏休み。少年・佐藤優は、今はなき“東側”で様々な人と出会い、語らい、食べて飲んで考えた。「知の巨人」の原点となる40日間の全記録。15歳のまっすぐな冒険。