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『十五の夏』文庫化

2020.08.31 公開 ポスト

#4 ワルシャワ(ポーランド)

僕はポーランドがすっかり気に入った。生活水準も高そうだし、普通の人々が親日的だ佐藤優

そのままを見る、感じる、記憶する――。
1975年、高校1年の夏にたったひとりでソ連、東欧を歩いた少年・佐藤優のまっすぐな旅の記録『十五の夏』(幻冬舎文庫、上下巻)からの試し読み。

*   *   *

■マサル少年のこれまで
ユースホステル前で声をかけられ、30代くらいの男たちの家へ行った、前回の続き。

この後、僕たちは筆談を交え、いろいろな話をした。その結果、僕が理解したのはだいたい次のようなことだった。

この4人は、小学校から高校までの同級生だ。そのうちの一人でこの家の主人は、ここから見える工場の技師だ。実は、奥さんが妊娠して、いま産院にいる。そして、今日が出産予定日なので、出産の連絡をここで待っているという。

僕が酒に強くないと思ったせいか、男たちは僕のショットグラスにはウオトカではなくリンゴジュースを注ぐ。日本のことや、家族について話せと言うので、紙にときどき絵を描きながら説明した。父は銀行に勤めているが、電気技師で、母は近所の開業医で医療事務を手伝っていることを説明した。2歳下の妹は音楽が好きだと説明した。それから、ミーコという白黒のぶち猫がいると絵を描いて説明した。僕の絵が下手だったせいか、最初、男たちは僕が犬を飼っていると勘違いしたようだったので、僕は猫の鳴き声をまねた。すると男たちが大声で笑った。

白チーズ以外の食べ物はとてもおいしい。サラミも黄色いチーズもミニハンバーグも僕の口に合う。ポテトサラダも日本のサラダとはだいぶちがいグリーンピースがたくさん入っている。おいしい。

僕はポーランドがすっかり気に入った。生活水準も高そうだし、普通の人々が親日的だ。男の一人が「アドミラル・トーゴー」と言って、拳をつくって親指を立てた。「日本海大海戦でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥は偉大な人物だ」と言いたいのであろう。どうもポーランド人の親日感情は、歴史的経緯からポーランド人のほとんどが抱いている反露感情と表裏一体の関係にあるようだ。僕がリンゴジュースを飲み終えたので、男たちは冷蔵庫から薄茶色のオレンジジュースとピーチのネクターを持ってきた。オレンジジュースは少し苦みがあるので、おいしくなかったが、ネクターはこくがあっておいしかった。ただし、不二家のネクターのようにさらさらしていない。ネクターを飲むとかえって喉が渇く。僕は水を頼んだ。瓶に入っている水は炭酸入りだ。僕はコップを持って台所に行き水道の水を飲んだ。

飲み食いをして、騒いでいると電話が鳴った。この家の主人が電話に出た。プラスチックでできたおもちゃのような電話機だ。ダイヤル式だ。ワーッという歓声が起きた。

「ボーイ」

「ボーイ」

と男たちが叫ぶ。そして、股ぐらの急所を指で示した。男の子が生まれたということがわかった。

ウオトカをショットグラスに注いだ。今度は僕のショットグラスにもジュースではなくウオトカを注いだ。「子どもが生まれたお祝いなので、お前も1杯だけつきあえ」という意味なのだろう。こんどはむせないように気合いを入れてショットグラスを空にした。さっきと同じように胃から食道にかけて熱い炎が上がってきた。しかし、むせることはなかった。中学校の番長グループと番長の家や近所のスナックでビールやウイスキーは飲んだことがある。特においしいとは思わなかった。頭がすこしボーッとして、顔が熱くなったことはあるが、胃や食道で炎が暴れたことはない。ウオトカは恐ろしい飲み物だと思った。

たった今、父親となったこの家の主人は僕を強く抱き締めた。男たちは抱き合って涙を流している。父親となるのは重大な意味を持つのだという雰囲気がひしひしと伝わってくる。それと同時に僕が生まれたときに、僕の父もこれくらい喜んだのだろうかと少し考えた。それから、僕の小中学校時代の友だち、いや浦高の友だちでも、将来子どもが生まれるときに、お互いの家に集まって、喜びを共にする者は一人もいないのではないだろうかと思った。

この家の主人が、物置から段ボール箱を持ってきた。ふたを開けると白黒写真がたくさん入っている。それもすべてポルノ写真だ。裸の男女が交合している写真や、女性が男の太いイチモツをくわえている写真もある。黒人男性のイチモツを白人女性がくわえている写真もある。男たちは写真を一枚ずつ僕に見せながら、ときどき「グッド」と言って拳の親指を立てる。ウオトカを飲んだのは初めてだが、それ以前に酒は飲んだことがある。ポルノ写真を見たのは文字通り生まれて初めての経験だ。まさか社会主義国でそのような経験をするとは夢にも思わなかった。

男たちはポーランドの古銭やバッジ、さらに刺繡が入ったテーブルクロスを「ポーランドの思い出に」と言って僕に持たせてくれた。僕はアタッシェケースから、日本製の小型懐中電灯とボールペンを記念に渡した。

男たちのうち2人が夜8時過ぎに再びタクシーで僕をユースホステルまで送ってくれた。ウオトカの酔いが回って足元がおぼつかない。手すりにつかまりながら、自分の部屋にやっとたどり着いた。

東ドイツの大学生とポーランド人の生徒たちはベッドに座って話をしていた。

「どうしたんだ。だいぶアルコールを飲んだのか」と東ドイツの大学生が尋ねた。

「ウオトカを飲んだ」と言って、僕は今日の出来事を詳しく説明した。ただし、ポルノ写真の話はしなかった。

ポーランド人の生徒たちが「戦利品を見せてほしい」と言うので、僕はアタッシェケースを開けてもらってきた古銭、バッジ、テーブルクロスを見せた。

東ドイツの大学生がテーブルクロスを袋から出して、「いい刺繡だ。結構高いよ」と言った。ポーランド人の生徒たちは、バッジに関心を示した。そして緑の台座についた十字になったバッジをとって、僕に見せた。

「このバッジをほんとうにくれたの」

「そうだよ」

「そのとき何か言っていなかった」

記憶を辿ってみた。確かあの新しく父親になった男は、「これは僕にとって、とても大事なバッジだ」と言っていたことを思いだした。そのことを僕はポーランド人の生徒たちに伝えた。

生徒の一人が「そうだろう。これはとくに優秀な生徒だけに与えられるバッジで、一生記念に持っているのが普通だ」と言った。僕はとても申し訳なく思った。同時に、今日、あの4人の男たちは、僕のことを本気で歓待してくれたのだと知った。

日程を変更して、もう少しポーランドに滞在しようかと思った。ただし、ブダペシュトでペンフレンドのフェレンス君と会う約束をしている。それに明後日の飛行機の切符を買ってある。きっと日程を変更する手続きは、切符を買うよりも面倒に違いない。ポーランド・ズロティが大量に余っていて使い切れない。ガイドブックを見るとワルシャワには「上海飯店」という名の中華レストランが1軒だけあるという。あまり期待はできないが、明日の昼か夜に行ってみることにした。

ウオトカが回ったせいか、すぐに眠り込んでしまった。気が付くと朝の7時だ。喉が渇いたので、一階に行った。一階のロビーにはコーヒーや紅茶やジュースが置いてある。ジュースかミネラルウオーターを飲みたかった。

関連書籍

佐藤優『十五の夏 上』

1975年夏。高校合格のご褒美で僕はソ連・東欧を旅した。費用は48万円、3年間の授業料の10倍もかかる。両親には申し訳ないが好奇心を優先した――。カイロ経由でチェコスロバキアからポーランド、ペンフレンドのフィフィ一家が住むハンガリー、ルーマニアを経て、ソ連入国まで。様々な出会いと友情、爽やかな恋の前編。

佐藤優『十五の夏 下』

ソ連国営国際旅行公社の職員と別れ、ホテルに戻った。窓からボリショイ劇場とクレムリンの赤い星がうっすら見える。寝付けずに数学の問題集を解いていたら、朝8時になっていた――。モスクワを歩き、同じソ連でも別世界の中央アジアへ。帰路のバイカル号では不思議な「授業」が待っていた……。少年を「佐藤優」たらしめた全40日間の旅の記録。

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『十五の夏』文庫化

高校一年の夏、僕はたった一人で、ソ連・東欧の旅に出た―—。

1975年の夏休み。少年・佐藤優は、今はなき“東側”で様々な人と出会い、語らい、食べて飲んで考えた。「知の巨人」の原点となる40日間の全記録。15歳のまっすぐな冒険。

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佐藤優

作家・元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務等を経て、国際情報局分析第一課主任分析官として活躍。2002年背任等の容疑で逮捕、起訴され、09年上告棄却で執行猶予確定。13年に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。著書に『国家の罠』(毎日出版文化賞特別賞受賞)、『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞)、『私のマルクス』『先生と私』などがある。

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