そのままを見る、感じる、記憶する――。
1975年、高校1年の夏にたったひとりでソ連、東欧を歩いた少年・佐藤優のまっすぐな旅の記録『十五の夏』(幻冬舎文庫、上下巻)からの試し読み。
* * *
■マサル少年のこれまで
ようやく会えたフィフィやフィフィの友だちらとバラトン湖へ。前回の続き。
朝食を食べ終えるとすぐにフィフィの友だちがやってきた。フィフィと背丈は同じくらいだが、痩せている。大きなリュックサックを背負っているので、倒れそうだ。フィフィも自分の部屋から大きなリュックサックを取り出してきた。
「マサルのために新しい寝袋を買った」とフィフィが言った。
3人でヨーゼフ大通りに出て、2両連結の大きなバスに乗った。大宮でいつも乗っている東武バスと比較しても、立派で音も静かだ。乗り心地もいい。切符は郊外電車と共通で、自分で検札機に入れて穴をあける。
フィフィが、「このバスはどの国で作っているか知っているか」と言った。僕は「知らない」と答えた。
「ハンガリーで作っている。イカルスという名前だ」
「イカルス?」
「ギリシア神話に出てくる。イカルスは迷宮に閉じ込められるが、鳥の羽と蠟で翼を作って大空に飛びたつ。しかし、高く飛びすぎて、太陽の熱で蠟が溶けて、墜落してしまった」
「その神話なら聞いたことがある」
「でも、空高く飛ぶと、気温は低くなるので、蠟が溶けてしまうことはない。おかしな話だと思わないか」
「そう思う」と僕は答えた。
以前、フィフィは手紙で、学校の勉強は、歴史や地理よりも、生物や物理が好きだと書いていた。大学では生物を勉強したいと言っていた。理科系が好きだから、イカルスの話でも、合理的に詰めて考えるのだろう。
フィフィは、「これはハンガリーが世界に誇るバスなんだ。ロシア人には作れない」と自慢する。
フィフィの友だちも英語で僕に「ハンガリーに来る前は、どこに行ったの」と話しかけてきた。僕は、エジプト、スイス、西ドイツ、チェコスロバキア、ポーランドを経由してハンガリーに来たという話をした。フィフィも友だちも、チェコスロバキアとポーランドには旅行した経験があるということだった。
「西ドイツやオーストリアに行きたいな」と友だちが言った。
「難しいのか」と僕が尋ねると、友だちは、「誰か招待してくれる人がいれば、旅行できる。しかし、観光目的では難しい」と答えた。
フィフィが、「でもユーゴスラビアには自由に行ける。あそこは半分、資本主義国のようなものだ。もうすぐオーストリアやドイツにも行けるようになるよ」と言った。
バスに乗って15分くらいで南駅に着いた。切符売り場に行列はなく、すぐに乗車券と急行券を買うことができた。ただし、列車はひどく混んでいた。コンパートメントは8人掛けになっているが、詰めて10人が座っている。廊下には立ったままの人も多い。急行列車だというのにスピードが遅い。ブダペシュトから150キロメートルほど離れたバラトン湖畔のバラトンレーレ駅まで3時間もかかった。
湖は駅のすぐそばだ。白い砂浜が広がっている。琵琶湖畔の近江舞子の浜辺に似ている。ここに巨大なキャンプ場がある。キャンプ場は柵で囲われていて、入場料を払って、利用券を発行してもらう。
フィフィと友だちは、器用にテントを組み立てた。5~6人用のテントなので、3人だとかなりゆったり使うことができる。
「日本では、テントを使ってキャンプをすることがあるか」とフィフィの友人が尋ねた。
「あるよ。ただ、僕はテントで泊まった経験は一度しかない。小学5年生の夏休みのことだった。同級生がテントを買ったので、その家の庭で1泊した。興奮して一晩中話していたので、疲れてしまい、翌朝、家に帰って寝た」
「山や海でキャンプしたことはあるか」
「ない。僕はキャンプよりもユースホステルの方が好きだ」
「日本にもユースホステルがあるのか」
「あるよ」
僕は、ユースホステルを使って北海道や伊豆大島を旅行した話をした。フィフィも友だちも、海の話を聞きたがった。僕が、伊豆大島の三原山に登って、火口のそばまで行った話をしたら、2人は目を輝かせた。
「しかし、規則が厳しくないか」とフィフィが尋ねた。
「10時から3時までは、ユースホステルの中にとどまれない。門限は夜の10時だけれど、そんなに窮屈じゃないよ」
「ビールもワインも飲めないだろう」
「アルコールは禁止だ。そもそも日本では20歳まで酒もタバコも禁止されているので、僕には関係ない」
「マサルはビールを飲まないのか」
「飲まない」
「僕は15歳のときはビールを飲んでいた」とフィフィが言った。すると「だから太っているんだ」と友だちが茶々を入れた。
フィフィが、「湖で少し泳いでから、食料を買い出しに行こう。ビールも買わないと」と言った。
海水パンツに着替えた後、僕が腕時計を外すとフィフィが不思議な顔をした。
「マサルの時計は、防水じゃないのか」
「防水時計だけど、泳ぐときは外す」
「僕たちは、つけたまま泳ぐ」
「腕時計を見せて」と僕が尋ねた。フィフィが腕時計を外して見せてくれた。知らないメーカーだ。
「ハンガリー製?」
「いや、2つともスイス製だ」
いかつい造りだ。水中使用ができるスポーツウオッチのようだ。
「店でスイス製の腕時計を売っているの」
「もちろん売っていない。父から貰った」
「僕の腕時計は、フィフィのものよりは劣るがスイス製だ。水中使用ができる。僕も誕生日のプレゼントで両親から貰った」と友だちが言った。
店で売っていないスイス製の腕時計をどこで手に入れるのだろうか。
「この腕時計はブラックマーケット(闇市場)で手に入れたのか」と僕は尋ねた。
「いや、闇市場ではなく、オーストリアや西ドイツに出張する人に頼んで買ってきてもらった。国外出張証明書さえあれば、フォリントは、銀行でドルや西ドイツ・マルクに簡単に替えられる。だから、ハンガリーには闇両替人がいない」
そういえば、プラハやワルシャワでは、闇両替人から「ドルを売らないか」とよく声をかけられたが、ブダペシュトでそういう経験は文字通り一度もなかった。
「中学校では、腕時計をして学校に行くことは禁止されていた。それでもみんな腕時計は持っていた。高校には腕時計をしていくけれど、僕の友だちで防水機能のついた腕時計を持っている人はいない」
「驚いた。日本人はみんな防水機能つきのスポーツウオッチを持っていると僕は思っていた」とフィフィは言った。
3人で一泳ぎした。海と違って淡水なので、浮力があまりつかない。水も塩辛くないが、浜辺は白砂なので不思議な感じがする。近江舞子の水泳場を思い出した。
陸に上がったときにキーンと空を切り裂くような音がした。僕は思わず空を見上げた。灰色のジェット機が1機、飛んでいた。
「ミグ23だ。このそばにハンガリー軍とソ連軍の基地がある。実は僕ももうすぐ徴兵で軍隊に行かないとならない」とフィフィが言った。
「どれくらいの期間行くの」
「1年弱だ。大学に入学するためには、兵役を先に終えておいた方がいい」
「日本には徴兵制はない」
「羨ましいな。軍隊には行きたくない」
「そうすると、軍隊に行っている間は、僕との文通もできないね」
「外国人からの手紙が軍隊に転送されると面倒だ。うまい方法を考える」と言って、フィフィはしばらく沈黙した。
「お腹が空いた。早く食料を買いに行こう」と友だちが言った。
キャンプ場の中にスーパーマーケットがある。そこで僕たちは、ライ麦パン、白パン、バター、サラミソーセージ、ハム、チーズ、トマト、キュウリ、リンゴ、オレンジ、パプリカ、ピクルスの瓶詰め、それにビール、ジュースとミネラルウオーター、チョコレートとビスケットを買い込んだ。フィフィが何種類ものパプリカを買い込むのを僕は眺めていた。
「パプリカが珍しいか。日本にはないのか」
「日本にもあるけれど、緑色だ。それにこんなに大きくない」
「緑色のパプリカはとても辛いので、あまり使わない。いずれにせよハンガリー人はパプリカなしに生きていくことができない」
それにしても真っ赤、真っ黄色の大きなパプリカは不気味な感じがする。日本では、東欧社会主義国は物資が欠乏しているという話ばかりを聞いたが、このスーパーマーケットは、僕の母がいつも買い物をする前原フードセンターよりも充実している。フィフィのアパートもきれいで広いし、ハンガリーの生活水準は日本よりも高いかもしれない。
3人で食料品の入った紙袋を抱えてテントに戻ると、テントの前に男が立っている。60歳くらいだ。恐い目をして僕たちをにらみつけて、ハンガリー語で早口でまくしたてる。フィフィが英語で「ノー、アイ・ドント・アンダスタンド・ハンガリアン」と答える。外国人の振りをしているようだ。男がドイツ語で何か言い始めた。フィフィもドイツ語でやりとりしている。
男は、「ティーズ・フォリント、ティーズ・フォリント」と繰り返している。何かお金のことが問題になっているのだろうか。
「どうしたの。何かトラブルが起きたの」と僕はフィフィに尋ねた。
「トラブルといえば、そうだけど。このおじさんが、この場所は俺がテントを張るためにとっていたので、1人10フォリント払えと言っている」
「ほんとうにこのおじさんがここに張ろうとしていたの」
「多分、違うと思う。マサルがいるから、僕たちが外国人のグループだと思ってカネを騙し取れると思っているのだろう」
「面倒だから払っちゃったら。僕が払ってもいい」
「マサル、それはダメだ。理不尽な要求に従ったらいけない。そうだ、マサル、頼みがある。何でもいいから日本語で、このおじさんに話しかけてくれ。そうすれば気味が悪くなって、このおじさんは退散してくれる」
僕は、思いつく適当な日本語を、少しとげとげしい調子で話した。フィフィの予想通り、おじさんは退散した。
「マサルは何を話したの」とフィフィが尋ねた。
「安い中華料理屋に行って、注文したラーメンがなかなか出てこないのでクレームをつけている状況を思い浮かべて話した。『おじさん、僕はもう30分も待っているんだよ。他の人のラーメンやチャーハンはとっくに出てきた。注文が通っていないんじゃないの。きちんと調べてよ』と日本語で話した」
フィフィと友だちは、腹をかかえて笑った。
「食堂の苦情のようには聞こえなかった。何か、悪魔が呪いの言葉を吐いているようだった。あのおじさんもきっと驚いたことと思う」
「フィフィ、あのおじさんは、いったい何をしているんだろう」
「多分、このキャンプ場の管理事務所で働いている。警備と清掃を担当しているのだと思う」
「しかし、警備担当者が客にカネを要求したらダメじゃないか」
「カネを渡して、よい場所を見つけてくれと頼む客がいるのも事実だから、ああいう小遣い稼ぎをするのだと思う。年金生活者だから少し小遣いが欲しいのだろう。悪く思わないでくれ」
「それだったら30フォリントくらいあげてもよかったじゃないか」
「いや、カネの問題じゃなくて、あのおじさんの要求が理不尽だから、僕たちは拒絶した。それに外国人の振りをしてみるのも面白い」と言って、フィフィは笑った。
フィフィが慣れた手つきで簡易コンロに火をつけてコーヒーをいれてくれた。簡易テーブルの上に、ナイフでパン、野菜、ハム、サラミソーセージをきれいに切り分けて、夕食の準備ができた。
「今日は、昼食抜きになってしまった。それから、温かい料理がなくて済まない。ピクニックではだいたい冷たい食事になる」
「別に気にしていない。おいしいよ。ハンガリー産のピクルスとジャムは、日本でも売っている。でもこのピクルスの方が、酸っぱくなくておいしい」
周囲を見ると高校生、大学生のグループや家族連れが、簡易テーブルの上に、同じような冷たい食材を並べて夕食をとっている。みんな楽しそうだ。
「野外ディスコに行こう」とフィフィが言った。僕は踊ったことがない。「嫌だな」と思ったが、口に出すことができず、フィフィたちについていった。もちろん野外ディスコがどういうものか覗いてみたいという好奇心もあった。
『十五の夏』文庫化
高校一年の夏、僕はたった一人で、ソ連・東欧の旅に出た―—。
1975年の夏休み。少年・佐藤優は、今はなき“東側”で様々な人と出会い、語らい、食べて飲んで考えた。「知の巨人」の原点となる40日間の全記録。15歳のまっすぐな冒険。